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第5話 「身分を超えた出会い」

 雨が降り始めたのは昼過ぎだった。


 空の黒い雲から大粒の雨が落ち、やがて本格的な夕立となった。通りを歩く人々が慌てて軒下に駆け込み、商人たちは大声で呼び合いながら商品を店内に運び込んでいる。


 お春は店先で雨の匂いを嗅いでいた。土と混じった独特の香り、濡れた木の匂い、空気に含まれる水分の清涼感。現代では味わえない江戸ならではの雨の匂いが、心を落ち着かせてくれる。


 瓦版記事の効果で、ここ数日は客足が絶えない。しかし、この雨では午後の客は期待できないだろう。


 そんな中、一人の男性が雨に打たれながら急ぎ足で歩いてくるのが見えた。


 二十代半ばで、凛とした姿勢。雨に濡れても崩れない美しい立ち居振る舞いが印象的だった。質素だが上質な絹の着物を着ており、腰には見事な拵えの刀を差している。武士らしい品格があるが、疲れたような表情で困ったように雨空を見上げていた。


 その横顔が、なぜかお春の胸を打った。憂いを帯びた美しい顔立ち、まっすぐに伸びた鼻筋、意志の強さを表す引き締まった口元。


 男性は店の前で足を止め、雨宿りできる場所を探すように辺りを見回す。濡れた髪が額にかかり、どこか少年のような無邪気さも感じられる。


「こちらで雨宿りなさいませ」


 お春は思わず声をかけた。この人を雨に濡らしておくのは忍びない。


「恐れ入ります」


 男性は丁寧に頭を下げ、店に入った。雨に濡れた着物から、ほのかに男性らしい清潔な香りがする。どこか高貴な香りがあり、普通の武士とは違う品格を感じさせた。


「お冷えになったでしょう。よろしければ、温かいお飲み物を」


「ご親切にありがとうございます」


 男性は座布団に腰を下ろす。その所作の美しさにお春は見とれてしまった。背筋が真っ直ぐで、手の形も美しい。指先まで気品があり、文武両道を極めた人の品格があった。


 しかし、目の奥には深い憂いが宿っている。何か重い悩みを抱えているのが伝わってくる。


「珈琲という薬湯をお出ししておりますが、いかがでしょうか」


「珈琲……初めて聞く名前です。南蛮渡来の薬でございますか」


 声も美しかった。低く落ち着いていて、武士らしい威厳がありながら優しさも感じられる。


「はい。頭がすっきりして、心も落ち着きます」


「それでは、お願いいたします」


 お春は台所で珈琲を淹れた。雨音が激しく屋根を打つ中、焙煎の音と香りが店内に広がる。いつもより丁寧に、心を込めて作りたかった。


 男性は興味深そうにその様子を見つめていた。普通の茶とは全く違う作り方に、知的好奇心を抱いているようだった。その表情の変化が、また美しい。


「お待たせいたしました」


 茶碗を差し出すと、男性は慎重に受け取った。その時、指先が軽く触れ合った。お春の胸がどきりと跳ねる。男性の指は思ったより温かく、剣を握る武士の手なのに驚くほど滑らかだった。


 男性はまず香りを楽しみ、それからそっと口をつける。最初は驚いたような顔をしたが、だんだんと表情が和らいできた。


「これは……確かに心が落ち着きます」


 深いため息をつく。肩の力が抜け、表情も穏やかになった。疲れていた目元にも、ほっとしたような安らぎが宿る。


 外では雨がますます激しくなっていた。雷鳴も近くなり、稲光が店内を一瞬青白く照らす。自然と二人の距離が縮まったような感覚があった。雨音に包まれた狭い空間で、不思議な親密感が生まれている。


