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第八十七話

地下帝国の各所ではシャドリオスたちの咆哮が帝都の至る所で響き渡り、帝都に悲鳴と破壊音が闇の底へと沈んでいく。


そんな中──。


一つの階層だけが、異様な静寂に包まれていた。

グロムガルド帝国地下18階層──『鋼の祭典』が執り行われた、巨大な円形闘技場。


「……くく」


かつての熱狂が渦巻いた円形闘技場に、フードを被った男の狂気めいた笑いが響き渡る。

男──ノーマは両腕を大きく広げ、歓喜に満ちた声を上げた。


「くっ……はは、ははは!」


帝都を覆い尽くす『無感の軍勢』──この漆黒の力の前では、どんな防衛も、どんな抵抗も無力に等しい。


「公爵たちを操り、内部から帝国を崩壊させようなどと……そんな回りくどいことは必要なかった。最初からこの力で──全てを呑み込めばよかったのだ」


かつてない規模の破壊と混沌。それは、彼が長年夢見た光景そのものだった。


「ふふ……なんと恐ろしい『加護』よ……これぞまさしく、反世界が齎した『加護』」


ノーマは陶酔したように呟く。

彼の体から立ち昇る漆黒の靄は、もはや霧とは呼べないほどの濃さと禍々しさを帯びていた。

だが、これは自分自身の力ではない。

『あの御方』から託された闇の力。一度発動すれば、帝国すら容易く滅ぼしかねない悪魔の加護なのだ。


「いくら倒しても無駄なこと。『無感の軍勢』は無限に湧き続ける。この世界の歪みのように……」


その言葉には、底知れぬ憎悪と共に、深い虚無が滲んでいた。

使用している当の本人さえ、この力の邪悪さに戦慄を覚えるほどの──真なる闇の加護である。


「さぁ、無様に踊れ。無念に散れ。地底の劣等種共──」


ノーマがそう呟いた、その時──


「踊りといえば、俺のパフォーマンスもなかなかのものだと思うんだけど。特別に、披露させてもらおうかな?」


意地の悪い笑みを帯びた声が、虚空に響く。


「!?」


ノーマが驚愕の表情で闘技場の席を見上げる。

そこにはアドリアンが立っていた。深紅の外套をはためかせ、その横には魔族の姫メーラが凛とした表情で佇んでいる。


「なっ……なに……!?き、貴様……なぜ、ここが……」

「あぁ、場所の見つけ方?そりゃ闘技場のど真ん中で高笑いしてる変な人がいたら目立つだろ……と言いたいところだけど──」


アドリアンは掌の中の漆黒の靄を、高価な宝石でも見せびらかすかのように掲げた。


「この可愛い子たちが、ご主人様の元へ帰りたがってたんだよ。公爵たちにかけた呪いの残滓が、ね」


アドリアンがそう呟いた瞬間であった。

闘技場の四方八方から、怒号と共に兵士たちが集結していく。

魔導機械兵の青い眼光が闇を切り裂き、帝国軍の怒りの声が響き渡った。


「テメェが黒幕か……!」

「絶対に許さん!帝国を破壊した罪、償ってもらおう!」


瞬く間にノーマは完全包囲の態勢に追い込まれていた。

その軍勢の中から、一人の姿が前へと進み出る。

赤いツインテールを戦場の風に靡かせるのは──皇姫トルヴィア。


「アンタが、この騒動の犯人ね──」


トルヴィアの声には、凍てつくような冷たさが滲んでいた。

ノーマはフードの陰から冷徹な視線を投げかけながら、ゆっくりと周囲を見渡す。

まるで──逆に獲物を品定めするかのように。


(この場にいるのは、人間の英雄と皇姫トルヴィア……そして、『紛い物の姫』だけか。なるほど……残りの連中は皇帝と民を守るために宮殿にいる訳か)


