青白いシャヘライトの光を湛えた地下帝国の宮殿前。
本来ならば、帝国民の誇りと安らぎの象徴たる大広場は、今や阿鼻叫喚の戦場と化していた。
「Grrrrrrr……!」
黒い影が地面から染み出すように這い出てくる。
人の形を模しながら決して人とは呼べない漆黒の兵士たち。獣の姿を借りながら、自然界の生き物とは思えない禍々しい化け物たち。
「また新手か!?どこまで湧いて出る気だ!」
帝国の近衛兵たちが魔導機械兵を駆使して応戦するも、一体のシャドリオスを倒せば、その影から新たな個体が生まれ出でる。
「第三層からも大規模な反応!」
「第五層の防衛線が破られました!」
魔導通信機から次々と悲痛な報告が飛び交う。大広場だけではない。帝都の全域、全ての階層で漆黒の軍勢が湧き続けていた。
まるで……帝国の心臓部に、底なしの闇が根を張ったかのように──。
「各層からの通信が途絶え始めております!地下帝国の全階層で、シャドリオスの大量発生を確認!このままでは……!」
通信装置からの声が途切れた瞬間、天井から一際大きな影が降り立つ。
三階建ての建物ほどもある巨大な漆黒の獣が、その牙を剥き出しにしながら咆哮を上げる。
「gyaaaaaaa!!!!」
悲鳴が響き渡る広場で、兵士たちは巨大な異形の獣を前に足が竦んでいた。
いや、竦むのも当然だろう。悍ましい巨体。漆黒の体毛からは禍々しい靄が立ち昇り、その瞳は血に飢えたような赤い輝きを放っている。
「あ、あんなもの……どうやって倒せば……!」
帝国兵たちが恐怖に震える中、魔導機械兵だけは果敢に突撃を続けていた。
感情を持たぬ鋼の戦士たちは、死を恐れることなく巨大なシャドリオスへと襲いかかる。
「Gii!!」
だが、巨獣が前足を振るった瞬間、紙細工のように魔導機械兵たちが引き裂かれていく。
鋼鉄の装甲が木っ端微塵となり、シャヘライトが砕け散る。炸裂する爆発の中、何体もの機械兵が破壊されていった。
「う、嘘だ……魔導機械兵が、一撃で……!」
戦慄が兵士たちの間に広がっていく。
帝国最強の兵器と謳われた魔導機械兵すら、あの巨獣の前では子供の玩具のように脆かった。
巨獣の咆哮が轟き渡る。その声に呼応するように、更なる漆黒の影が地面から這い出してくる。
誰があんな化け物を止められるというのか──。
しかし、帝国軍には退路などない。
彼らの背後には宮殿があり、その中には皇帝陛下と避難してきた民たちがいる。一歩でも後退すれば、あの悍ましい獣が宮殿を襲うことは火を見るより明らかだった。
「くっ……どうすれば……!」
戦士たちが狼狽える中、一筋の閃光が戦場を切り裂いた。
「──戦士たちよ!私に続け!」
轟音と共に、赤い光が戦場を切り裂いた。
凛とした雄叫びが響き渡る中、一人の姿が宙を舞う。
小柄ながらも気品に満ちた体躯。彼女の手には、少女とは思えぬほどの巨大なウォーハンマーが握られていた。
──帝国の誇り、皇姫トルヴィアである。
「はぁーっ!」
トルヴィアの雄叫びと共に、巨大なウォーハンマーが優雅に舞う。
その動きは重量感を感じさせない程に軽やかで、大柄な武器とは思えない程の華麗な軌道を描きながら、次々と敵を薙ぎ払っていく。
小型シャドリオスたちは、木の葉のように吹き飛ばされ、闇の粒子となって消え去っていく。
「トルヴィア様!」
「皇姫様の御剣となれ!帝国の誇りにかけて、姫様をお守りするのだ!」
彼女の勇姿に、帝国軍の士気は一気に最高潮に達する。戦士たちは恐れを忘れ、皇姫の後に続いて突撃していった。
その様子を見届けながら、トルヴィアは巨大な獣型シャドリオスを見据えていた。
