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第7話 「商売敵の出現」前半

 朝の光が店先を照らす中、お春は珈琲豆を選別していた。一粒一粒を手に取り、形や色艶を確かめる作業は、もはや日課となっている。


 しかし、今朝は何かが決定的に違った。


 空気が重い。まるで嵐の前の静けさのように、町全体を不穏な雰囲気が覆っている。通りを歩く人々の足音が異常に急いており、立ち話をする商人たちの声も緊張で上擦っている。普段なら気軽に挨拶を交わす近所の人たちが、今日は明らかに避けるように足早に通り過ぎていく。


 そして何より異様なのは、視線だった。


 まるで疫病患者でも見るような、恐怖と嫌悪の入り混じった目つきで店を見つめていく人々。その視線が肌に突き刺さるようで、お春は思わず身震いした。


「おかしいですね」


 お松が心配そうに呟いた。朝の掃除を終えて店先に立っているが、いつもの温かな挨拶が一つも返ってこない。それどころか、人々は店の前を通る時、わざわざ道の反対側を歩いている。まるで何か恐ろしい疫病でも流行っているかのような光景だった。


「まるで私たちが何か悪いことでもしたような」


 お春も首をかしげた。胸の奥に、氷のような嫌な予感がじわりと広がってくる。前世でカフェを経営していた時も、競合店の策略やネガティブキャンペーンに巻き込まれたことがあった。あの時の、世界が敵に回ったような絶望感が蘇ってくる。


 昨日までは確実に順調だった。午後の珈琲会も大盛況で、女性客も着実に増えていた。甚兵衛との協力関係も深まり、珈琲饅頭の評判も町中に広がっていたはずなのに。


 一体何が起こったのか。


 その時、瓦版売りの新助が息を切らして走ってきた。いつもの元気な笑顔は完全に消え失せ、顔は紙のように青白い。手に持った瓦版が激しく震え、足音も普段の軽やかさを失ってよろめいている。


「お春さん、お春さん」


 声も震えていた。普段の商売人らしい勢いが、まるで魂を抜かれたように失われている。


「どうしたの、新助」


「これを、これを見てください」


 差し出された瓦版を受け取った瞬間、お春の血の気が一気に引いた。まるで氷水を頭からかぶったような衝撃が全身を駆け抜ける。


『珈琲茶屋に異変あり 南蛮の毒薬か 医師ら警鐘鳴らす』


 大きな見出しが、雷のように目に飛び込んできた。文字が踊って見える。手が激しく震える。田中美咲として生きた前世でも、理不尽な攻撃を受けたことがあったが、法的手段や反論の場があった。しかし、この江戸時代では瓦版が全てだ。これに書かれたことが真実として人々に受け入れられてしまう。


「これは一体」


 震える手で記事を読み進める。一字一句が、心臓に氷の矢を突き刺してくる。


『日本橋の珈琲茶屋にて、南蛮渡来の珈琲なる飲み物を出しているが、これに毒性があるとの疑いが持たれている。ある医師によると、「苦味の強い薬湯は内臓を傷つける恐れがある」とのこと。また、「異国の飲み物を常飲することで、日本人の体質に害をなす可能性もある」と警告している。さらに「女子が集まって怪しげな薬を飲むのは風俗を乱す」との声も上がっており、町役人も事態を重く見ているとのことである』


 瓦版がお春の手からひらりと落ちた。風に舞って、石畳の上で無残に転がる。その瞬間、お春の築き上げてきた全てが崩れ落ちる音が聞こえた気がした。


「そんな、嘘です」


 声が裏返っている。珈琲に毒性などあるはずがない。前世で何年も飲み続け、数え切れないほどの客に提供してきた。医学的にも安全性は証明されているのに。


「誰が、誰がこんなことを」


 涙が込み上げてくる。築き上げてきた信頼が、一夜にして瓦礫となって崩れ去ろうとしている。


 新助が申し訳なさそうに俯いた。


「詳しいことは分からないんです。でも、昨日の夕方から、こんな噂が町中に広がって。他の瓦版売りも同じ記事を配ってまして」


 組織的な動きだ。お春の胸に、溶鉱炉のような怒りが煮えたぎった。


 その日の午前中、客は一人も来なかった。


 普段なら朝一番に顔を出す柳田玄白の姿もない。午後の珈琲会を心待ちにしていた女性客たちからも、音沙汰がない。それどころか、予約をしていた商人の客からも、急な取り消しが相次いだ。理由はどれも同じ—「体調不良のため」。


