雨が降り始めたのは昼過ぎだった。
空の黒い雲から大粒の雨が落ち、やがて本格的な夕立となった。通りを歩く人々が慌てて軒下に駆け込み、商人たちは大声で呼び合いながら商品を店内に運び込んでいる。
お春は店先で雨の匂いを嗅いでいた。土と混じった独特の香り、濡れた木の匂い、空気に含まれる水分の清涼感。現代では味わえない江戸ならではの雨の匂いが、心を落ち着かせてくれる。
瓦版記事の効果で、ここ数日は客足が絶えない。しかし、この雨では午後の客は期待できないだろう。
そんな中、一人の男性が雨に打たれながら急ぎ足で歩いてくるのが見えた。
二十代半ばで、凛とした姿勢。雨に濡れても崩れない美しい立ち居振る舞いが印象的だった。質素だが上質な絹の着物を着ており、腰には見事な拵えの刀を差している。武士らしい品格があるが、疲れたような表情で困ったように雨空を見上げていた。
その横顔が、なぜかお春の胸を打った。憂いを帯びた美しい顔立ち、まっすぐに伸びた鼻筋、意志の強さを表す引き締まった口元。
男性は店の前で足を止め、雨宿りできる場所を探すように辺りを見回す。濡れた髪が額にかかり、どこか少年のような無邪気さも感じられる。
「こちらで雨宿りなさいませ」
お春は思わず声をかけた。この人を雨に濡らしておくのは忍びない。
「恐れ入ります」
男性は丁寧に頭を下げ、店に入った。雨に濡れた着物から、ほのかに男性らしい清潔な香りがする。どこか高貴な香りがあり、普通の武士とは違う品格を感じさせた。
「お冷えになったでしょう。よろしければ、温かいお飲み物を」
「ご親切にありがとうございます」
男性は座布団に腰を下ろす。その所作の美しさにお春は見とれてしまった。背筋が真っ直ぐで、手の形も美しい。指先まで気品があり、文武両道を極めた人の品格があった。
しかし、目の奥には深い憂いが宿っている。何か重い悩みを抱えているのが伝わってくる。
「珈琲という薬湯をお出ししておりますが、いかがでしょうか」
「珈琲……初めて聞く名前です。南蛮渡来の薬でございますか」
声も美しかった。低く落ち着いていて、武士らしい威厳がありながら優しさも感じられる。
「はい。頭がすっきりして、心も落ち着きます」
「それでは、お願いいたします」
お春は台所で珈琲を淹れた。雨音が激しく屋根を打つ中、焙煎の音と香りが店内に広がる。いつもより丁寧に、心を込めて作りたかった。
男性は興味深そうにその様子を見つめていた。普通の茶とは全く違う作り方に、知的好奇心を抱いているようだった。その表情の変化が、また美しい。
「お待たせいたしました」
茶碗を差し出すと、男性は慎重に受け取った。その時、指先が軽く触れ合った。お春の胸がどきりと跳ねる。男性の指は思ったより温かく、剣を握る武士の手なのに驚くほど滑らかだった。
男性はまず香りを楽しみ、それからそっと口をつける。最初は驚いたような顔をしたが、だんだんと表情が和らいできた。
「これは……確かに心が落ち着きます」
深いため息をつく。肩の力が抜け、表情も穏やかになった。疲れていた目元にも、ほっとしたような安らぎが宿る。
外では雨がますます激しくなっていた。雷鳴も近くなり、稲光が店内を一瞬青白く照らす。自然と二人の距離が縮まったような感覚があった。雨音に包まれた狭い空間で、不思議な親密感が生まれている。
しばらく黙って珈琲を飲んでいたが、やがて男性が重い口を開いた。
「実は……縁談の話で悩んでおります」
声が小さくなる。茶碗を見つめたまま、辛そうな表情を見せた。
「相手の方は商人の娘で、とても美しく聡明な方です。家柄も申し分なく、周りからは良縁だと言われています」
「それは……」
お春の胸に、小さな痛みが走った。この美しい人には、もう決まった相手がいるのだ。
「しかし、私の心は晴れません。お相手のことを、心から想っているとは言い難いのです」