「あの化け物は、一体──」
呟きながら、彼女は考えを巡らせる。
シャドリオス。これまでにも度々帝国の領内に姿を現し、民を襲っては消えていった謎の存在。
今までこれほどの大規模な襲撃も、あのような巨大な個体も見たことがない。
しかし、今はそんなことを考えている暇などなかった。
目の前の化け物を倒す──それだけが今の彼女に課せられた使命。
トルヴィアはウォーハンマーを力強く握り直すと、大地を蹴る。
「行くぞっ!!」
轟音と共に突き進む赤い閃光。それは彗星のように、一直線に巨大なシャドリオスへと向かっていく。
漆黒の獣が前足を振り上げ、襲い掛かってくる。
しかし──。
「くらいなさい!」
トルヴィアの持つウォーハンマーが、真紅の炎に包まれた。
灼熱の渦が彼女を中心に巻き起こり、戦場全体を焦がすような熱気が広がっていく。
これこそが彼女の加護──『炎の戦乙女』。
戦闘中、武器に灼熱の炎を纏わせ、凄まじい破壊力を付与する力。燃え盛る業火は敵を焼き尽くし、その範囲は広場全体をも覆い尽くすほどだ。
「giii!?」
灼熱の一撃が巨獣の頭部を直撃する。
真紅の炎が漆黒の体表を焼き尽くし、轟音と共に獣が悲鳴を上げる。
凄まじい一撃だ。だが……。
「──くっ、まだ生きてる……!?」
渾身の一撃を放ったというのに、巨獣は健在だった。その漆黒の体からは、むしろ更なる禍々しい靄が立ち昇っている。
「……!」
その時、巨獣が大きく口を開いた。
まるで暗闇そのものが口を開けたかのような漆黒の咢。そこには幾重もの牙が並び、トルヴィアを一息で貫こうとしていた。
しかし──。
「gyaaaaa!?」
突如として、一筋の光が巨獣の口内へと吸い込まれる。
それは弓矢──だが、通常の矢などではない。
空間そのものが歪むほどの魔力を帯びた一矢が、巨獣の体内で炸裂した。
トルヴィアは弓矢の飛来した方向を見上げた。
そこには一人のエルフの少女が、凛とした佇まいで佇んでいた。
レフィーラ──森林国が誇る『守護者』の姿だった。
「トルヴィアちゃん!大丈夫!?」
純真な声が響く。その手に握られた魔法の弓こそが、エルフの最高戦力『守護者』の証。
普段は天真爛漫な少女だが、戦いとなれば一転して鋭い眼差しを見せる彼女の真骨頂だ。
「……ありがとう、助かったわ!」
トルヴィアは心からの笑顔で応える。
かつてならば、エルフという仮想敵の力を前に警戒を強めていたはずだ。しかし今は違う。レフィーラの純真な心と確かな力を知った今、彼女の存在は何よりの心強さだった。
トルヴィアが着地すると、レフィーラが駆け寄ってきた。金色のポニーテールを揺らしながら彼女は状況を説明する。
「全方位からシャドリオスが湧き出てきてるけど……ザラコスさんや、ケルナたちがなんとか撃退してるよ!」
「そう……貴女たちがいてくれて、本当によかった」
トルヴィアは心からの安堵を込めて答える。
しかし、その瞳には深い憂いの色が浮かんでいた。
──シャドリオスたちの動きが、明らかに変わってきている。
最初は無差別な破壊行動を繰り返すだけだったのが、今では皇帝と民が避難している宮殿に向かって、まるで吸い寄せられるように集結し始めていた。
もはや盲目的な破壊衝動ではない。明確な殺意を持って、宮殿を目指しているのだ。
「それにしても、今の大きなオオカミみたいなシャドリオス……初めて見た」
「……私もよ」
これだけ大規模な襲撃も、新種のシャドリオスの出現も、全てが前例のない事態だった。
(一体、何が起きているというの……?)