 店の前を通る人々の視線が、今度ははっきりと敵意を孕んだものに変わっていた。


「あそこが例の毒の店か」


「恐ろしいことじゃ」


「娘を近づけてはならぬ」


「南蛮の魔術でも使っているのでは」


 針で刺されるような視線と共に、ひそひそ話が容赦なく耳に届く。お春は奥歯を噛みしめた。悔しさと怒りと絶望が、胸の奥で竜巻のように渦巻いている。


 昼過ぎ、ついに店の前に人影が現れた。


 しかし、それは客ではなかった。


 五十歳前後の男性で、上等な絹の着物を身に纏っている。商人らしい貫禄があるが、その表情は氷山のように冷たく、明確な敵意に満ちていた。腰には立派な印籠を下げ、成功した商人の余裕を漂わせている。しかし、その余裕の奥に何か切迫したもの—老舗の地位が脅かされることへの恐怖を感じさせた。


「こちらが噂の珈琲茶屋かな」


 男性の声には、氷を砕いたような冷たさと、明らかな皮肉が込められていた。しかし、よく聞くとその声にわずかな震えがある。強がってはいるが、内心では何かに怯えているのかもしれない。


「はい。いらっしゃいませ」


 お春は震え声を押し殺して答えた。背筋を伸ばし、負けるものかと心に言い聞かせる。

「私は松葉屋権三と申す。この界隈で茶屋を営んでおる」


 松葉屋。お春の記憶の中で、その名前が鐘のように重く響いた。日本橋では三代続く老舗の茶屋として知られ、多くの常連客を抱える格式ある店だ。だが近年、新しい店に客を奪われ、経営が苦しくなっているという噂も耳にしていた。


 権三の顔をよく見ると、目の下に深い隈があり、頬もこけている。表面上の余裕とは裏腹に、実際は追い詰められているのではないだろうか。


「ご挨拶が遅れまして」


「いやいや、遅くはない」


 権三の口元に、刃物のような薄い笑いが浮かんだ。しかし、その笑いは目には届いておらず、むしろ目の奥には焦燥感が宿っている。


「むしろ早すぎたくらいじゃ。南蛮の怪しげな飲み物で、江戸の人々を惑わせる前にな」


 お春の胸に、マグマのような怒りが噴き上がった。この人が。この人が噂の出所なのか。


「珈琲は毒ではございません。多くのお客様に喜んでいただいております」


「喜ぶ?」


 権三が鼻で笑った。その笑い声には、長年商売を続けてきた者の傲慢さが滲んでいる。だが同時に、新参者に脅かされることへの危機感も垣間見えた。拳を握る手が、わずかに震えているのをお春は見逃さなかった。


「苦い薬湯を飲んで喜ぶとは、よほど変わった趣味をお持ちじゃな。我が松葉屋では、代々受け継がれた正統な茶を出しておる」


 権三の目に、計算高い光が宿ったが、その奥には老舗が新参者に脅かされることへの深い恐怖も感じられた。声に力を込めているが、額には汗が滲んでいる。


「それに、儂らのような古い商いをしている者から言わせれば」


 権三は店内を見回し、わざとらしく鼻を鳴らした。しかし、その視線は店の設えを細かく観察している。本当は、この店の成功を羨んでいるのではないだろうか。


「所詮は物珍しさだけの商売よ。江戸の人々は、結局は馴染みのある味に戻っていく」


 その言葉の裏に、権三自身の不安が隠されているのを、お春は感じ取った。老舗であることの誇りと、新しい流れに取り残される恐怖。それが彼をこんな手段に走らせたのかもしれない。


 その時、店の奥から春之助が現れた。娘の様子がおかしいことに気付いて、心配になって出てきたのだろう。


「お客様でございますか」


「いえいえ、お客ではない」


 権三は春之助を見下すような視線を向けた。没落した商人への軽蔑が、あからさまに表情に浮かんでいる。しかし、その軽蔑の奥に、自分も同じ運命を辿るかもしれないという恐怖が隠れているようだった。


