朝露が残る中、お春は手作りの看板を磨いていた。
「珈琲茶屋 春庵」
墨で書いた文字は決して上手ではないが、心を込めて一画一画丁寧に書いた。夜なべして何度も練習した成果だった。筆先に込めた想いが、かすれた文字の中にも宿っている。
家の一角を改装した畳二畳ほどの店。質素ながらも清潔に掃き清められ、古い畳に手ぬぐいを敷いて、一輪の花を活けた小さな徳利が朝光を受けて静かに輝いている。
小さな座卓が二つ、座布団が四枚。
それだけの設備だったが、お春にとっては希望に満ちた場所だった。手作りの暖簾が朝風に優しく揺れ、新しい人生の始まりを告げている。
「お春、本当に大丈夫なのか」
春之助が心配そうに声をかける。眉間の皺が深く、昨夜また借金取りに厳しい言葉を浴びせられたばかりだった。「いつまで待たせる気だ」という怒声が、まだ耳に残っている。
「はい。きっと上手くいきます」
お春は微笑んで答えたが、胸の奥には小さな不安もあった。本当に江戸の人々に珈琲が受け入れられるのだろうか。
すべての準備を整え、看板を店先に掲げる。手作りの暖簾が風に揺れて、いよいよ開店だった。
「さあ、始まりです」
しかし、現実は想像以上に厳しかった。
一日目。朝から夕方まで、誰一人として店に入る人はいなかった。
通りかかる人々は看板を見て首をかしげ、「珈琲って何だ」「聞いたこともない」と素通りしていく。中には「怪しげな店だ」と眉をひそめ、わざと大回りして避ける人もいた。
お春は店先で座布団を叩き、茶碗を磨き、何度も暖簾を整えた。しかし、足音が近づくたびに期待しても、誰も立ち止まってくれない。
昼過ぎ、ようやく声をかけてくれたのは、隣の長屋の大工職人だった。
「お嬢ちゃん、珈琲って何だい」
汗まみれの作業着に、日焼けした逞しい手。誠実そうな人柄が顔に表れている。
「頭がすっきりする薬湯でございます」
「ほう、どんな味だい」
「少し苦いですが、身体も温まり、疲れも取れます」
「いくらだい」
「一杯十五文で」
職人の顔が曇る。十五文は普通の茶代の三倍以上だった。一瞬迷ったような表情を見せたが、首を振った。
「そんな高い薬湯は飲めないなあ。一文二文の茶でも十分だよ」
苦笑いしながら去っていく。お春の胸がきゅっと締め付けられた。
二日目も同じだった。
好奇心で覗く人はいても、実際に注文する客はいない。値段を聞くと皆躊躇し、結局は去っていく。
「変な匂いがするねえ」
「得体の知れない薬だって」
「高いし怖いわねえ」
「南蛮の毒かもしれないよ」
ひそひそ話が聞こえる。お春の頬が熱くなった。通りすがりの人々の視線が刺すように痛い。
夕方になると、お春は膝を抱えて座り込んだ。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。
三日目の朝。
心は重く、足取りも重い。このまま客が来なければ、借金が膨らむばかりだ。父の期待を裏切り、お松にも迷惑をかけている。
珈琲豆も残り少なくなってきた。もし売れなければ、追加購入する資金もない。
諦めかけたその時だった。
「失礼いたします」
振り返ると、若い男性が店の前に立っていた。
二十代前半で、質素だが清潔な着物を着ている。学者らしい雰囲気で、手には医学書らしい本を抱えていた。顔色は青白く、夜更かしの疲れが目の下に浮かんでいる。
しかし、その目には知的な輝きがあった。好奇心に満ちた、温かい眼差しだった。
「いらっしゃいませ」
お春は慌てて立ち上がる。三日ぶりの客に、心臓が早鐘を打った。声が震えそうになるのを必死に抑える。
「珈琲茶屋、と看板にありますが」
男性の声は穏やかで、知識人らしい品がある。
「はい。珈琲という薬湯をお出ししております」
「薬湯……」
男性の目に興味深そうな光が宿る。他の客とは明らかに違う反応だった。
「実は薬師寺屋の玄庵先生から、こちらのお話を伺いまして」
お春の顔が輝いた。玄庵が紹介してくれたのだ。
「どのような効能が?」
「頭がすっきりと冴えて、眠気が覚めます。学問をされる方には特に」
「学問を……」
男性は驚いたような顔をした。まるで自分の事情を見透かされたような表情だった。
「私は医者の卵で、柳田玄白と申します。夜通し本を読むことが多く、眠気と疲れに悩んでおりました」
玄白の声には、学問への真摯さが込められている。
「それでしたら、ぜひ」
お春は座布団を勧める。玄白は恐る恐る腰を下ろした。古い畳の匂い、い草の香りが鼻をくすぐる。
「少々お待ちください」
台所で珈琲を淹れる。七輪で豆を焙煎し、パチパチと弾ける音が静寂を破る。すり鉢で挽き、急須で蒸らす。今までで一番丁寧に、心を込めて。
焙煎の香ばしい匂いが店内に広がると、玄白の鼻がひくひくと動いた。
「これは……なんとも良い香りですね」
驚いたような、そして感嘆するような声だった。
「香りも薬効の一つと考えております」
「お待たせいたしました」
湯気の立つ茶碗を差し出す。珈琲の深い茶色が美しく、湯気が立ち上る様子が神秘的に見える。玄白は慎重に受け取り、まず香りを楽しんだ。
「医学の観点から申しますと、この香りだけでも何らかの薬効がありそうです」
そっと口をつけ、少しずつ味わう。最初は戸惑ったような表情だったが、だんだんと驚きの色が浮かんできた。
「これは……」
しばらくして、目を見開いた。
「確かに頭がすっきりします。眠気も飛びました」
お春の胸に希望の光が差し込んだ。ついに、珈琲を理解してくれる人に出会えた。
「素晴らしい。これなら夜通し勉強しても疲れませんね」
玄白の表情が明るくなる。学者としての知的好奇心が満たされたような顔だった。
「実は……」
玄白は茶碗を置いて、困ったような表情を見せた。
「私にも悩みがございまして」
お春は身を乗り出す。田中美咲としてのカウンセリング経験を思い出し、聞く姿勢を整えた。
「よろしければ」
「蘭学を学んでいるのですが、周りの理解がなくて。特に縁談の話になると、相手の方が困惑されるのです」
玄白の声に苦悩が滲んでいる。
「お相手の方は?」
「商人の娘さんで、とても美しく聡明な方です」
玄白の目に恋する人特有の輝きが浮かぶ。頬がわずかに紅潮し、声も優しくなる。
「しかし、身分も違えば考え方も違う。蘭学を学ぶ変わり者とは結婚できないと」
お春は深い共感を覚えた。身分や立場の違いで理解されない辛さは、現代でも変わらない。
「玄白さんは、なぜ蘭学を?」
「より多くの人を救いたいのです」
玄白の目が輝いた。使命感に燃える、医者としての魂が宿っている。
「日本の医学だけでは限界があります。オランダの新しい知識があれば、今まで治せなかった病気も治せるかもしれない」
学問への情熱が言葉の端々に表れている。拳を握りしめ、身を乗り出す姿に真摯さが滲んでいた。
「素晴らしい志です」
お春は心から感動した。
「きっと理解してくださる方がいらっしゃいます。玄白さんの真摯な気持ちは、必ず伝わります」
「そう思われますか」
玄白の声に希望が宿る。
「はい。大切なのは、相手の気持ちを理解し、自分の想いを誠実に伝えることです」
現代でのカウンセリング経験を活かし、お春は優しく答える。
「まず、お相手の不安を聞いてあげてください。蘭学への偏見の根っこには、きっと心配があるはずです」
玄白の表情が明るくなった。
「ありがとうございます。なんだか気持ちが軽くなりました」
肩の力が抜け、表情も和らいでいる。
「お役に立てて幸いです」
「それに、この珈琲は本当に素晴らしい。ぜひ仲間の医者たちにも紹介したいのですが」
お春の心が躍った。ついに珈琲の輪が広がる可能性が見えてきた。
「ありがとうございます」
「お代はいくらでしょうか」
「十五文でございます」
玄白は躊躇なく代金を支払った。お春は震える手で銭を受け取る。
初めての売り上げだった。
たった十五文だが、何にも代えがたい価値があった。胸が熱くなり、目頭が潤んでくる。手のひらで銭の重みを感じながら、込み上げる感動を抑えきれない。
「また伺わせていただきます」
「心よりお待ちしております」
玄白が去った後、お春は銭を握りしめて座り込んだ。
涙がぽろぽろと頬を伝う。嬉しくて、安堵して、希望に満ちた涙だった。
ついにやった。初めての客、初めての売り上げ。珈琲の素晴らしさを理解してくれる人に出会えた。三日間の苦労が、この瞬間にすべて報われた。
「お春様、どうされました」
お松が心配そうに声をかける。
「初めてのお客様がいらしたのです」
声が震えている。涙で上手く話せない。
「珈琲を喜んでくださって、また来ると」
「それは何よりです」
春之助も現れて、娘の様子を見て安心したような顔をした。
「やっと道筋が見えてきたな」
「はい。きっと上手くいきます」
お春は銭を大切に懐にしまった。この十五文は、新しい人生の第一歩を刻む記念すべき収入だった。手のひらに残る温もりが、希望の証しのように感じられる。
その夜、お春は一人で珈琲を飲みながら今日のことを振り返っていた。
玄白の真摯な人柄、学問への情熱、身分違いの恋への悩み。すべてが印象深い出会いだった。
そして何より、珈琲を心から喜んでくれたことが嬉しかった。あの感動した表情、驚きの声。すべてが宝物のような記憶だった。
「必ず成功させる」
小さくつぶやく。
玄白が仲間の医者たちに紹介してくれれば、きっと客も増える。蘭学に興味のある知識人なら、珈琲の価値を理解してくれるはずだ。
茶碗を両手で包み、最後の一滴まで味わう。今日という日を忘れないよう、珈琲の香りと味をしっかりと記憶に刻んだ。
月が昇り、夜が深くなっていく。しかし、お春の心は希望で満ちていた。
珈琲茶屋「春庵」の歴史が、今日から始まったのだ。
遠くで夜鷹の声が聞こえ、夜警の拍子木が響く。「火の用心、火の用心」という声が夜風に乗って流れてくる。江戸の夜が静かに更けていく中、お春は明日への期待に胸を膨らませていた。
小さな一歩だったが、確実な一歩だった。
田中美咲として培った経験と、お春として身につけた江戸の知恵。二つの人生が重なった今だからこそ、新しい道を切り開けるのだ。
珈琲の香りが夜風に乗って、希望の明日へと向かっていく。
台所の珈琲の香りが、静寂の中でひっそりと輝いていた。江戸の夜空に星が瞬き、新しい物語の始まりを祝福するように輝いている。
三日間の苦労と、ようやく掴んだ成功。その対比が、珈琲の味をより深く、より尊いものにしていた。