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第2話 「珈琲との格闘」

 朝の光が障子を染める中、お春は蔵の前で小さな麻袋を抱えていた。


 昨夜淹れた珈琲の香りが、まだ記憶に鮮明に残っている。あの一杯で確信した。この豆があれば、新しい道が開ける。


 しかし、現実は甘くない。


 袋の中の豆を一粒一粒数えると、せいぜい十杯分。手のひらに乗せた豆たちが、あまりにも少なく見える。商売を始めるには、到底足りない。


 胸が締め付けられる。この貴重な豆を、どうやって増やせばいいのか。


「お春、朝からそんなところで何をしているのだ」


 振り返ると、春之助が心配そうに立っていた。朝日に照らされた父の顔には、昨夜よりも深い皺が刻まれている。眉間の縦じわが、苦労の深さを物語っていた。


「父上、この豆について、長崎の商人様にお聞きしたいことが」


 お春は麻袋を大切そうに抱える。まるで宝物を扱うように、そっと胸に寄せた。


「これで商売ができるかもしれません」


 春之助の疲れた目に、かすかな光が宿った。長い間見たことのない希望の色だった。


「本当か。それなら早速、堺屋を訪ねてみよう」



 江戸の街は朝から活気に満ちていた。


 威勢の良い魚売りの声が響き、「いわしー、いわしー」の呼び声が空に舞う。桶を担いだ水売りが「みずー」と声を張り上げ、長屋から立ち上る朝餉の煙が青空に溶けていく。醤油と味噌の匂いが入り交じって、生命力に溢れた匂いを作り出している。


 下駄の音が石畳に響き、馬の蹄音が遠くから聞こえてくる。人々の話し声、笑い声、時折聞こえる喧嘩の声。すべてが人間の営みの音だった。


 お春は父と並んで歩きながら、この街で商売をする実感を噛みしめていた。足音一つにしても、現代とは違う響きがある。


 堺屋は日本橋の一等地にあった。


 立派な構えの店先には、長崎から運ばれた珍しい品々が並んでいる。色とりどりの織物が風にそよぎ、見たこともない香辛料の小袋からは異国の香りが漂う。南蛮渡来の薬草は、独特な刺激的な匂いを放っていた。どれも高価そうで、成功した商人の余裕を物語っている。


「これは春之助さんとお嬢さん。お久しぶりですな」


 奥から現れたのは、恰幅の良い中年男性だった。上質な絹の着物に金糸の刺繍、腰には立派な根付。堺屋総兵衛その人である。


 商人特有の、鋭い目つきをしている。一瞬で相手の懐具合を見抜きそうな、経験豊富な眼差しだった。


「実は、以前いただいた豆のことで」


「ああ、珈琲豆ですか」


 総兵衛の目が興味深そうに細くなる。商売の可能性を感じ取ったような表情だった。


「娘がその豆で薬湯を作ることができまして」


 お春は一歩前に出る。心臓が早鐘を打っているが、声を震わせるわけにはいかない。


「もう少し分けていただくことは」


「珈琲豆をもっと、ですか」


 総兵衛は商人らしく、値踏みするような目でお春を見つめる。品定めをするような、計算高い視線だった。


「あれは出島を通じて、オランダから仕入れているものでしてな」


 お春の胸が高鳴る。値段を聞くのが怖い。しかし、聞かなければ先に進めない。


「お値段は……」


「そうですなあ」


 総兵衛は指で算盤を弾くような仕草をした。その手つきから、決して安くないことが伝わってくる。


「一袋で、米一俵分といったところでしょうか」


 お春の顔が青ざめた。


 米一俵。庶民一家が一年近く食べられる量だ。春之助の借金を考えれば、手の届く金額ではない。手のひらが冷たくなり、足元がふらつくような感覚に襲われた。


「こ、米一俵も……」


 声が震えてしまった。あまりの高値に、頭が真っ白になる。


「何しろ遥か南の国から船で運ばれてくる代物ですからな。それに日本で飲む人など、数えるほどしかおりません」


 絶望的だった。


 しかし、諦めるわけにはいかない。ここで引き下がったら、父の借金返済の目処も立たない。


「その豆を求める方は、どのような目的で?」


「オランダの方々は薬として使うそうですが、我々には馴染みがない」


 薬として。


 お春の脳裏に、ひらめきが走った。電光石火のように閃く直感だった。


「その薬湯の効能は?」


「頭がすっきりと冴えて、眠気が覚めます。胃の働きも良くなるようで」


「ほう」


 総兵衛の表情が変わった。商人の勘が働いているのが見て取れる。


「頭が冴えるなら、学者や医者には重宝されそうですな」


「はい。きっと学問をされる方々に」


「それなら話のわかる薬種問屋を紹介しましょう。神田の薬師寺屋なら、蘭学にも詳しい」


 希望の光が見えた。暗闇の中に、小さな明かりが灯ったような安堵感が胸を満たす。


「ありがとうございます」


 その時、奥から若い男性が現れた。


 二十歳前後で、日焼けした誠実そうな顔立ち。働き者らしい力強い手をしているが、その中に優しさも感じられる。


「旦那、お客様ですか」


「ああ、源太。春之助さんのお嬢さんだ」


 源太と呼ばれた若い男性はお春を見て、ぱっと顔を赤らめた。


「源太と申します。お美しい……いえ、失礼いたしました」


 慌てて頭を下げる姿が、どこか微笑ましい。現代の男性にはない、素朴で真っ直ぐな人柄が滲み出ている。


「源太、失礼だぞ」


 総兵衛が苦笑いする。その瞬間、源太の手から持っていた帳簿が滑り落ちた。


 ばらばらと散らばる紙を、お春と源太が同時にしゃがんで拾い始める。


「あ、申し訳ございません」


「いえいえ」


 手が触れそうになって、二人とも真っ赤になる。


 源太の手が大きくて温かいことに、お春は不思議な安心感を覚えた。現代の男性にはない、土に触れて働く手の温もりがある。


「薬師寺屋への道案内をさせていただけませんか」


 源太の申し出に、お春は一瞬迷った。


「それは……」


「お願いいたします」


 春之助が頷く。源太の誠実そうな人柄を見抜いているのだろう。商人の父の目には、人を見る力がある。



 神田への道すがら、源太は江戸の街について教えてくれた。


 歩きながら、お春は現代との違いを改めて感じる。車の排気ガスはないが、馬糞や炭の匂いがする。人々の足音、馬の蹄音、大八車の軋む音。すべてが人間の営みの音だった。


「薬師寺屋の主人は変わり者で有名なんです」


 源太の声が心地よい。話し方に誠実さがあり、聞いているだけで安心できる。


「蘭学の本を集めて、オランダの薬を研究している。若い医者たちもよく集まってくるそうです」


「どのような先生方ですか」


「新しい治療法を学ぼうという、熱心な方々だと聞いております」


 これは好都合だった。珈琲の効能を理解してくれる人がいるなら、話も通じやすい。


「お嬢様は、その薬湯をどちらで習われたのですか」


 源太の質問に、お春は一瞬詰まった。


「実は……夢のお告げで」


「夢のお告げ」


 源太は真剣に聞いている。疑うような色はまったく見せない。


「高熱で寝込んでいた時、不思議な夢を見ました。その中で豆を炒って粉にし、湯で煮出すやり方を」


「それは素晴らしい。神仏のご加護ですね」


 源太の純朴さに、お春は心を動かされた。現代では失われてしまった、素直な信仰心がある。



 薬師寺屋は神田の一角にひっそりと建っていた。


 店先には朝鮮人参、熊の胆、鹿の角など、さまざまな薬草が並んでいる。独特な薬草の匂いが店の前まで漂っていて、少し鼻をつく刺激的な香りがした。


「いらっしゃいませ」


 現れたのは細身の中年男性。学者らしい雰囲気で、目の奥に知的な輝きがある。手には墨の染みが付き、学問に打ち込んでいることが分かる。


「堺屋様のご紹介で参りました」


 お春が紙片を差し出すと、男性の顔がぱっと明るくなった。


「総兵衛さんの。私は薬師寺玄庵と申します」


「珈琲豆という豆から作る薬湯について」


「珈琲豆」


 玄庵の目が輝いた。学者特有の、新しい知識への飢えが感じられる。


「どのような効能が?」


「頭が冴えて眠気が覚め、胃の調子も良くなります」


「それは蘭学の文献にも似た記述があります」


 玄庵は本棚から一冊取り出す。オランダ語で書かれた医学書だ。皮装丁の表紙は使い込まれ、何度も読み返された形跡がある。


「頭脳の働きを活発にし、疲労を回復させる効果があると」


「まさにその通りです」


「実際に作っていただけますか」


「はい、ぜひ」



 薬師寺屋の奥で、お春は珈琲を淹れた。


 持参した少量の豆を七輪で焙煎する。炭火の赤い色が美しく、熱気が頬を撫でていく。パチパチと音を立て、香ばしい匂いが立ち上がる。薬草の匂いが支配していた店内に、まったく違う香りが広がった。


「なんという良い香りでしょう」


 玄庵が感嘆する。鼻をひくひくと動かし、初めて嗅ぐ香りを堪能している。


 焙煎した豆をすり鉢で挽く。ゴリゴリという音と共に、より濃厚な香りが立ち上がってくる。急須に入れて湯を注ぎ、しばらく蒸らしてから茶碗に注いだ。


 湯気が立ち上り、珈琲の深い色が美しい。


「これが珈琲という薬湯です」


 玄庵は恐る恐る口をつけ、しばらく味わってから驚いた表情を見せた。


「確かに頭がすっきりします。苦味もありますが、不思議と後味が良い」


 目を閉じて、じっくりと効果を確かめている。


「いかがでしょうか」


「素晴らしい。蘭学を学ぶ医者たちにも喜ばれるでしょう」


 お春の胸が高鳴る。


「ぜひ、扱わせていただきたい」


「ただし……」


 お春の表情が曇る。


「豆が非常に高価でして。一袋で米一俵分も」


「それは確かに高い」


 玄庵は考え込む。指で机を叩きながら、計算しているようだった。


「しかし、効能が確かなら、学者や医者の中には多少高くても欲しがる方がおります」


 希望が見えてきた。暗雲の中から、一筋の光が差したような気持ちになる。



 帰り道、源太が声をかけた。


「うまくいきそうですね」


「おかげさまで。源太さんのおかげです」


 源太の顔がぽっと赤くなる。照れたような笑顔が愛らしい。


「また何かお手伝いできることがあれば」


「ありがとうございます」


 お春は微笑む。源太の真摯な態度が心地よかった。現代では出会えない、純粋な優しさがある。


 家に戻ると、春之助が待っていた。


「どうだった?」


「薬として売れる可能性があります」


 一日の出来事を話すと、春之助の顔に久しぶりの笑顔が戻った。


「それは素晴らしい。では早速」


「いえ、まだです」


 お春は首を振る。


「もっと技術を磨かなければ。一杯一杯を最高の出来にしないと」


 妥協は許されない。田中美咲として培ったプロの意識が、そう告げていた。



 その夜から、お春の格闘が始まった。


 わずかに残った豆で、焙煎と抽出を繰り返す。江戸時代の道具で、どれだけ美味しい珈琲を作れるか。


 まず七輪での焙煎に苦戦した。


 現代の電気焙煎機とはまるで違う。炭火の熱量は一定でなく、風向きで温度が変わる。少し気を抜くと真っ黒に焦げ、慌てて火から下ろしても時すでに遅し。


 最初の夜は五回も失敗した。


 焦げた豆の苦い匂いが台所に充満し、煙が目にしみて涙が出る。がっかりして座り込み、膝に顔を埋めた。


「これじゃだめだ」


 つぶやいて、立ち上がる。田中美咲はこんなところで諦めるような人間ではなかった。


 二日目、炭の配置を変えた。風の通り道を考え、熱が均等に回るように工夫する。炭を小さく砕いて、熱源を分散させてみた。


 しかし、今度は火力が弱すぎて、豆の芯まで熱が通らない。


 三日目、ようやく焦がさずに焙煎できた。


 しかし今度は抽出で苦労する。江戸の水質は現代と違う。ミネラル分が多く、同じやり方では思うような味が出ない。


 四日目、豆を挽きすぎて苦味が強くなった。すり鉢の目が細かすぎて、微細な粉になってしまったのだ。


 五日目、湯の温度が高すぎて酸味が飛んだ。温度計のない時代、手の感覚だけで温度を測るのは至難の技だった。


 六日目、抽出時間が長すぎて渋みが出た。


 七日目、豆を挽く粗さを変えて、また失敗。


 失敗を重ねながら、少しずつ改良していく。現代のカフェにはない、手作りの醍醐味があった。しかし、同時に歯がゆさも感じる。機械があれば簡単なことが、なぜこんなに難しいのか。


 豆が減っていくのが心配だったが、この技術習得は必要な投資だと自分に言い聞かせる。


 一週間目の夜。


 ついに満足のいく一杯ができた。香り高く、苦味と酸味のバランスが絶妙。現代のカフェに出しても通用する品質だった。


 茶碗を持つ手が震える。嬉しさで胸がいっぱいになった。


「お松、飲んでみませんか」


 そっと声をかけると、年配の女中が驚いた顔を見せる。


「私がですか?」


「お客様の反応を知りたいのです」


 お松は恐る恐る茶碗を受け取り、鼻を近づけて香りを嗅いだ。それからそっと口をつける。


 最初は戸惑ったような表情だったが、だんだんと驚きの色が浮かんできた。


「これは……なんとも不思議な味ですね」


「いかがですか」


「最初は苦いと思いましたが、だんだん美味しく感じます。それに確かに頭がすっきりして」


 お松は茶碗を大切そうに両手で持っている。湯気で顔がほころんでいる。


「身体も温まりますね。これなら高いお金を払っても飲みたいという方がいらっしゃるでしょう」


 お春は確信を得た。


 この珈琲なら、きっと江戸の人々にも受け入れてもらえる。品質に自信が持てた。


「お松、ありがとうございます」


「いえいえ。本当に良い薬湯ですね」


 夜空を見上げると、星が美しく輝いている。


 明日から本格的に商売の準備を始めよう。珈琲を武器に、この江戸で新しい道を切り開くのだ。


 台所に珈琲の香りが漂い、希望に満ちた夜が更けていく。


 夜警の拍子木の音が遠くから響いてきて、平和な江戸の夜を物語っていた。「火の用心、火の用心」という声が、夜の静寂に溶けている。すべてが希望に満ちて見える。


 お春は茶碗を大切に洗いながら、明日への決意を新たにしていた。


 一歩一歩、着実に前進している実感があった。田中美咲の技術と、お春の商売感覚。二つの人生の経験が重なって、新しい可能性を生み出している。


 珈琲の香りが夜風に乗って、希望の未来へと運ばれていく。

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