お春は少し驚いた。江戸時代の武士が、こんなに率直に心情を語るとは思わなかった。それだけ信頼してくれているということだろうか。
「想いとは……どのようなものだとお考えですか」
「それがわからないのです」
男性は困ったような表情を見せる。眉間に小さく皺を寄せ、本当に悩んでいるのが分かる。
「縁談は家と家の結びつき。個人の感情は二の次だと教わってきました。しかし、最近は疑問に思うようになって」
「疑問に?」
「本当にそれで良いのでしょうか。心からの想いもなく妻を迎えて、その方を幸せにできるのでしょうか」
お春の心が強く動いた。この人は、相手の幸せを真剣に考えている。その誠実さが、胸を締め付ける。
「お優しい方ですね」
「優しい……」
男性が顔を上げる。その瞬間、二人の目が合った。お春の頬が熱くなる。
「お相手の幸せを第一に考えていらっしゃる。それは、想いの始まりかもしれません」
男性の目が輝いた。希望の光が宿っている。
「想いとは、最初から完成しているものではないと思います」
お春は田中美咲の経験を思い出しながら答える。現代での恋愛経験が、こんなところで役に立つとは。
「相手を知り、理解し、支えたいと思う気持ちから育っていくもの。まずは、お相手とよく話してみてはいかがでしょう」
「話を……」
「はい。どんなことがお好きで、何に悩んでいらっしゃるのか。まずは友として親しくなることから」
男性の顔が明るくなった。憂いが晴れ、本来の美しさがより際立つ。
「そのような考え方があるのですね」
「大切なのは、お互いを理解し合うこと。それができれば、きっと良い関係が築けます」
「ありがとうございます」
男性は深々と頭を下げた。その仕草も、どこまでも美しい。
「なんだか霧が晴れたような気持ちです」
雨音が小さくなってきた。外を見ると、雨脚が弱まり、雲の隙間から薄日が差している。
「そろそろ雨も上がりそうですね」
「はい。おかげさまで、心も晴れました」
男性は立ち上がろうとしたが、ふと立ち止まった。
「お名前を教えていただけませんか」
「お春と申します」
「お春殿……美しいお名前ですね」
男性の声に、優しさが込められていた。その優しさが、お春の胸をさらに温かくする。
「私は……信之と申します」
お春の胸が小さく高鳴った。この人の名前を知ることができて、なぜか嬉しかった。信之。美しい響きの名前だ。
「信之様」
名前を口にすると、なぜか特別な感情が湧いてくる。
二人の視線が交わる。短い時間だったが、不思議な親近感が生まれていた。お春の頬がほんのり紅潮し、信之も少し照れたような表情を見せる。
「お代は……」
「十五文でございます」
信之は躊躇なく代金を支払った。その手がお春の手に軽く触れ、お春は頬が熱くなるのを感じた。信之の指の温かさが、まだ手のひらに残っている。
「また……お邪魔してもよろしいでしょうか」
信之の声に、微かな期待が込められていた。お春を見つめる目に、優しい光が宿っている。
「はい。いつでもお待ちしております」
お春も、なぜか胸が高鳴るのを抑えきれない。この人にまた会えるという喜びが、胸を満たしている。
信之が去った後、お春は一人で胸の鼓動を感じていた。
ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。頬がまだ熱く、手のひらには信之の指の温かさが残っている。
あの人は一体何者だろう。武士であることは確かだが、普通の武士とは違う雰囲気がある。身なりの上品さ、立ち居振る舞いの美しさ、品のある話し方。もしかしたら、かなり身分の高い方なのかもしれない。
そうだとすれば……。
お春の胸に、不安が忍び込んできた。商人の娘と武士。それも身分の高い武士となれば、天と地ほどの差がある。この想いは、決して許されないものなのかもしれない。
