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第6話 「甘味開発」

「いらっしゃいませ」


 お春は丁寧に頭を下げたが、胸の奥で電流のような緊張が走った。店の入り口に立つ男性の威圧感が、空気を一変させていた。


 六十歳ほどで、まるで石像のように動かない。日に焼けた手は小麦粉で真っ白に染まり、着物の袖から甘い粉の香りが濃厚に漂う。しかし、その佇まいからは長年の経験に裏打ちされた威厳と、何かを値踏みするような鋭い視線が感じられた。


「珈琲茶屋とやら、評判を聞いてな」


 男性の声は低く重く、まるで地の底から響いてくるような響きがあった。鋭い目つきで店内を舐め回すように見回し、座卓や茶碗を一つ一つ品定めしている。まるで一流の職人が道具の良し悪しを見極めるような、容赦のない眼差しだった。


 お春の背筋に冷たい汗が伝う。この人は只者ではない。


「はい。お春と申します」


 声が震えそうになるのを必死に抑える。


「亀屋の甚兵衛じゃ」


 その瞬間、お春の心臓が激しく跳ね上がった。亀屋—日本橋でも指折りの老舗和菓子店の名前が、頭の中で鐘のように響く。甚兵衛の名は、商人の娘であるお春の記憶にも深く刻まれていた。まさか、あの名店の主人が自分のような小さな茶屋に足を運ぶとは。


 甚兵衛は重々しく座布団に腰を下ろすと、懐から絹に包まれた小さな包みをそっと取り出した。まるで宝物でも扱うような慎重さで。


「これを見てもらいたくてな」


 包みを開いた瞬間、上品で繊細な甘い香りが春風のように漂った。現れたのは、桜の花びらを忠実に模した薄紅色の生菓子だった。一枚一枚の花びらに施された細工は神業的で、今にも風に舞い散りそうな美しさを湛えている。職人の魂が宿った、まさに芸術品だった。


 しかし、甚兵衛の顔には刻み込まれたような深い皺があった。


「春の菓子としては上出来じゃ。だが、もう夏が近づいておる」


 甚兵衛は和菓子を指先でそっとつまんで眺めた。愛おしそうな、それでいて諦めにも似た複雑な表情を浮かべている。職人としての誇りと、商売人としての現実に挟まれた苦悩が、その表情に痛いほど刻まれていた。


「季節が変われば、客の求めるものも変わる。新しい味を作らねば、商売が立ち行かぬ」


 その言葉の重みが、お春の胸に石のように沈んだ。七輪の上で豆がパチパチと弾ける音が響く中、田中美咲として前世で経験したカフェ経営の記憶が鮮明に蘇る。季節ごとにメニューを変え、常に新しい味を追求し続けた日々。その苦労と喜び、そして時には絶望も味わった。甚兵衛もまた、同じ道を歩んでいるのだ。


 甚兵衛の鼻がぴくりと動いた。


「なるほど、これが珈琲か」


 茶碗を差し出すと、甚兵衛は職人らしい慎重さで受け取る。湯気に顔を近づけ、まず香りを深く吸い込んでから、そっと唇をつけた。


 最初は眉をひそめたが、だんだんと表情が変わってくる。驚きと、そして何かを見つけたような探究の色が目に宿った。職人としての本能が、新しい可能性を感じ取っているのがありありと分かる。


「苦いが、後味は良いな。これなら確かに頭も冴えよう」


 しかし、甚兵衛は茶碗を置いてゆっくりと首を振った。


「だが、女子には厳しいのではないか。この苦味は」


 その瞬間、お春の心に稲妻のような閃きが走った。前世のカフェ経営で培った経験が、記憶の奥から津波のように押し寄せてくる。珈琲の苦味を和らげる方法—ミルク、砂糖、シロップ、そして何より、甘いお菓子との組み合わせ。しかし、この江戸時代なら、まだ誰も試していない革新的な組み合わせがあるはずだ。


「甚兵衛さん」


 お春の声には、抑えきれない興奮と期待が込められていた。心臓が太鼓のように激しく鳴るのを感じながら、思い切って口を開く。


「お願いがございます」


「何じゃ」


 甚兵衛の目が鋭く光った。まるで獲物を狙う鷹のような眼差しで。


「珈琲に合う甘い物を、一緒に作っていただけませんでしょうか」


「珈琲に合う菓子、じゃと」


 甚兵衛の声に、かすかな興味の色が混じった。


「はい。珈琲の苦味を引き立てながら、同時に和らげるような」


 静寂が店内を支配した。甚兵衛は腕を組み、指で肘をとんとんと叩きながら考え込んでいる。その単調な音だけが、張り詰めた空気の中で響いていた。お春は息を詰めて、運命を決める答えを待った。


