豪壮な執務室に漂う静寂。その中で、一人の老将軍が瞑想に耽っていた。
鉄鋼公アイゼン──
グロムガルド帝国の軍部を束ねる大将軍にして、英雄と謳われる存在。
彼の灰色がかった長い髭には、数々の戦功を物語る煌びやかな勲章が飾られている。一方でその部屋には、そうした栄誉を誇示するような華美な装飾は一切見当たらなかった。
古びた武具が壁に掛けられ、使い込まれた机には戦術書が積み上げられている。それは、まさに武人の住まうべき空間だった。
「……」
筋骨隆々とした体躯を持つアイゼンは、まさに古の戦士の血を引く典型的なドワーフの風貌をしていた。
彼は今、使用人一人置かぬこの部屋で、ただ静かに武の道に思いを馳せている。
そして、不意に言った。
「無粋な輩は、疾く去れ」
アイゼンは瞼を閉じたまま、静かに告げた。
武人の感覚が、並外れた気配の存在を察知していた。これまでの長い軍歴で感じたことのない、底知れぬ武の気配。
それだけで、来訪者が何者であるか、察することができた。
「申し訳ありません、鉄鋼公」
穏やかな声が、静寂を優しく断ち切る。
「瞑想の邪魔をするつもりはなかったのですが──貴方にどうしてもお会いしたくて」
アドリアンの声には、どこか懐かしむような色が混じっていた。
老将軍はゆっくりと瞼を開く。そこには、凛とした佇まいのアドリアンと、その傍らで静かに控えるメーラの姿があった。
「何用か」
アイゼンは低く呟くように言った。
アドリアンは静かに部屋を歩き、隅に置かれた一振りの剣に手を伸ばす。手入れの行き届いた刃身が、僅かな光を捉えて煌めいた。
「この剣……実に美しい」
彼は刃を見つめながら、しみじみとした口調で言う。
「手入れが行き届いていて、刃も研ぎ澄まされている。流石は鉄鋼公、自らの命を預ける武具の手入れを怠らない、真の武人だ」
「何用か、と聞いている」
アイゼンの声が、より一層低く響いた。その瞳には、軽々しい言葉では動かされない強い意志が宿っていた。
「鉄鋼公アイゼン卿。突然の来訪、申し訳ございません。私たちは……」
メーラが丁寧に言葉を紡ごうとした瞬間、アイゼンの鋭い眼光が彼女を射抜く。
その圧倒的な威圧感に、メーラはびくりと肩を震わせ、声を詰まらせてしまった。
「おっと」
そんな二人の間に、アドリアンは軽やかに間に割り込んだ。社交界の立ち話でもするかのような、艶のある声で言った。
「鉄鋼公。淑女に対する態度としては、いささか粗暴ではありませんか?」
彼は意図的に間を置き、皮肉めいた微笑みを浮かべながら続けた。
「まぁ、軍人養成所では、ご婦人への礼儀作法より戦術の方が大事だと教わるんでしょうけどね」
今度はアイゼンの鋭い視線がアドリアンを捉えたが、彼は優雅な笑みを浮かべたまま、その威圧に微塵も動じる様子を見せなかった。
「対シャドリオス連合の話を、と進めたいところなのですが……その前に、鉄鋼公にお伺いしたいことがございましてね」
アドリアンは手にした剣を、軽く回しながら言った。
「アイゼン卿。何故、貴方は魔導機械を否定するのです?」
その問いに、アイゼンの眉が僅かに動いた。老将軍の目が、冷たい光を帯びる。
「なるほど。あの気の触れた科学者の操り人形になったか。随分と格が落ちたな、人間の『英雄』よ」
アドリアンは優雅に肩を竦め、言った。
「機計公の言葉を借りれば、『化石と化した連中に拳で理を説け』とのことでしたから。私も出来る限り協力させていただこうと」
「ほう」
アイゼンはゆっくりと立ち上がる。その動作には、老いを微塵も感じさせない気品があった。
「この老いぼれを、今このような場所で、力づくで説得するというのか?」
「ええ、必要とあらば」
アドリアンは艶のある声で返すが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
「私は武人が相手なら、年齢も、性別も、思想も関係なく、一切の容赦はしないことにしています。それが武人に対しての礼儀だし、何より──」
そして、最後の言葉だけは、それまでの軽やかさを捨て去った真摯な声音で告げた。
「──俺も、武人だからな」
アドリアンの瞳が煌めいた、その瞬間──アイゼンの体から凄まじい闘気が迸る。
それは決して「老いぼれ」などという言葉で片付けられるものではなく、一流の戦士だけが放ちうる、圧倒的な力の奔流だった。
メーラは思わず身を縮め、アドリアンの背後に身を隠す。
しかし、アドリアンは微動だにせず、むしろ楽しげな微笑すら浮かべていた。
「しかし残念ながら、今はその時ではないようだ」
アドリアンは優雅に微笑みながら、そう言った。
「お互いの拳の交わりは、もう少し相応しい時と場所でお預かりしておきましょうか」
「むっ……」
拍子抜けしたように、アイゼンの放っていた凄まじい気迫が萎んでいく。
「私が今お聞きしたいのは別のことです」
アドリアンは真摯な表情を浮かべ、静かに続けた。
「アイゼン卿という武人としてではなく、『旧武派の元締め』である鉄鋼公として。何故、軍を二分するほどまでに、魔導機械を忌避なさるのでしょうか」
その問いに、アイゼンは再び瞑目し、僅かに俯く。その表情には、かすかな苦悶の色が浮かんでいた。
「……忌避している訳ではない」
暫しの沈黙の後、突如として放たれた言葉に、アドリアンとメーラは思わず顔を見合わせた。
嫌っていない?ならば何故、このような深刻な対立が生まれてしまったのか。
そんな二人の疑念を見通したかのように、アイゼンは静かに口を開いた。
「貴殿も武人というのならば……分かるだろう」
アイゼンの声が、重く響く。その表情には、長年抱え続けてきた想いが刻まれているようだった。
「魔導機械兵……あれは確かに圧倒的な力を誇る兵器だ。鋼鉄よりも遥かに硬い装甲で剣も弓矢も跳ね返し、小型の魔導砲で敵を殲滅する……まさに戦争の為の兵器だ」
彼は拳を握りしめ、かすかに震わせながら続けた。
「しかし、この老いぼれには我慢がならんのだ。鍛錬も修練もせず、ただ与えられた力で敵を蹂躙する。その……非道さが」
アイゼンは立ち上がり、壁に飾られた古びた剣を見つめる。
「儂とて軍人、この手で数え切れぬほどの命を奪ってきた。だが、それは全て儂自身の意思、儂自身の手によるものだ」
彼は自らの手のひらを見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「勝利の栄誉も、命を奪った罪業も、全ては儂が背負うべきもの。それを魔導機械兵という命無き存在に委ねてはならぬ。それこそが、武人の道というものではないのか」
その言葉には、年月を重ねた戦士の矜持と、揺るぎない信念が滲んでいた。
アドリアンは瞳を閉じ、老将軍の言葉を静かに受け止めた。
その表情には、哀愁と、そして何か言葉にできない深い感情が浮かんでいる。
しかし、彼は突如として目を見開くと、凛とした声でアイゼンに告げた。
「鉄鋼公。あなたの言葉には、武人としての誇り高き想いが込められていることは、俺にも分かる」
彼は一歩前に進み出て、真摯な眼差しでアイゼンを見つめた。
「魔導機械兵は確かに、与えられた力かもしれない。しかし、それを使いこなすのは紛れもない戦士たちです。彼らは己の命を賭して、戦場で戦っている。その想いは、武器が剣であれ、槍であれ、魔導機械兵であれ、変わらないはず」
アドリアンの声には、どこか深い確信が滲んでいた。まるで、幾度もの戦場を経験してきた者の言葉のように。
「英雄殿よ」
アイゼンは困惑に満ちた表情で、じっとアドリアンを見つめた。
「貴殿は人間。なぜ、魔導機械兵の存在を肯定する?人間にとって、あんな兵器など目障りな存在でしかないはずだが」
「私は確かに人間です。ただし」
アドリアンは微笑みながら答えた。
「貴方がたが敵視しているアルヴェリア王国とは無関係の人間ですよ」
そして──彼は意図的に言葉を区切り、遠い記憶を見つめるような眼差しで続けた。
「俺は知っているんです。魔導機械兵に乗って、仲間を、そして世界を守るために散っていった勇敢な戦士たちの姿を。彼らは決して、単なる『機械の操り人形』などではなかった」
その言葉に込められた深い想いに、アイゼンの眉が更に寄る。まるで、アドリアンという謎めいた存在が、より一層の謎を帯びていくかのように。
「そう言えば」
アドリアンは突如として、声音を変えて言った。
「もうすぐ『鋼の祭典』ですね」
「むっ……?あ、ああ……そうだが」
話題の唐突な転換に、アイゼンは戸惑いの表情を浮かべる。
『鋼の祭典』──それはグロムガルド帝国の一大行事であり、全帝国民が心待ちにする伝統の闘技大会だ。
しかし、何故こんな時にそのような話を……?
「その大会で、革新派と旧武派の可愛らしい諍いに、ケリをつけてみては如何です?」
「なに……?」
「ご心配なく。私からベレヒナグル卿にも話しておきますよ。きっと彼なら『ふむ、そうかね』と、愛しい機械から目も離さずに賛成してくれるはず」
「な、何を言って……」
「本来なら魔導機械兵なんて、伝統ある大会に出場なんてできるはずもないのですが」
アドリアンは意味ありげな微笑みを浮かべる。
「二人の大公爵──その中には勿論、貴方も含まれますが──のご要望となれば、大会の運営も首を縦に振らざるを得ないでしょうから」
アイゼンは驚愕した。この男は何を言っているんだ、と。
『鋼の祭典』を、派閥同士の争いに使う?そんなことが……いや、出来るだろうが……。
困惑するアイゼンを他所に、アドリアンが口を開く。
「では、ご自身の派閥に話を通しておいてくださいね、アイゼン卿」
アドリアンはまるで既定の事実でもあるかのように言い放つ。
「私たちは機計公に話を持ちかけて参りますので」
「ま、待て!まだ儂は同意など……!」
「あぁ、申し訳ありません。実は急いでおりまして」
アドリアンは申し訳なさそうに、しかし困ったように頭を掻きながら肩を竦める。
「機計公の研究室に置いてきた好奇心旺盛なエルフのお嬢さんたちが、今頃は彼の大切な機械を可愛らしく分解している頃かと。早く戻らないと大変なことに」
そう言って、メーラの手を取り、颯爽と部屋を後にしようとする。
目を丸めるアイゼンに、アドリアンは最後にくるりと振り返った。
「あ、そうそう。言い忘れていましたが」
彼は意味ありげな笑みを浮かべ、まるで秘密を打ち明けるかのように付け加えた。
「──実は私も、魔導機械兵が大嫌いなんです。貴方と全く同じようにね」
そして、アドリアンはそそくさとメーラを連れ去ってしまった。
その場に取り残されたアイゼンは、しばらく硬直したまま、状況を理解しようと努めていた。
そして──
「はぁ?」
老将軍の執務室に、呆然とした声が響き渡った。