ノーマはその結論に至ると、フードの陰で満足げな笑みを浮かべた。


「ふふ……はは、ははは!!」


突如として響く狂気めいた笑い声に、兵士たちが戸惑いの色を見せる。

絶体絶命の状況で、なぜこれほどまでに高笑いができるのか。


「──愚かな。この私を倒したいのなら、公爵も、皇帝も、森林国のエルフたちも、全てを差し向けるべきだったな。まぁ、その程度の知恵もない者たちだったか」


彼はゆっくりと両手を広げ、漆黒の靄を渦巻かせながら続ける──。


「──では、お別れの言葉を聞かせてやろう」


ノーマがフードに手をかけ、ゆっくりとそれを取り去る。

闘技場に集まった全ての者が、その瞬間、息を呑んだ。


「──魔族……!?」


ノーマの額には、堂々としたツノが生えていた。

その存在は、彼が魔族であることの、紛れもない証だった。


「そう、私は魔族だ。そんなに驚くことか?」


ノーマは意地の悪い笑みを浮かべながら、冷たく言い放つ。


「貴様らが奴隷として虐げ、踏みつけにしてきた魔族の一人だ。どうだ、自分たちが散々支配してきた『家畜』に、帝都を玩ばれる気分は?」


その言葉には、長年に渡って積み重ねられた憎悪と、底なしの虚無が混ざり合っていた。


「──!」


メーラの瞳が、驚愕で見開かれる。

自分と同じ魔族──。それが、どうして帝国を襲うようなことを。

彼女の小さな体が、震えるように揺れ始めた。

だが、その肩を優しく包む温もりがあった。アドリアンの手が、そっと彼女を抱き寄せる。


「ア、アド……」

「大丈夫だ、メーラ」


その声には、確かな強さが宿っていた。

同じ魔族による破壊の事実に戸惑う心を、アドリアンの存在が静かに支えていく。


「テメェが何だろうが関係ねぇが、非力な魔族になにができる!」

「一斉に攻撃開始!だが生かして捕らえろ!徹底的に吐かせてやる!」


兵士たちは我に返ると、一斉に武器を構えた。

その瞬間、ノーマの全身から禍々しい気配が立ち昇る。

それは単なる魔法などではない。より根源的な、邪悪な『加護』の力だった。


「『無感の軍勢』よ。主より賜りし闇の力よ。この世界に、我が憎悪を刻むがいい!」


その声に呼応するように、闘技場の至る所から黒い影が這い出してくる。

地面から、壁から、天井から闇の軍勢が湧き出し、獣の咆哮と異形の兵士たちの呻き声が、空間を満たしていく。


「た、大量のシャドリオスが……!?」


突如、最外周の兵士たちから悲鳴が上がった。

シャドリオスの群れが四方八方から襲いかかる。漆黒の体躯を持つ獣たちは、闇そのものが実体化したかのように蠢きながら、兵士たちを飲み込んでいく。


「っ!」


アドリアンは瞬時に対応する。彼の手から青白い光弾が幾筋もの軌跡を描いて放たれた。

光の矢は獣たちの体を貫き、シャドリオスの顎から兵士たちを解放していく。


──だが、その一瞬。アドリアンの注意が逸れた、一瞬。


「この機を逃すな!奴さえ倒せばすべてが終わる!」


内側の兵士たちが、勝機を見出したように叫び声を上げる。

彼らは一斉にノーマへと突進を開始した。剣を振り上げ、槍を構え、魔導機械兵のマズルを向ける。

勝利を確信させるような、絶好の包囲網。

だがノーマは、愚かな獲物を見るような冷徹な微笑を浮かべた。


「っ!?みんな、待つんだ──!」


アドリアンの必死の声が響いた瞬間、突撃するドワーフたちの動きが一瞬止まるが──既に遅かった。


「──切り裂け『エアリアル・ブレイド』!」


その言葉が虚空に響いた瞬間、ノーマの全身から凄まじい暴風が解き放たれる。

それは通常の風の魔法とは異質な、漆黒の魔力を帯びた業風だった。

轟音と共に、見えない刃が闘技場を切り裂いていく。


「うがっ!!」

「こ、この魔法は……!?」


漆黒の風の刃は、ドワーフたちの鋼の鎧を紙のように引き裂いていく。シャヘライトで強化された盾も、特殊合金の装甲も、まるで意味を持たなかった。

血飛沫が宙を舞い、兵士たちが次々と倒れていく。


ノーマの額に生えた紅く輝くそのツノ……あの状態の魔族は──膨大な魔力を体内に蓄えている。


それは、つまり……。


他種族を遥かに凌駕する存在なのだ──。


「(ちっ……直前で止まったからか、誰も死ななかったか。それに……)」


ノーマは舌打ちをする。

アドリアンの警告は間に合わなかったとはいえ、それさえなければ殲滅できたものを。