 やがて、甚兵衛の硬い口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「面白い。やってみよう」


 お春の胸に、温かな希望の光が一気に広がった。


 その時、店の入り口に控えめな人影が見えた。振り返ると、二十歳前後の若い女性が遠慮がちに立っている。甚兵衛によく似た目鼻立ちで、手には竹籠を大切そうに抱えていた。中から漂う香りは、確実に菓子作りの上質な材料のものだった。


「父上、お客様でございますか」


 声も仕草も、どこか雲のように柔らかで上品だった。父親の石のような硬さとは正反対の、温かな雰囲気を身に纏っている。


「おお、お菊。良いところに来た」


 甚兵衛の硬い表情が、娘を見ると途端に春のように温かくなった。職人としての威厳が、父親としての深い愛情に瞬時に変わる瞬間だった。


「お春殿、こちらは娘のお菊じゃ。菓子作りの才があってな」


 お菊は恥ずかしそうに頭を下げる。その手を見ると、確かに菓子職人のものだった。指先は繊細で器用そうで、粉を扱い慣れた美しい形をしている。爪は短く切り揃えられ、清潔そのものだった。


「お菊さん、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ。珍しいお菓子を作るのでございますか」


 お菊の声は父親とは対照的に風鈴のように涼やかで、聞いているだけで心が和んだ。その瞳には、新しいものへの好奇心と、職人としての真摯な探究心が美しく輝いている。


「それでは早速、試してみましょうか」


 お春は台所の準備を整えた。甚兵衛とお菊が持参した材料を並べると、つやつやと光る上質な小豆あん、雪のように白い白玉粉、透明感のある葛粉、そして貴重な砂糖が揃った。どれも最高級の品ばかりで、さすが老舗の材料だと感心する。


「まず、珈琲を餡に混ぜてみてはいかがでしょう」


 お春の提案に、お菊の目がぱっと星のように輝いた。


「珍しいお考えですね。やってみましょう」


 お菊の手つきは見事だった。小豆あんを火にかけ、木べらで愛おしむように丁寧にかき混ぜながら、お春が淹れた濃いめの珈琲を雫のように少しずつ加えていく。その所作一つ一つに、長年の修練と菓子への愛情が感じられた。


「あ」


 お菊が小さく驚いた声を上げた。


「香りが変わりました」


 確かに、餡の甘い匂いに珈琲の香ばしさが混じって、今まで嗅いだことのない複雑で豊かな香りが立ち上がっていた。まるで夜明けの森のような、神秘的で奥深い香りだった。


 甚兵衛も身を乗り出す。


「ほう、これは面白い香りじゃ」


 白玉粉を水でよく練って、珈琲餡を丁寧に包んでみる。蒸し上がった最初の試作品を、三人で息を詰めて味わった。


 しかし。


「うーん」


 甚兵衛が深いため息と共に唸った。お菊も困ったように首をかしげている。お春の心に、冷たい不安が忍び込んできた。


 最初は甘さが勝っているが、噛むほどに珈琲の苦味がじんわりと、まるで後から追いかけてくるように広がってくる。決して悪くはないが、何かが決定的に足りない。二つの味が互いを理解し合えずに喧嘩をしているような、そんな残念な印象だった。


「惜しいな」


 甚兵衛が深く眉をひそめた。


「珈琲の味が後から来すぎる。もっと一体になるような」


 お春の胸に、重い挫折感がずしりとのしかかった。前世でも、新しいメニュー開発で何度も壁に突き当たった。その時の苦い記憶が、傷のように蘇ってくる。やはり、そう簡単にはいかないのだ。


 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。


 お春は必死に考えた。前世の記憶を隅々まで辿りながら、別のアプローチを模索する。珈琲豆を粉末にして生地に練り込む方法、抽出の濃度を変える方法、焙煎の度合いを調整する方法—。


「今度は、珈琲を粉にしてみてはいかがでしょう」


 焙煎した豆をすり鉢で念入りに砕く。細かな粉末になるまで、三人で交代しながら擦り続けた。手首が痛くなるほどの地道な作業だったが、誰も文句を言わなかった。お菊は黙々と作業に集中し、甚兵衛は職人らしい執念を目に宿している。


 その珈琲粉を、今度は餡ではなく白玉粉と一緒に混ぜてみる。


「これは」


 お菊が驚いた声を上げた。


 生地自体が美しい薄い茶色に染まり、珈琲の香りが全体に馴染んでいる。まるで豊穣な大地のような、温かみのある色合いだった。今度こそ、うまくいくかもしれない。


 この生地で甘い餡を包み、蒸篭で丁寧に蒸し上げる。蒸気が立ち上る間、三人とも息を詰めて祈るように待った。お春の心臓は、期待と不安で嵐のように激しく鼓動を打っている。