「同業者として、忠告に参ったのじゃ」


「忠告と申しますと」


「その珈琲とやらは、やめた方がよろしかろう」


 権三の声に、脅しに近いものが込められていた。握りこぶしを作った手に、商売での勝負に慣れた者の冷酷さがある。だが、その手もわずかに震えているのを、お春は見逃さなかった。


「江戸の人々は、伝統的な茶を好む。南蛮の奇怪な飲み物など、根付くはずがない」


 お春の手が、知らぬ間に拳になっていた。この人が。この人が噂を流したのだ。


「それに」


 権三は振り返って、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だが、その笑みの奥に一抹の不安があることを、お春は感じ取った。


「毒の噂が立った店で、誰が飲み物を注文するかな」


 権三が去っていく後ろ姿を、お春は怒りと絶望で見つめていた。しかし、その背中からは老舗の威厳ではなく、追い詰められた一人の商人の哀しみが感じられた。完敗だった。商売の世界の厳しさを、まざまざと見せつけられた。


 それから三日間、客は誰一人として現れなかった。


 座卓は空のままで、用意した珈琲も冷めていく。茶碗に映る自分の顔が、やけに小さく見えた。借金取りからの催促も厳しくなってきた。このままでは本当に店を畳むしかない。


「お嬢様」


 お松が心配そうに声をかける。


「きっと、誤解は解けます。珈琲の素晴らしさを知っている方々が、必ず」


「でも、どうやって」


 お春の声は力ない。喉の奥が詰まって、うまく言葉が出ない。


「このまま客が来なければ、店は」


 父の借金のことが頭をよぎる。せっかく軌道に乗り始めた商売が、こんな形で終わってしまうのだろうか。前世では、SNSで正確な情報を発信したり、メディアに対抗することもできた。だが、この時代では瓦版が全てだ。


 膝に顔を埋めたお春の耳に、複数の足音が聞こえてきた。


 顔を上げると、柳田玄白を先頭に、津川、木村、佐藤の医師たちがやってきた。表情は皆、雷雲のように深刻だった。しかし、その目には強い決意の光が宿っている。


「お春殿、大変なことになっておりますな」


 玄白の表情は真剣だった。普段の穏やかな雰囲気とは違う、医師としての使命感に燃えた顔をしている。


「瓦版の記事、拝見いたしました」


「先生方」


 お春の目に、涙が滲んできた。こんな時に来てくれるなんて。


「あの記事は嘘です。珈琲に毒性などございません」


「もちろんです」


 津川が拳を握りしめ、激しい憤りを露わにした。


「我々医師が、毒性のある飲み物を勧めるはずがない。あの記事は明らかに作為的なものです。『ある医師』など、我々の中に誰もそのような発言をした者はおりません」


 木村も憤慨している。眼鏡の奥の目が怒りに燃えていた。


「記事では『医師ら警鐘鳴らす』とありますが、我々は全く関知しておりません。我々の名前を勝手に使って、卑劣極まりない手段です」


 佐藤が前に出た。小柄な体から、大きな決意が感じられる。


「お春殿、我々で対策を考えましょう。このままでは、珈琲の真の価値が理解されないまま終わってしまいます。それは医学の発展にとっても大きな損失です」


 お春は涙を拭った。胸に温かなものが広がってくる。一人ではない。こんなに心強い味方がいる。


「ありがとうございます」


「まず必要なのは、珈琲の効能を正しく人々に伝えることです」


 玄白が提案した。その目には、医師としての責任感が燃えている。


「公開の場で、珈琲の薬効を実演してはいかがでしょうか」


「実演?」


「はい。寺子屋を借りて、『珈琲講』を開催するのです」


 津川の目が星のように輝いた。


「珈琲の歴史、効能、正しい飲み方を説明し、実際に飲んでもらう。多くの人に集まってもらって、誤解を根本から解くのです」


 お春の胸に、暗闇を切り裂く一筋の光が差し込んだ。前世で培った知識が、今こそ役に立つ。


「それは素晴らしい考えです。私も、前世で学んだ」


 口が滑りそうになって、慌てて言い直す。


「夢で教えられた知識を、皆様にお伝えできます」


「では、準備を始めましょう」


 医師たちの協力で、翌日から『珈琲講』の準備が始まった。


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