しかし、問題はそこではない。ノーマの瞳には、倒れた戦士たちを守るようにして立ちはだかる皇姫トルヴィアの姿が映っていた。


「よくも、我が戦士たちを……!」


トルヴィアは燃え盛るような怒りの炎を滾らせて、ノーマを睨んでいた。

周囲の空気が歪むほどの激しい魔力が、彼女の全身から立ち昇っている。


──『炎の戦乙女』。


その加護は単なる炎の力ではない。

彼女の身体に宿る炎は周囲の味方を活気付け、さらなる力を引き出す。それは戦場に舞い降りた女神の如き加護。

その効果で戦士たちは命を繋ぎ留めたのだ。


だが、それでも。

たかが魔族、と侮っていた戦士たちは動揺し、ノーマの高笑いが響く。


「厄介な加護だ……。しかし、さっきまでの威勢はどうした?『非力な魔族』相手に、随分と手こずっているようだが?」


その皮肉めいた声には、底知れぬ憎悪が滲んでいた。


「一つ、教えてやろう。我々魔族はな──こうしてツノに魔力を溜めている状態ならば、貴様ら劣等種など足元にも及ばない力を発揮できるのだよ」


ノーマの言葉に込められた軽蔑と共に、紅く輝くツノがより禍々しい輝きを放っていく。


「シャヘライトによる、魔力の安定供給さえ出来れば……」


ノーマは遠くにいるメーラを指差した。

肩を震わせながら、この光景を呆然と見つめる少女を。


「『偽りの姫』よ。お前のような華奢な魔族でさえ、こんな虫けらどもを踏み潰すことができる。それが真の魔族の力だ。そして、お前にもそのツノがある」

「──え?」


メーラの瞳が驚愕で見開かれる。

彼女の脳裏には、自分の額に生えたツノの感触が、これまでにない重みを持って蘇っていた。

魔族として生まれた自分にも、あのような力が──その考えが、彼女の心を混濁させていく。


「さぁ、魔族の少女よ。我が同胞よ。俺の元にくれば、貴様に力をくれてやる。シャヘライトさえあれば……そんな奴らの言いなりになる必要はないのだ」


ノーマが光輝く鉱石……シャヘライトを掲げた。メーラは吸い込まれるように、シャヘライトを見つめる。

だが、そんな彼女に聞かせるようにアドリアンは堂々と言った。


「確かに、魔族は非力な種族じゃない。それは、俺がよく知っている」

「ほぅ?英雄様も魔族の真の力をご存知だったとは。ならば、その少女の力を解放するのが怖かろう?力が宿った瞬間、怨嗟を込めた魔力で八つ裂きにされるだろうからな」

「──そうだね。じゃあ、試してみようか?あぁ、シャヘライトなんて必要ないよ。ほら──」


アドリアンはそう言うと、ゆっくりとメーラの方へと向き直った。

そして、不意に──アドリアンの手が、そっと彼女の額のツノに触れた。


「──えっ?」


次の瞬間、メーラの全身を駆け抜けるような感覚が走る。

その力は彼女の体の隅々にまで染み渡り、ツノが淡く輝き始め、魔族としての力が目覚めていくのを感じていた。


「アド……?」


戸惑いながらも、メーラはアドリアンを見上げた。

だが彼は何も言わない。

ただ、昔から変わらない優しい瞳で、メーラを見つめているだけだった。

そして、アドリアンはメーラに優しく告げる。


「さぁメーラ。君は今、膨大な力を身に宿しているよ。どうだい?これが魔族本来の姿、ツノに宿る力だよ」


世界が、輝いていた。

魔力の流れも、戦場を彩るシャドリオスたちの殺気も、全てを把握できる──。


これが、強者たちの見ていた世界。


今までは見えなかったものが見え、感じられなかったものが感じられる。自分の中に渦巻くこの力は、世界そのものを作り変えることができるのではないかとさえ思える。


その時、アドリアンが静かに、しかし確かな声で言った。


「さぁ、その力は既に君のものだ。それをどう使うかは、自分が決めることができる」


この力は自分のもの──?

この力を使えば、戦うことが出来る。すべてを、破壊することも出来る。

今まで、虐げていたどんな存在にも勝てる──


「っ!」


メーラの脳裏に、今まで虐げられてきた記憶がよみがえる。

このツノのせいで。魔族だからという理由だけで。

蔑まれ、傷つけられ、存在そのものを否定されて──


「は……はは!愚かな!わざわざ我ら魔族に力を分け与えるとは!」


その時、ノーマの声が響く。


「魔族ならばわかるはずだ!この身に刻まれた憎しみを!奴隷として生きる屈辱、踏みにじられた誇り──今こそ、その全てを清算する時!我らに力が巡ったということは、世界への裁きが下される時が来たということだ!」

「……」


ノーマの言葉が虚空に響く中、メーラは静かに歩き始める。


「な、なんて魔力だ……」

「あれが、魔族の姫の力……!?」


その圧倒的な存在感に、トルヴィアも、ドワーフの戦士たちも凍りついたように動けなくなった。

彼女の全身からは凄まじい魔力が立ち昇り、一歩歩くごとに魔力の奔流が吹き荒れる。

深淵から這い上がってきた魔神の如き威圧感が、戦場を支配していく。


「さぁ!その倒れている哀れなモグラたちに引導を渡してやるがいい!!その後に、英雄を八つ裂きに……」


メーラは先ほどノーマの魔法に引き裂かれた兵士たちの前で立ち止まった。


そして、手を翳し──




「──え?」




──それは、誰の呟きだっただろうか。

メーラの指先から、そして全身から、淡い翡翠色の光が溢れ出す。

その光は春の陽だまりのように柔らかく、倒れた兵士たちへと降り注いでいく。

それは紛れもない癒しの魔法だった。

かつてアドリアンが奴隷市場で目にした光景──闇に染まった哀れなキツネを救った、あの温かな光と同じものが、今、戦場に満ちていく。


「な……に……?」


ノーマの声が震える。

何故だ。何故あの娘は、ドワーフたちを癒しているのだ──?

憎しみに満ちた魔族の恨みを、どうして癒しの光に変えられる?

光に包まれた兵士たちの傷が、見る見るうちに癒えていく。裂かれた肉が繋がり、砕かれた骨が修復され、失われた血肉が蘇っていく。


「傷が……治って……!?」

「あぁ、あたたかい……」


──それだけではない。

その光は戦場を蠢かせていたシャドリオスたちにも及んでいった。光に触れた漆黒の獣たちは、まるで闇が朝日に溶けるように、静かに消えていく。

憎悪と怨念から生まれた存在が、温かな光の前で粉々に砕け散っていった。


「シャドリオスが、消えた?」


戦場は水を打ったように静まり返る。

兵士たちも、トルヴィアも、そしてノーマも──ただ呆然とメーラを見つめるばかり。

そんな中、アドリアンだけが最初から分かっていたかのように、静かな笑みを浮かべていた。


「せ、聖女だ……」


兵士の一人が、ポツリと言った。

その言葉を合図にするかのように、歓声が沸き起こる。兵士たちは歓声を上げ、癒された者たちは涙を流しながらメーラに感謝の言葉を捧げる。

トルヴィアもまた、誇らしげな瞳でメーラを見つめていた。その眼差しには、もはや魔族への偏見など微塵も感じられない。


「……『魔族の姫』、ね。私なんかよりも、よっぽどお姫様らしいわ──」


そんな中、メーラはゆっくりとノーマへと向き直る。その瞳には、もはや臆する影も揺らぐ迷いもない。


「私はずっと、アドリアンの姿を見てきました。彼は誰かを傷つけるのではなく、みんなを守ることを選んだ。そして、その優しさに私も救われてきた」


メーラの声は静かでありながら、戦場全体に響き渡る。


「だから今度は私が──誰かを救う番なんです。この力で、アドリアンのように!」


メーラの全身から放たれる光は、もはや魔力などという次元を超えていた。

それは魂そのものの輝き。憎しみを超え、執着を超えた、慈愛に満ちた魂の光。


「──それが、メーラの答えなんだね」


アドリアンはメーラの横に並び立ち、その輝きを慈しむように見つめながら、静かに微笑んだ。


「力を誰かを傷つけるためではなく、救うために使うと。魔族として生まれたことを、憎しみの源ではなく、誰かを助けるための糧にすると」


そして、ノーマを見据えて言った。


「彼女は自らこの結末を選んだ。残念だけど、君のように歪んだりしない。彼女は……誰よりも、『強い』から」

「……」


ノーマの表情が、一瞬にして氷のように冷たく変わる。

彼は曲刀を構え直すと、気怠そうに呟いた。


「──くだらん。くだらん茶番だ」


ノーマの全身から漆黒の靄が立ち昇る。

その闇は空間そのものを歪ませ、戦場に満ちていた翡翠色の光を貪り食うように広がった。


「魔族の姫が聖女に、奴隷が救世主に──まさに、おとぎ話のような戯言。いいだろう、その幻想を打ち砕いてやる」


ノーマとアドリアンの視線が交差する。

その瞬間、戦場に漆黒の闇が満ちていった。


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