 しばらく黙って珈琲を飲んでいたが、やがて男性が重い口を開いた。


「実は……縁談の話で悩んでおります」


 声が小さくなる。茶碗を見つめたまま、辛そうな表情を見せた。


「相手の方は商人の娘で、とても美しく聡明な方です。家柄も申し分なく、周りからは良縁だと言われています」


「それは……」


 お春の胸に、小さな痛みが走った。この美しい人には、もう決まった相手がいるのだ。


「しかし、私の心は晴れません。お相手のことを、心から想っているとは言い難いのです」


 お春は少し驚いた。江戸時代の武士が、こんなに率直に心情を語るとは思わなかった。それだけ信頼してくれているということだろうか。


「想いとは……どのようなものだとお考えですか」


「それがわからないのです」


 男性は困ったような表情を見せる。眉間に小さく皺を寄せ、本当に悩んでいるのが分かる。


「縁談は家と家の結びつき。個人の感情は二の次だと教わってきました。しかし、最近は疑問に思うようになって」


「疑問に?」


「本当にそれで良いのでしょうか。心からの想いもなく妻を迎えて、その方を幸せにできるのでしょうか」


 お春の心が強く動いた。この人は、相手の幸せを真剣に考えている。その誠実さが、胸を締め付ける。


「お優しい方ですね」


「優しい……」


 男性が顔を上げる。その瞬間、二人の目が合った。お春の頬が熱くなる。


「お相手の幸せを第一に考えていらっしゃる。それは、想いの始まりかもしれません」


 男性の目が輝いた。希望の光が宿っている。


「想いとは、最初から完成しているものではないと思います」


 お春は田中美咲の経験を思い出しながら答える。現代での恋愛経験が、こんなところで役に立つとは。


「相手を知り、理解し、支えたいと思う気持ちから育っていくもの。まずは、お相手とよく話してみてはいかがでしょう」


「話を……」


「はい。どんなことがお好きで、何に悩んでいらっしゃるのか。まずは友として親しくなることから」


 男性の顔が明るくなった。憂いが晴れ、本来の美しさがより際立つ。


「そのような考え方があるのですね」


「大切なのは、お互いを理解し合うこと。それができれば、きっと良い関係が築けます」


「ありがとうございます」


 男性は深々と頭を下げた。その仕草も、どこまでも美しい。


「なんだか霧が晴れたような気持ちです」


 雨音が小さくなってきた。外を見ると、雨脚が弱まり、雲の隙間から薄日が差している。


「そろそろ雨も上がりそうですね」


「はい。おかげさまで、心も晴れました」


 男性は立ち上がろうとしたが、ふと立ち止まった。


「お名前を教えていただけませんか」


「お春と申します」


「お春殿……美しいお名前ですね」


 男性の声に、優しさが込められていた。その優しさが、お春の胸をさらに温かくする。


「私は……信之と申します」


 お春の胸が小さく高鳴った。この人の名前を知ることができて、なぜか嬉しかった。信之。美しい響きの名前だ。


「信之様」


 名前を口にすると、なぜか特別な感情が湧いてくる。


 二人の視線が交わる。短い時間だったが、不思議な親近感が生まれていた。お春の頬がほんのり紅潮し、信之も少し照れたような表情を見せる。


「お代は……」


「十五文でございます」


 信之は躊躇なく代金を支払った。その手がお春の手に軽く触れ、お春は頬が熱くなるのを感じた。信之の指の温かさが、まだ手のひらに残っている。


「また……お邪魔してもよろしいでしょうか」


 信之の声に、微かな期待が込められていた。お春を見つめる目に、優しい光が宿っている。


「はい。いつでもお待ちしております」


 お春も、なぜか胸が高鳴るのを抑えきれない。この人にまた会えるという喜びが、胸を満たしている。


 信之が去った後、お春は一人で胸の鼓動を感じていた。


 ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。頬がまだ熱く、手のひらには信之の指の温かさが残っている。


 あの人は一体何者だろう。武士であることは確かだが、普通の武士とは違う雰囲気がある。身なりの上品さ、立ち居振る舞いの美しさ、品のある話し方。もしかしたら、かなり身分の高い方なのかもしれない。


