柳田玄白の来店から三日後の午後、お春は茶碗を磨きながら不安を感じていた。
初売上の興奮は落ち着いたものの、その後は再び静寂の日々。玄白が約束した「仲間の紹介」は、まだ実現していない。
手の動きが止まる。あれは社交辞令だったのだろうか。
茶碗に映る自分の顔が不安そうに歪んでいる。
「失礼いたします」
振り返ると、三人の男性が店の前に立っていた。
皆、玄白と同世代で学者らしい雰囲気。手に医学書を抱え、質素だが品の良い着物を着ている。その中の一人は眼鏡をかけ、もう一人は背が高く痩身、最後の一人は小柄ながら鋭い目つきをしている。
「玄白から聞いて参りました。珈琲という薬湯をいただけると」
先頭の痩身の男性が言った。知的で落ち着いた声だった。
「はい、いらっしゃいませ」
お春の心が躍る。玄白は約束を守ってくれたのだ。胸の奥で小さな感動が広がっていく。
「私は津川、こちらは木村、奥が佐藤と申します。皆、蘭学を志す医者です」
三人は丁寧に頭を下げる。津川は内科、木村は外科、佐藤は本草学が専門だと自己紹介した。
「どうぞ、おくつろぎください」
狭い店がにわかに賑やかになった。ようやく店らしい活気が生まれる。畳の上に座る三人の重みで、い草の香りがふわりと立ち上った。
「玄白が申すには、頭が驚くほど冴える薬湯だとか」
木村が興味深そうに店内を見回す。
「昨夜も徹夜で解剖図を写していたのですが、朝には頭がぼんやりして。手元が震えて線がうまく引けませんでした」
「蘭書の翻訳は集中力が続かないと、読み進められません」
津川が身を乗り出す。
「特にオランダ語の医学用語は、一つ間違えれば治療法が全く変わってしまう」
佐藤が真剣な表情で頷く。
「薬草の効能を調べる時も、集中が途切れると命に関わる間違いを犯しかねません」
「では、お作りいたします」
お春は台所に向かった。三杯分の珈琲。少し緊張するが、今度は自信もある。
七輪に炭を足し、豆をパチパチと炒る。香ばしい匂いが店内に広がると、三人から感嘆の声が上がった。
「これは素晴らしい香りですね」
「薬草とは違う、なんとも言えない良い匂いだ」
すり鉢で豆を挽く音がゴリゴリと響く。より濃厚な香りが立ち上がり、三人の表情が期待に満ちてくる。急須で蒸らし、三つの茶碗に注ぐ。
「お待たせいたしました」
津川が茶碗を手に取り、まず香りを楽しむ。慎重に口をつけて、しばらく味わってから目を見開いた。
「これは……確かに頭がすっきりしますね」
「眠気が一気に飛んだ。驚くべき効果です」
木村も驚いている。眼鏡の奥の目が輝いている。
「苦味がありますが、不思議と後味が良い。胃にも優しい感じがします」
佐藤が満足そうに言った。
「この薬湯の効能について、詳しく教えていただけませんか」
津川が身を乗り出す。医者としての学問的関心が全身から滲み出ている。
「眠気を覚まし、頭脳を明晰にし、疲労を回復させます。胃の働きを助ける効果もあります」
「興味深い。オランダの医学書にも似た記述がありました」
木村が感心している。
「『コフィー』という名前で、イスラムの医師たちも使用していたとか」
「我々のような者には、まさに必要な薬ですね」
「ところで」
津川が周りを見回した。
「こちらでは、学問の議論もできるのでしょうか」
「もちろんです」
「それでしたら、少し相談があります」
三人は顔を見合わせて微笑んだ。
「我々は定期的に勉強会をしているのですが、いつも適当な場所がなくて。寺子屋は子供がうるさいし、料理屋は酒が入って真面目な話ができません」
「こちらなら静かで、頭も冴える。勉強会には最適ですね」
津川が提案する。
「もしよろしければ、定期的にお邪魔させていただけませんか」
お春の胸が高鳴った。定期的な客になってくれるなら、これほど嬉しいことはない。
「ありがとうございます。心よりお待ちしております」
三人は満足そうに珈琲を飲み干し、それぞれ代金を支払った。四十五文。これまで最高の売上だった。手のひらに重なる銭の温かさが、成功の実感を運んでくる。
「また明後日、伺います」
「お待ちしております」
翌日の夕方、三十代半ばの女性が現れた。
上質な絹の着物を着ているが、少し疲れたような表情。目の下にうっすらと隈があり、肩が重そうに下がっている。足音も元気がない。
「こちらで、心を落ち着ける薬湯をいただけると聞きましたが」
声に震えがある。何か深い悩みを抱えているのが伝わってくる。
「はい。どうぞ」
女性は恐る恐る腰を下ろした。座布団に座る姿勢も、どこか遠慮がちだった。
「お絹と申します」
お春は特に丁寧に珈琲を淹れた。この人には、心を込めて作ってあげたい。豆を焙煎する音、挽く音、すべてが優しく響くよう心がけた。茶碗を差し出すと、お絹は慎重に受け取る。
「不思議な香りですね」
そっと口をつけ、味わう。だんだんと表情が和らいできた。固く結ばれていた口元が、少しほころんでいる。
「確かに、心が落ち着くような。気持ちが軽くなります」
声にも温かみが戻ってきた。
「よろしければ、何かお悩みでも」
お春は優しく声をかけた。田中美咲時代のカウンセリング技術を思い出し、聞く姿勢を整える。
「実は……後妻の立場で、先妻様のお子さんとの関係が難しくて」
お絹の目に涙が浮かぶ。声が震え、手も小刻みに震えている。
「十二歳の男の子なのですが、どれだけ優しくしても、よそよそしい態度で。時には『お前は僕の母親じゃない』と」
涙がひとしずく頬を伝った。
「お辛いですね」
お春は心から同情した。お絹の痛みが、自分の胸にも響いてくる。
「でも、お子様も複雑な気持ちを抱えていらっしゃるのでは。失ったお母様への想い、新しい母への戸惑い」
お絹が小さく頷く。
「まずは、お母様の代わりになろうとせず、お絹様らしく、良い友人のような関係から始めてみては」
「私らしく……」
お絹の目に希望の光が宿る。
「お子様の好きなものを一緒に楽しんでみてください。無理に母親らしくしようとせず、お絹様の得意なことで」
「甘いものがお好きなようで」
「それでしたら、一緒にお菓子作りはいかがでしょう。作りながら自然に会話もできますし、完成した時の喜びも共有できます」
お絹の目が輝いた。暗かった表情が、まるで朝日が差したように明るくなる。
「素晴らしいお考えですね。ぜひ、試してみたいと思います」
「大切なのは、お子様を変えようとするのではなく、まずお絹様が楽しむこと。その楽しさが伝われば、きっと心も開いてくれます」
「ありがとうございます。こんなに心が軽くなったのは、久しぶりです」
お絹は嬉しそうに珈琲を飲み干し、十五文を支払った。立ち上がる姿勢も、来た時とは見違えるほど軽やかだった。
「また伺わせていただきます」
「心よりお待ちしております」
その午後、見慣れない少年が現れた。
十歳ほどで、手に瓦版を抱えている。商売人らしい愛嬌のある笑顔だったが、その目には大人顔負けの鋭さがあった。
「珈琲茶屋の店主さんですか」
声も元気で、商売上手な雰囲気が漂っている。
「はい」
「新助と申します。瓦版を売っております」
少年の目が生き生きと輝く。商売への情熱が感じられた。
「実は、こちらの珈琲のことを記事にしたいのですが」
「記事に?」
お春は驚いた。
「はい。頭が冴える不思議な薬湯として、とても評判になっているんです。医者の先生方が『これは素晴らしい』とあちこちで話しているのを聞くようになりました」
新助の情報収集力に感心する。この年でこれほど敏感なのか。
「薬師寺屋の玄庵先生も、『革新的な薬湯だ』と他の薬種問屋に話しているそうです」
お春の胸が高鳴った。口コミが予想以上に広がっているようだ。
「記事にしていただけるなら、ありがたいことです」
「それでは、少し詳しく教えてください」
新助は筆と紙を取り出した。まだ子供なのに、その動作は大人顔負けに手慣れている。お春は珈琲の効能や店の様子について説明する。
「面白い話ですね。きっと皆さん、興味を持たれると思います」
新助が記事を書く様子を見ていると、文字も意外にうまい。
「よろしくお願いします」
「明日の瓦版に載せますので、楽しみにしていてください」
新助は元気よく手を振って去っていった。
翌朝、新助が瓦版を持って現れた。
「載りました、載りました」
興奮した様子で瓦版を広げる。
「『日本橋に珈琲茶屋現る 頭冴える不思議薬湯 蘭学者らも絶賛』という見出しです」
お春は記事を読んで感動した。短い文章だが、珈琲の魅力がよく表現されている。
「『眠気を覚まし頭脳明晰、疲労回復にも効果あり。医者たちが勉強会にも利用』と書いてあります」
「ありがとうございます」
「これで、もっとお客さんが増えますよ」
新助の言葉通り、その日から客足が明らかに変わった。
瓦版を見て興味を持った人々が次々と店を訪れる。学者、商人、職人。様々な身分の人が珈琲を求めてやってきた。
朝一番には、算学を教える寺子屋の師匠が来た。
「計算に集中したいので」
昼には、大店の番頭が現れた。
「帳簿の整理で頭を使うもので」
午後には、絵師の弟子が珍しそうに覗いていく。
「師匠の絵を模写する時、集中力が続かなくて」
苦味に驚く人、値段の高さに驚く人もいる。それでも、確実に珈琲を理解してくれる人は増えていた。
中には一度飲んで、すぐに「明日も来る」と約束してくれる客もいた。
夕方、お春は一日を振り返っていた。
朝から十五人もの客が来店し、そのうち十人以上が満足して帰っていった。珈琲の評判は確実に広がっている。
懐の中で銭がちゃりちゃりと音を立てる。今日だけで二百文を超えた。この音が、どれほど嬉しいことか。
春之助が嬉しそうに現れた。
「お春、今日は賑やかだったようだな」
「はい。おかげさまで」
お春の声も弾んでいる。
「借金返済の目処も立ちそうだ」
父の顔に久しぶりに安堵の色が浮かんでいる。額の皺も心なしか薄くなったように見える。
「皆様のおかげです」
お春は茶碗に珈琲を注ぎ、一口飲む。香ばしい匂いと深い味わいが、一日の疲れを癒してくれた。
身体の奥から、じんわりと温かさが広がっていく。
月が昇り、夜が更けていく。しかし、お春の心は希望で満ちていた。
珈琲茶屋「春庵」は、確実に江戸の人々に受け入れられ始めている。口コミの威力を実感し、明日への期待が膨らんだ。
遠くから夜警の拍子木が響いてくる。「火の用心、火の用心」という声が、平和な夜を物語っていた。
珈琲の香りに包まれて、お春は明日への準備を始めていた。きっと、もっと多くの人に珈琲の素晴らしさを伝えられるだろう。
一歩一歩、着実に前進している実感があった。田中美咲の夢が、お春の手によって江戸時代に実現しつつある。
台所で茶碗を洗いながら、今日出会った人々を思い返す。医者たちの真剣な議論、お絹の涙と笑顔、新助の商売上手な笑顔。皆、珈琲を通じて繋がった大切な人たちだった。
静寂の中で、珈琲の香りが希望の未来を告げていた。
夜風が障子を揺らし、どこかから三味線の音色が聞こえてくる。江戸の夜は深く、しかし温かい。
お春は微笑みながら、明日もまた多くの人との出会いを心待ちにしていた。