しかし、信之の誠実さと優しさは本物だった。あの憂いを帯びた美しい横顔、心からの悩みを打ち明けてくれた信頼、去り際の優しいまなざし。すべてが、お春の心に深く刻まれている。
雨が上がり、夕日が差し込んできた。店内の珈琲の香りが、より一層豊かに感じられる。
「お春様、どうされました」
お松が心配そうに声をかけた。
「いえ、何でもございません」
しかし、お春の顔は明らかに紅潮していた。頬が上気し、目も潤んでいる。
「雨宿りのお客様がいらして」
「そうでございましたか。良いお客様でしたか」
「はい……とても」
お春の声が、無意識に優しくなっている。
翌日は快晴だった。昨日の雨で洗われた空が美しく澄み、江戸の街も活気に満ちている。
お春は朝からそわそわしていた。信之が来るかもしれないという思いが、頭から離れない。朝の準備をしながらも、入り口の方をちらちらと見てしまう。
午前中は医師の勉強会があり、津川、木村、佐藤の三人が珈琲を飲みながら熱心に議論していた。
「昨日は雨でしたが、お客様はいらっしゃいましたか」
木村が聞いた。
「はい。雨宿りの方が」
「それは良かった。こういう場所があると、皆さん助かるでしょうね」
午後になって、お絹が笑顔でやってきた。
「お春さん、おかげさまで息子との関係がさらに良くなりました」
お絹の表情は明るく、来店時とは見違えるようだった。
「昨日は一緒に雨を眺めながら、いろいろな話をしました。初めて心を開いてくれたように思います」
「それは本当に良かったです」
「ところで、お春さんも何かお悩みでは?」
お絹の鋭い観察に、お春は驚いた。
「女性の勘です。とても良い表情をされているけれど、少し心配そうでもある。恋のお悩みでしょう?」
お春の頬が一気に赤くなった。そんなに顔に出ているのだろうか。
「そんなに顔に出ていますか」
「ええ。でも、素敵な表情です。恋をしている女性は美しい」
お絹は微笑んだ。
「ただ……身分が違うかもしれませんし」
「身分ですか」
お絹の表情が少し曇った。経験者だからこそ分かる、その困難さがあるのだろう。
「確かに、それは難しい問題ですね。身分違いの恋は、時として命に関わることもある」
お絹の言葉に、お春の胸がきゅっと締め付けられた。
「でも、心はそう簡単には割り切れません。お春さんが幸せになれるよう、祈っております」
夕方になっても、信之は現れなかった。
お春は少し失望したが、同時に安堵もしていた。もし来ていたら、どう接すれば良いかわからなかった。昨日のような自然さで話せただろうか。
しかし、心の片隅では、明日への期待が膨らんでいた。きっと、また会える。そんな予感が、お春の胸に宿っていた。
夜風が涼しく、珈琲の香りが静かに漂う中、お春は新しい感情と向き合っていた。
恋という名の、甘く切ない感情。それが、お春の人生に新しい彩りを与えようとしていた。
しかし、身分の壁という現実も、お春の心に重くのしかかっていた。この想いは、果たして実るのだろうか。それとも、禁じられた恋として、心の奥に封印しなければならないのだろうか。
月が昇り、夜が深くなっていく。お春は茶碗を片付けながら、信之の美しい横顔を思い返していた。
あの優しいまなざし、温かい指先の感触、心を開いてくれた信頼。すべてが宝物のような記憶となって、胸に刻まれている。
遠くから夜警の拍子木が響いてくる。「火の用心、火の用心」という声が、夜風に乗って聞こえてくる。
お春は窓から夜空を見上げた。同じ空の下で、信之も今頃何を思っているのだろうか。
恋の始まり。それは甘い毒のようなもので、お春の心を静かに蝕んでいく。
珈琲の香りに包まれて、お春は眠りにつこうとしていた。夢の中で、信之に会えるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながら。