「おはよう」は朝露のように軽やか。「ありがとう」は小石ほどの重み。そして「さようなら」は、いつも思いがけないほど重い。
私の名前は
この町では、言葉に物理的な重さがあることを皆知っている。軽すぎる言葉は信用されず、重すぎる言葉は人を押し潰す。適切な重さの言葉だけが、人と人をつなぐのだ。商取引には「約束」の重さが法的に規定され、結婚式では「誓い」の重量が証明書に記載される。葬儀では「追悼」の言葉が故人への愛の証とされる。
私が幼い頃、父はよく言っていた。
「言葉の重さは、その人の心の重さそのものなんだよ、秀明」
父の教えは、いつも金塊のように重く、私の胸に刻まれている。
今朝も八時きっかりに工房を開けると、すでに客が列を作っていた。最初の客は松井商店の主人だ。
「田中さん、この契約書の『必ず納品いたします』って言葉、重さはどうかな」
私は慣れた手つきで精密秤に言葉を乗せる。針が示したのは標準的な重量。
「問題ありませんね。信頼できる約束の重さです」
松井さんは安堵の表情を浮かべて帰っていく。
次は小学校の田村先生。運動会の開会宣言の練習だ。
「子どもたちに伝わりやすい重さにしたいんです」
「頑張りましょう」という言葉が軽すぎたので、「一緒に頑張りましょう」に変更する。共感の重みが加わり、子どもたちの心に響く重さになった。
昼休み前には市役所の鈴木課長。選挙公約の重量測定だ。
「市民の皆様のために」という言葉が予想以上に軽く、私たちは顔を見合わせた。
「課長、もう一度心を込めて言ってみてください」
二度目も同じ重さ。鈴木さんの表情が曇る。
「田中さん、正直に言います。最近、この仕事に疲れてしまって...市民のためと言いながら、自分でも本気で思えているのか分からなくなったんです」
その告白は、鉛のように重く秤を押し下げた。
「鈴木さん、まずはその正直な気持ちを大切にしてください。重い言葉から、軽やかな希望も生まれるものです」
午後三時、いつものように彼女がやってきた。
「今日もお疲れさま」
「コスモスが綺麗に咲いたの。よかったら見に来て」
彼女の誘いの言葉は、いつも花びらのように軽やかで温かい。私たちは一年前から付き合っている。正確には、付き合っているということになっている。
美咲と出会ったのは、彼女が花屋を継いだ日だった。先代の店主から託された「愛情を込めて育てます」という言葉の重さを測定してほしいと、泣きながら訪ねてきたのだ。その時の彼女の涙は、真珠のように美しく重かった。
「実は、君に言いたいことがあるんだ」
私は震える手で、心の奥底から紡ぎ出した言葉を秤に乗せた。工房の空気が張り詰める。
「愛している」
その瞬間、秤の針が示した重さに、私は息を呑んだ。羽毛よりも軽い。風に飛ばされそうなほど軽い。まるで口先だけの嘘のように。
美咲の顔が青ざめる。
「嘘ね」
彼女の言葉は、私の胸に鉛のように重く沈んだ。
「違う、本当に──」
「本当に」という言葉すら、蝶の羽のように軽やか。私自身が驚くほどに。
美咲は立ち上がった。
「秀明さん、私...混乱してるの。あなたの言葉を信じたいけど、秤は嘘をつかないでしょう?」
そう言って彼女は工房を出て行った。ドアの閉まる音だけが、ひどく重く響いた。
その夜、私は一人工房に残り、古い記録を調べた。父の代から続く「愛情表現重量記録簿」。過去七十年間に測定された「愛している」の重さの記録が、几帳面に記されている。
初恋の高校生のそれは意外に重く、結婚五十年の老夫婦のそれは鉄のように重い。新婚夫婦のものは金のような輝きを持った重さ。離婚直前の夫婦のそれは、私のと同じく羽のように軽かった。
記録簿の最後のページに、父の筆跡でこんな言葉があった。
「愛の重さは、経験と時間によって変化する。軽い愛を恥じることはない。大切なのは、その軽さの理由を知ることだ」
私は美咲との思い出を辿った。初めて会った日、初めて手をつないだ日、初めてキスをした日。どれも心地よい記憶だったが、どこか曖昧で、輪郭がぼやけている。まるで、心の表面だけで感じていたかのように。
深夜、工房の電話が鳴った。
「田中です」
「秀明、俺だ」
大学時代の親友、佐藤の声だった。彼は東京で医者をしている。
「突然で悪いんだが、聞いてくれ。今日、患者を亡くした。六歳の女の子だった」
佐藤の声は重く沈んでいる。
「最後に『また明日ね』って言ったんだ。でも明日は来なかった。その言葉が、今も胸に重くのしかかってる」
私は受話器を握りしめた。
「佐藤、その重さは君の責任感の証だ。医者として、人として、君が真剣にその子と向き合った証拠だよ」
「ありがとう、秀明。君の言葉は、いつも適切な重さで届くな」
電話を切った後、私は気づいた。友情の重さを。佐藤への共感の重さを。そして、美咲への感情の軽さの理由を。
翌朝、美咲が工房を訪れた。目が少し腫れている。
「昨日は驚かせてごめん」
彼女の謝罪は、程よい重さで秤に乗る。
「でも、あなたの『愛している』が軽すぎたの。私、一晩中考えたの」
私は正直に答えることにした。
「僕も一晩中考えた。君のことは大切に思っているし、一緒にいると心地いい。でも、それが愛なのかどうか、分からなくなった」
その言葉は、石のように重く、秤の皿を押し下げた。
美咲は微笑んだ。
「正直ね。その重さ、信用できる」
彼女の言葉も、同じくらい重い。
「私も同じよ。あなたといると安心するし、楽しい。でも、それが愛かと言われると...」
私たちは顔を見合わせて笑った。その笑いは軽やかだったが、決して軽薄ではなかった。
「秀明さん、提案があるの」
美咲が工房の椅子に深く座り直す。
「愛を探してみない?本物の重さを持つ愛を。この町で、いろんな人の愛を見て、聞いて、学んでみない?」
それは素晴らしい提案だった。言葉秤師として、愛の重さについて真剣に学ぶべきだった。
私たちの愛の探求は、町の図書館から始まった。司書の山田さんは七十歳を過ぎているが、文学に関する造詣が深い。
「愛について書かれた名作を読みたいのですが」
山田さんは目を輝かせた。
「それは素晴らしい!まずはこれらからどうぞ」
彼女が選んでくれた本は十冊。夏目漱石の「こころ」、川端康成の「雪国」、太宰治の「人間失格」、そして現代作家の恋愛小説まで。私たちは毎晩、美咲の花屋の二階で読書会を開いた。
「漱石の『こころ』で、先生がKに対して感じていた友情と罪悪感、これはどのくらいの重さでしょう?」
美咲の質問に、私は考え込んだ。
「きっと、耐え難いほど重かったんだろうね。重すぎて、彼を押し潰してしまった」
読書を通じて、私たちは様々な愛の形を知った。激しい恋愛感情、家族への愛、友情、そして自己愛。それぞれに異なる重さがあり、時には軽やかに、時には重く人の心を占めることを学んだ。
次に私たちは、町の人々にインタビューを始めた。最初に訪れたのは結婚五十年を迎える田中夫妻(私とは別の田中さんだ)の家だった。
「ご夫婦の『愛している』を測定させていただいた時、とても重い数値が出ましたが、その秘訣を教えてください」
おじいさんは優しく微笑んだ。
「秘訣なんてないよ。ただ、毎日毎日、相手のことを考えて生きてきただけ。喜びも悲しみも、全部二人で背負ってきた。そうしたら、自然と重くなったんだろうね」
おばあさんが続けた。
「最初はね、軽かったのよ。お互いのことをよく知らなかったから。でも一緒に暮らして、子育てして、病気になって、親を見送って...そういう経験を重ねるうちに、愛も重くなっていくの」
なるほど、と私は思った。愛の重さは、共有した経験の重みなのかもしれない。
新婚の中村夫妻にも話を聞いた。彼らの「愛している」は、金のような輝きを持った重さだった。
「新婚さんの愛の重さの秘密を教えてください」
奥さんが頬を赤らめながら答えた。
「秘密なんて...でも、彼と出会ってから毎日が輝いて見えるんです。朝起きるのが楽しくて、彼の帰りを待つ時間も幸せで」
旦那さんが続けた。
「僕も同じです。彼女のために何かしたいって、自然に思える。彼女の笑顔を見ていると、世界中の重い荷物でも背負えそうな気がするんです」
若い愛の重さは、希望の重さなのだと理解した。未来への期待と、相手への無限の可能性を信じる気持ちが、その重量を作り出している。
私たちは親子の愛についても学んだ。小学校教師の田村先生に、息子さんへの愛について話を聞いた。
「息子が生まれた時、『愛している』と言った言葉の重さを覚えていますか?」
田村先生は遠くを見つめた。
「あれは...言葉にならないほど重かったですね。でも重いというより、胸の奥から湧き上がってくる、生命そのものの重さでした。理屈じゃない、本能的な愛の重さでした」
一方で、失恋の痛みについても聞いた。大学生の山田君(図書館司書さんとは別人)が、振られた恋人への想いを語ってくれた。
「まだ『愛している』と言うと、すごく重いんです。でもその重さが、苦しいんです。相手はもういないのに、重さだけが残ってる」
愛の重さは、時として人を苦しめることもあるのだと知った。
半年間の探求の末、私たちは多くのことを学んだ。愛には様々な形があり、それぞれに独特の重さがあること。時間と経験が愛の重さを変えること。軽い愛も、重い愛も、どちらも真実の愛であること。
そして何より大切なのは、その重さを受け入れ、育てていくことなのだと理解した。
ある秋の夕方、私は再び美咲に言った。
「愛している」
今度の重さは、羽毛と鉄の中間だった。軽すぎず、重すぎず。私たちが共に過ごした時間、一緒に学んだこと、支え合った経験、全てが適切な重みとなって表れていた。
美咲も答える。
「私も愛してる」
同じ重さで。でも、その重さの中身は以前とは全く違っていた。深い理解と、確かな信頼と、そして未来への希望が込められていた。
「これから、この重さを育てていこう」
私の提案に、美咲が頷く。
「一緒に、もっと重い愛にしていこうね」
それから一年が過ぎた。私と美咲は結婚し、工房の隣に小さな家を建てた。毎朝、美咲は花屋を開ける前に工房に顔を出し、「おはようございます、ご主人様」と冗談交じりに声をかける。その言葉は、新婚らしい軽やかさと、確かな愛情の重さを併せ持っている。
私の仕事も変化した。単に言葉の重さを測定するだけでなく、人々に言葉の重さについて考える機会を提供するようになった。週末には「言葉の重さワークショップ」を開き、親子や夫婦が互いの言葉の重さについて話し合う場を作った。
今日も朝から客が絶えない。商人、教師、政治家、学生、主婦、子ども。様々な人が様々な言葉を持ってやってくる。
昼過ぎ、見知らぬ青年が工房を訪れた。
「すみません、恋人に『愛している』と言いたいのですが、重さが心配で...」
私は微笑んだ。かつての自分を見ているようだった。
「まず、言ってみてください」
「愛している」
軽やか過ぎる重さ。青年の顔が青くなる。
「軽すぎますね...どうすれば重くなりますか?」
私は彼に椅子に座るよう勧めた。
「愛の重さは、作るものじゃありません。育てるものです。今の軽さは、今のあなたの真実です。それを恥じる必要はありません」
「でも、相手に信じてもらえるでしょうか?」
「正直に、今の気持ちと、これから育てていきたい気持ちを伝えてみてはどうですか?」
青年は少し考えて言った。
「君のことが好きです。まだ愛と呼べるかわからないけれど、一緒に本当の愛を育てていきたい」
その言葉は、程よい重さで秤に乗った。希望の重さ、誠実さの重さ、そして成長への意欲の重さ。
「これなら、きっと伝わりますよ」
青年は安心した表情で帰っていった。
夕方、美咲が工房にやってきた。
「今日もお疲れさま」
いつもの挨拶が、今日は少し重い。
「どうしたの?」
美咲は少し照れながら答えた。
「実は...お医者さんに行ってきたの」
私の心臓が高鳴る。
「赤ちゃんができました」
私たちは抱き合った。そして同時に言った。
「愛している」
その言葉の重さは、これまでで最も重く、そして最も軽やかだった。新しい命への愛、お互いへの深まった愛、家族になる喜び、全てが複雑に絡み合った重さだった。
工房の外では、今日も人々が言葉を交わしている。軽い言葉、重い言葉、それぞれがその人の真実を運んでいる。私は美咲の手を握りながら、言葉の重さの向こうに隠された、人の心の重さを思う。
愛は、測れるものではない。でも、その重さを知ることで、大切にしなければならないものが見えてくる。軽い愛から重い愛へ。重い愛から軽やかな愛へ。愛は成長し、変化し、時には形を変えながら、人と人をつなぎ続けている。
明日もまた、私の秤の上で、誰かの真実が重さを持って踊るだろう。そして私は、その重さに込められた人の心に耳を傾け続けていく。
工房の壁に掛けられた「言葉の重量表」に、私は新しい項目を書き加えた。
「希望:軽やかでありながら、確かな重みを持つ」
これからの私たちの愛が、まさにその重さなのだから。
言葉の重さは、人生の重さ。そして人生の重さは、愛の重さなのだ。