──その時である。
「ト、トルヴィア様!新たな巨大シャドリオスが……!」
遠くから鳴り響く凄まじい咆哮と共に、一人の兵士が駆け込んできた。
その声に振り向いた二人の戦姫の瞳が、驚愕で見開かれる。
遠くの瓦礫の山から、巨大な漆黒の影が次々と姿を現していく。三階建ての建物ほどもある獣型のシャドリオス。
それが、一匹、また一匹と──。
「ご、五匹……?」
トルヴィアの声が、震えていた。
先ほどの一匹ですら手こずったというのに、その悍ましい存在が五体も。
五匹の巨獣が放つ咆哮が、宮殿の大広場に轟き渡る。
「……溜息吐いてる暇は、なさそうだね」
「そうね、やるしかないわ!」
トルヴィアが闘志を漲らせてウォーハンマーを握りしめた、その瞬間──。
「──お嬢さん方、俺もご一緒させてもらってもいいかい?」
轟音と共に閃光が戦場を切り裂く。
巨大なシャドリオスの漆黒の体が、一瞬にして貫かれた。まるで紙を切り裂くかのような音と共に、獣の体が二つに引き裂かれていく。
見上げると、深紅の外套をはためかせたアドリアンが、メーラをお姫様抱っこしたまま宙に浮かんでいた。
「アドリアン!」
レフィーラは満面の笑みを浮かべて彼の名を呼ぶ。
アドリアンは軽くウインクを返すと、戦場を見渡しながら笑みを浮かべた。
「巨大な看板犬が五匹かぁ。いや、今一匹片付けたから四匹だったね。メーラ、こんなに大きいと散歩も大変そうだけど、飼ってみない?」
「……多分懐かないと思う」
メーラは呆れたような、困ったような表情で答えた。
「そうか。残念。じゃあ──お仕置きの時間だ!」
アドリアンは優雅に宙を舞う。
巨獣たちが牙を剥いて襲い掛かってくるが、彼の動きは風のように軽やか。メーラを抱いたまま、踊るかのように空中を渦巻いていく。
「はっ!」
閃光と共に、彼の足技が炸裂。
漆黒の獣たちの体が、次々と空中で弾け飛ばされていく。青白い魔法の光が四方八方から降り注ぎ、巨獣たちを次々と貫いていった。
「gii……!?」
その華麗な戦いぶりは、まさに芸術。
戦闘とは思えないほどの優美さで、アドリアンは四匹の巨獣たちを玩具のように弄んでいく。
「──怖いかい?メーラ」
戦場の真っ只中を駆け抜けながら、アドリアンは腕の中の少女に優しく問いかける。
しかし、メーラはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。アドが、傍にいるから」
その言葉には、揺るぎない信頼が込められていた。
アドリアンが傍にいる限り、たとえそれが死地であろうと、彼女にとってはこの上ない安らぎの場所となる──そう、メーラは心の底から信じていた。
空中の舞踏が終わると、巨大なシャドリオスたちは静かに靄となって消え去っていた。
「あ、あの化け物を一瞬で?」
「流石英雄さまだ……!」
兵士たちの歓声が戦場に響き渡る中、アドリアンはメーラを抱いたまま、トルヴィアとレフィーラの傍らに軽やかに着地した。
「どうだった?最新の社交ダンス。獣たちも、すっかり魅了されて消えちゃったみたいだけど」
からかうような笑みを浮かべながら、アドリアンはそう言った。
「すっごいかっこよかったぁー!」
レフィーラは純真な瞳を輝かせて即答したが、トルヴィアは不機嫌そうな表情で腕を組んだ。
「獣相手ならいいけど……もし私が相手だったら即座にハンマーで叩き潰してたわ。ステップが雑すぎるのよ」
そんな彼女の言葉を聞いたアドリアンは苦笑を漏らす。
彼女はこんな時でも、相変わらずだ。
「お姫様を抱いてそんな暴れた戦い方をするなんて、随分と粗野な騎士様ね。メーラ姫を安全な場所に運んでから戦っても良かったんじゃない?」