 やがて出来上がったのは、外側が薄茶色で、ほんのりと珈琲の香りを纏った美しい饅頭だった。


「いただきます」


 三人同時に口に入れる。


 瞬間、甚兵衛の目が見開かれた。


「これじゃ」


 その声には、深い感動と驚嘆が込められていた。お春も、お菊も、同時に息を呑んだ。


 外側の皮からほのかな珈琲の香りと苦味が広がり、内側の甘い餡と奇跡のように溶け合っている。苦味が甘味を引き立て、甘味が苦味を優しく包み込む。口の中で天上の音楽のように踊るような、今まで体験したことのない完璧な調和だった。


「素晴らしゅうございます」


 お菊も頬を紅潮させている。目を閉じて、まるで宝石でも味わうようにじっくりと堪能している。


「珈琲の苦味が甘味を引き立てて、甘味が苦味を優しく包んで。まるで、男女が寄り添うような」


「まさに、求めていた味じゃ」


 甚兵衛が勢いよく立ち上がった。普段の硬い表情が、まるで朝日のように輝いている。職人としての深い満足感と、新しい発見への純粋な喜びが、その顔に溢れていた。


「お春殿、これは必ず評判になる。我が店でも作らせてもらいたい」


「ありがとうございます」


 お春の胸に、温かな喜びが大きな波のように広がった。田中美咲として前世で抱き続けていた夢—珈琲と甘い物の完璧な組み合わせ。それが、江戸時代の職人の卓越した技術と出会って、ついに現実となったのだ。


 甚兵衛とお菊は、残りの試作品を宝石のように大切に包んで持ち帰った。明日からでも、亀屋で本格的に作り始めるつもりのようだった。


「これで亀屋の夏の名物ができそうじゃ」


 甚兵衛の満足げな笑顔が、お春の心に深く刻まれた。


 その午後、店で作った珈琲饅頭を常連客に試していただくことにした。


 まず訪れたのは柳田玄白だった。


「これは珍しい色の饅頭ですね」


「珈琲を使って作りました。亀屋の甚兵衛さんと共同で」


 玄白が一口食べて、驚いたように目を丸くした。


「これは見事な。苦味と甘味の調和が、まるで陰と陽の如く。東洋の美学と西洋の味覚が見事に融合している」


 医師らしい分析的な視点で、珈琲饅頭の価値を評価してくれる。


「いかがでしょうか」


「素晴らしい。これなら女性の方々にも喜ばれるでしょう。いや、必ず喜ばれる。珈琲の効能を、より多くの人に知ってもらう良い機会にもなる」


 玄白の太鼓判を得て、お春は安堵した。


 次に来店したお絹は、饅頭を見ただけで顔をほころばせた。


「まあ、美しい色合いですこと。まるで夕暮れ時の空のような」


 口に入れた瞬間、お絹の表情がぱっと花が開くように明るくなった。


「なんと上品な味でしょう。甘すぎず、苦すぎず。これは女性の集まりでもきっと話題になりますわ」


「お気に召しましたでしょうか」


「ええ、とても。お茶会で出したら、皆様驚かれることでしょう」


 お絹の言葉に、お春の心に新しい光がさした。前世のカフェで開催していた女性向けイベントの記憶が、鮮やかに蘇る。


「お絹様、よろしければ、こちらで女性の方々との集まりを開いていただけませんでしょうか」


「こちらで?」


「はい。午後のひととき、珈琲と菓子を楽しみながら、ゆっくりとお話をする会を」


 お絹の目が星のように輝いた。


「それは素敵なお考えですね。女子同士でゆっくりと語らう場があれば、どんなに楽しいことでしょう。ぜひ、お願いします」


 翌日から、お春は「午後の珈琲会」の準備を始めた。


 店の雰囲気を少し変えて、女性客に喜ばれるような設えにする。お松に頼んで、季節の花を活けてもらった。夏らしく、涼しげな桔梗と撫子を選んだ。座卓には上品な手拭いを敷き、茶碗も一番美しいものを選ぶ。


 珈琲の淹れ方も工夫した。前世の知識を思い出しながら、茶道の作法を取り入れてみる。


 豆を選ぶところから、心を込めて焙煎し、客の前で静かに抽出する。その一つ一つの所作を、まるで芸事のように丁寧に行った。動作一つ一つに意味を込め、見ている人が珈琲への理解を深められるように工夫を凝らした。


 最初の午後の珈琲会には、お絹を含めて三人の女性が集まった。皆、商家の奥方や娘で、新しい物好きの好奇心旺盛な方々だった。


「これが珈琲でございますか」


「なんとも良い香りですこと」


 女性たちは興味深そうに茶碗を眺め、まるで花の香りを楽しむように深く息を吸っている。


「まず、香りをお楽しみください」


 お春は茶道の作法を取り入れて、ゆっくりと説明する。


「そうして心を落ち着けてから、少しずつ味わっていただいて」


 女性たちが珈琲を口にすると、表情が一様に変わった。


「苦いですけれど、不思議な深みがございますね」


「身体の芯から温まりますわ。これなら夏でも、心地よく感じられそう」


「そして、こちらが珈琲饅頭でございます」


 甚兵衛親子と共に作った饅頭を差し出すと、女性たちから感嘆の声が上がった。


「まあ、美しい色合いですこと」


「珈琲を使った菓子なのですか。なんと斬新な」


 一口食べてみると、皆一様に感動の声を漏らした。


「これは絶妙な味ですね」


「甘味と苦味が、なんとも言えない調和を奏でて」


「このような菓子、生まれて初めていただきました。まるで新しい世界を覗いているよう」


 お春は微笑みながら、女性たちの反応を見つめていた。珈琲の苦味に躊躇していた人々が、和菓子との組み合わせによって、自然に珈琲の世界に足を踏み入れている。これこそ、前世で夢見ていた光景だった。


「お春さん、これは本当に素晴らしいお考えですね」


 お絹が目を潤ませている。


「女子同士で集まって、このような美味しいものをいただきながら、心ゆくまで語らう。江戸にはなかった楽しみですわ」


「ありがとうございます」


 お春の胸に、深い満足感が波のように広がった。


 田中美咲として前世で営んできたカフェの理想が、江戸時代の和菓子文化と結びついて、新しい形で花開いている。珈琲という異国の文化と、江戸の伝統的な菓子文化。二つの世界が出会って、今まで存在しなかった美しい調和を生み出している。


 夕方、甚兵衛とお菊が様子を見に来た。


「いかがでしたかな」


「おかげさまで、大変好評でした」


 お春は今日の成功を詳しく報告する。女性たちの喜びの声、饅頭への賞賛、次回開催への期待。


「それは何より」


 甚兵衛の硬い表情が、珍しく緩んだ。


「お菊も喜んでおります」


 確かに、お菊は嬉しそうに頬を染めている。


「父上、私もまた新しい菓子を考えてみたいです。きっと、まだまだ工夫の余地がございます」


「そうじゃな。珈琲との組み合わせは、まだ始まったばかりじゃ」


 甚兵衛は腕を組んで、職人らしい探究心を目に宿している。


「今度は夏向けの菓子を作ってみるかの。暑い季節には、冷たい珈琲もあるのであろう?」


「はい。氷で冷やした珈琲も、とても美味しいものです」


 お春の心に、また新しいアイデアが次々と浮かんできた。前世の知識を活かせば、アイスコーヒーの作り方もある。それに合う冷菓を作れば、夏の新たな楽しみになるかもしれない。


「甚兵衛さん、お菊さん、ぜひまたご一緒させてください」


「もちろんじゃ」


 甚兵衛が力強く頷く。


「これからも、よろしく頼むぞ。新しい味の世界を、一緒に切り開いていこうではないか」


 三人は固い握手を交わした。お春の手に、甚兵衛の職人らしい硬い手のひらと、お菊の温かく優しい手のひらの感触が残った。この握手に、未来への希望と決意が込められていた。


 夜が更け、店を閉じる頃になって、お春は一人で今日を静かに振り返っていた。


 珈琲茶屋「春庵」が、また新しい段階に入った。男性客中心だった店に、女性客という新しい風が吹き込んできた。


 和菓子という江戸の文化と、珈琲という異国の文化が結びついて、今まで存在しなかった新しい楽しみを生み出している。


 お春は茶碗に残った最後の珈琲を味わった。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。今日一日、甘い物と一緒に飲み続けた珈琲が、いつもより優しく感じられた。


「明日はどんな一日になるだろうか」


 小さくつぶやいて、お春は茶碗を大切に洗った。


 亀屋の甚兵衛とお菊という心強い協力者を得て、珈琲茶屋の可能性がさらに広がっていく。そして何より、江戸の女性たちに新しい文化を提供できる喜びが、お春の心を温かく満たしていた。


 遠くで夜警の拍子木が響いている。「火の用心、火の用心」という声が、夜風に乗って優しく流れてきた。


 珈琲と和菓子の香りが混じり合った店内で、お春は明日への期待を胸に抱きながら、静かに夜を迎えていった。窓の外では夏虫が鳴き始め、季節の移ろいを告げている。新しい季節と共に、新しい味の世界が広がっていく予感に、お春の心は希望で満ちていた。

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