 そうだとすれば……。


 お春の胸に、不安が忍び込んできた。商人の娘と武士。それも身分の高い武士となれば、天と地ほどの差がある。この想いは、決して許されないものなのかもしれない。


 しかし、信之の誠実さと優しさは本物だった。あの憂いを帯びた美しい横顔、心からの悩みを打ち明けてくれた信頼、去り際の優しいまなざし。すべてが、お春の心に深く刻まれている。


 雨が上がり、夕日が差し込んできた。店内の珈琲の香りが、より一層豊かに感じられる。


「お春様、どうされました」


 お松が心配そうに声をかけた。


「いえ、何でもございません」


 しかし、お春の顔は明らかに紅潮していた。頬が上気し、目も潤んでいる。


「雨宿りのお客様がいらして」


「そうでございましたか。良いお客様でしたか」


「はい……とても」


 お春の声が、無意識に優しくなっている。



 翌日は快晴だった。昨日の雨で洗われた空が美しく澄み、江戸の街も活気に満ちている。


 お春は朝からそわそわしていた。信之が来るかもしれないという思いが、頭から離れない。朝の準備をしながらも、入り口の方をちらちらと見てしまう。


 午前中は医師の勉強会があり、津川、木村、佐藤の三人が珈琲を飲みながら熱心に議論していた。


「昨日は雨でしたが、お客様はいらっしゃいましたか」


 木村が聞いた。


「はい。雨宿りの方が」


「それは良かった。こういう場所があると、皆さん助かるでしょうね」


 午後になって、お絹が笑顔でやってきた。


「お春さん、おかげさまで息子との関係がさらに良くなりました」


 お絹の表情は明るく、来店時とは見違えるようだった。


「昨日は一緒に雨を眺めながら、いろいろな話をしました。初めて心を開いてくれたように思います」


「それは本当に良かったです」


「ところで、お春さんも何かお悩みでは?」


 お絹の鋭い観察に、お春は驚いた。


「女性の勘です。とても良い表情をされているけれど、少し心配そうでもある。恋のお悩みでしょう?」


 お春の頬が一気に赤くなった。そんなに顔に出ているのだろうか。


「そんなに顔に出ていますか」


「ええ。でも、素敵な表情です。恋をしている女性は美しい」


 お絹は微笑んだ。


「ただ……身分が違うかもしれませんし」


「身分ですか」


 お絹の表情が少し曇った。経験者だからこそ分かる、その困難さがあるのだろう。


「確かに、それは難しい問題ですね。身分違いの恋は、時として命に関わることもある」


 お絹の言葉に、お春の胸がきゅっと締め付けられた。


「でも、心はそう簡単には割り切れません。お春さんが幸せになれるよう、祈っております」


 夕方になっても、信之は現れなかった。


 お春は少し失望したが、同時に安堵もしていた。もし来ていたら、どう接すれば良いかわからなかった。昨日のような自然さで話せただろうか。


 しかし、心の片隅では、明日への期待が膨らんでいた。きっと、また会える。そんな予感が、お春の胸に宿っていた。


 夜風が涼しく、珈琲の香りが静かに漂う中、お春は新しい感情と向き合っていた。


 恋という名の、甘く切ない感情。それが、お春の人生に新しい彩りを与えようとしていた。


 しかし、身分の壁という現実も、お春の心に重くのしかかっていた。この想いは、果たして実るのだろうか。それとも、禁じられた恋として、心の奥に封印しなければならないのだろうか。


 月が昇り、夜が深くなっていく。お春は茶碗を片付けながら、信之の美しい横顔を思い返していた。


 あの優しいまなざし、温かい指先の感触、心を開いてくれた信頼。すべてが宝物のような記憶となって、胸に刻まれている。


 遠くから夜警の拍子木が響いてくる。「火の用心、火の用心」という声が、夜風に乗って聞こえてくる。


 お春は窓から夜空を見上げた。同じ空の下で、信之も今頃何を思っているのだろうか。


 恋の始まり。それは甘い毒のようなもので、お春の心を静かに蝕んでいく。


 珈琲の香りに包まれて、お春は眠りにつこうとしていた。夢の中で、信之に会えるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながら。

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