「あぁ、それはね」
アドリアンは優雅に肩をすくめる。
「公爵たちの領地でも、ずっとこうしてたんだ。まるでお姫様と社交ダンスを踊るみたいでかっこいいでしょ?」
「なによそれ……」
トルヴィアは呆れたように言ったが、その瞳には確かな興味の色が浮かんでいた。
領地巡りの間、アドリアンとメーラはいったい何を──。
そうして、アドリアンとトルヴィアは互いに現状を報告しあう。
四公爵の領地はシャドリオスを駆逐したが、まだ予断を許さない状況。
宮殿にはシャドリオスたちが執拗に突撃を繰り返してきており、ザラコスや森林国の助力もあり、なんとか持ちこたえているが……それも時間の問題だ。
「倒しても倒しても、逆に数が増えてるわ。どうして……」
トルヴィアの声には、明らかな焦りが滲んでいた。
彼女の赤いツインテールが、漆黒の靄の中で揺れている。
「そうだね。これは恐らく……『根源』を絶たないと、無限に湧いて出てくる術式だ」
アドリアンは意味ありげに目を細める。その瞳には、何かを見抜いたような鋭い光が宿っていた。
「え?根源って?」
レフィーラが首を傾げる。
この現象が自然発生したものだとは考えにくい。かといって魔法なのだろうか?いや、こんな規模の魔法など聞いたことがない。
加護の可能性も……しかし、このような禍々しい加護の存在など、誰も知らない。
「術式の根源……つまり、誰かが意図的にこの状況を作り出している。そして、その『誰か』はどこかに隠れているはずだ──」
アドリアンの表情から、いつもの軽薄さが完全に消え失せた。
そこにあるのは、英雄としての鋭い眼差しだけ。
「術者が隠れてる……?でも、それじゃあどうしようも……」
トルヴィアの声が震える。
この広大な地下帝都で術者を探し出すなど、砂漠で一滴の水を探すようなもの。それこそ不可能な──。
しかし、アドリアンは余裕の笑みを浮かべながら、メーラを優しく地上に降ろした。
そして、ゆっくりとトルヴィアたちに両手の掌を見せる。
「──!?」
トルヴィアたちは息を呑んだ。
アドリアンの掌には、漆黒の靄のような禍々しいものが渦巻いている。
「これは、公爵さま方にかかっていた呪いの残留物。呪いってのは可愛くてね、術者の元に還ろうとする性質があるんだ」
「の、呪い……?公爵たちに呪いが……?」
トルヴィアとレフィーラは呆然とする。あの公爵たちが、呪いに操られていたというのか。
しかし、アドリアンは優し気に微笑むと、静かに言った。
「そう。この呪いが術者の居場所を教えてくれる──」
アドリアンはゆっくりと、まるで蝶を追うかのように手を伸ばす。
その仕草には、優雅さの中に確かな殺意が潜んでいた。
「でも、これじゃ少し足りないね。最後の一片を、頂戴しちゃおうかな」
アドリアンの手が指し示す先──それは皇姫トルヴィアだった。
「え?」
抜けたような声が漏れた瞬間。
アドリアンの手が一閃し、トルヴィアの体から黒い靄がもぎり取られた。それは蛇が脱皮するように、彼女の体から剥がれ落ちていく。
「──!」
トルヴィアの体が大きく震え、膝から崩れ落ちそうになる。
レフィーラが慌てて彼女を支える中、アドリアンの掌には新たな漆黒の靄が集められていた。
「さぁ。キミにかけられていた呪いは、王子様……じゃなくて、英雄が取り払った。あとは──」
アドリアンの瞳に、冷たい光が宿る。
それは普段の皮肉めいた色とも、英雄の優雅さとも異なる──獲物を追い詰めた猟犬のような、鋭い輝き。
「黒幕を、倒すだけだ──」
アドリアンの掌に集められた禍々しい靄が、ある一点を指し示すように蠢いていた。