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第八十八話

漆黒の靄を纏ったノーマとアドリアン、そしてメーラが対峙する。

その瞬間、戦場の空気が凍りついたかのように静まり返った。

だが、その静寂は長くは続かない。

地面の亀裂から、壁の隙間から、天井の影から──再び漆黒の獣たちが這い出してくる。

シャドリオスの群れが、先ほどの光で消え去った数を埋めるかのように、次々と湧き上がってきたのだ。


「くっ……やはり、あの男を倒さないと無尽蔵に湧き出てくるか……!戦士たちよ!あの男は英雄に任せ、シャドリオスを倒すのだ!」


トルヴィアの凛とした号令が響き渡る。

メーラの癒しの光で蘇った戦士たちは、その命に応えるように立ち上がる。彼らの瞳には、以前の恐怖の色はない。


「援護に徹しろ!なんとしてでも、食い止めるんだ!」

「魔族の姫に恩義を返せ!」


魔導機械兵の青い閃光が閃き、ドワーフの戦士たちの大槌が唸りを上げる。シャドリオスの群れは次々と薙ぎ払われていく。

戦士たちは互いの背中を守り合いながら、アドリアンとノーマの決戦の場を、漆黒の存在から死守していった。

そんな中、ノーマが不敵に笑った。


「英雄よ。貴様の戦いはずっと見ていたよ。随分と魔法が得意なようだな」

「あぁ、纏わりつくような視線は君のものだったのか。そんなに俺に夢中なら、もっと早く挨拶に来てくれれば良かったのに。サインでもあげたのに」


その言葉に、ノーマは歯ぎしりをする。

どこまで人を愚弄すれば気が済むのだ、この男は──


「その余裕、いつまで保つことができるかな。身体強化に速度強化、そんな安っぽい魔法で自分を取り繕って、まるで本物の戦士のように振る舞っているようだが……」


ノーマが懐から取り出したのは、一つの水晶球。


「これは魔法不可の結界を封じ込めた、水晶だ。これを、こうすれば……」


ノーマは不敵な笑みを浮かべ、水晶玉を握りしめ──粉々に砕き潰した。

砕けた水晶の破片が宙に舞い、それぞれが青白い光を放ちながら闘技場の空間を覆っていく。

巨大な蜘蛛の巣のように、無数の光線が絡み合いながら、結界の網が戦場全体を包み込んでいった。


「魔法使いというのは哀れだな。こうして、魔法が使えない状況になると、途端に脆くなる……」


ノーマは懐から一振りの曲刀を取り出した。

その刀身からは禍々しい魔力が立ち昇り、まるで生き物のように蠢いている。


「このように、なぁ!!」


次の瞬間。

アドリアンに曲刀が迫っていた。悍ましい気を纏って風を切り裂いていく。その一撃は常人であれば視認すら不可能な速度。


だが──。


「!?」


アドリアンは最小限の動きで、しかし優雅にその攻撃をかわした。

ワルツを踊るかのような所作で身を翻し、更には曲刀の刃を指先でなぞっていく。彼は指に付着した邪悪な魔力を見つめ、軽く眉を顰めた。


「これは……随分と邪悪な刀だなぁ。そんな代物、どこの闇市で手に入れたの?もしかして、セール品?」


からかうような声音に、ノーマの瞳が鋭く光る。

彼は再び姿を消し、今度は幾重もの残像を残しながらアドリアンへと襲いかかった。漆黒の刃が、様々な角度からアドリアンを引き裂こうとする。


「おのれ!劣等種如きが私を侮辱するか──!」


漆黒の刃が幾重にも閃く。

しかし、アドリアンはまるでそれを予測していたかのように、軽やかに身を躱していく。時には髪の毛一本分のずれで避け、時には優雅なステップで身を翻す。

そして最後の一撃の際、アドリアンは意地悪な笑みを浮かべながら、さりげなく足を伸ばした。


「なっ……なに……!?」


ノーマは自分の足が絡まったことにも気付かぬまま、派手に転倒する。

見下ろすアドリアンは、わざとらしく大きな欠伸をしながら言った。


「やれやれ、剣さばきが随分と素直すぎるね。もう少し曲線を意識したら?ほら、こう──」


アドリアンは指で空中に優雅な弧を描く。


「剣筋は直線よりも、こう、優美な曲線を描くと良いんだよ」


その余裕げな仕草と皮肉めいた言葉に、地面に倒れたノーマの体が怒りで震えていく。


(何故だ。どうして攻撃が当たらない!?)


ノーマの脳裏には混乱が渦巻いていた。

魔法使いなど、一撃のもとに斬り伏せられるはず。今までそうやって、多くの魔法使いたちを葬ってきた。

なのに──。

ノーマの困惑が広がる中、アドリアンはクスリと笑って言い放つ。


「申し訳ないんだけど……実は強化魔法なんて使ってなかったりするんだ。そんなもの使っちゃったら、強くなりすぎて帝都が吹き飛んじゃうからさ」


ギリギリと、ノーマの拳が怒りで握られた。


「──おのれ、戯言を!!『無感の軍勢』よ!この英雄を八つ裂きにしろ!避ける隙さえ残すな!」


ノーマの叫び声が轟く。

その瞬間、無数の漆黒の影がアドリアンへと襲い掛かる。虚空から出現したシャドリオスの群れが、闇の津波のように四方八方から押し寄せてきた。


だが──。


「!?」


ノーマの瞳が驚愕で見開かれた。

アドリアンは避けなかった──否、避ける必要などなかった。


「随分と力技に頼るね。じゃあ俺も、『力』に頼っちゃおうかな」


彼の体が光の残像を描くように回転し、その一撃一撃が閃光となって漆黒の獣たちを貫いていく。

蹴りが繰り出される度に複数のシャドリオスが砕け散り、拳が放たれる度に闇の獣たちが消滅していく。その動きは戦いというより芸術に近く、ノーマですら目を奪われていた。


「な……なんだ……その力は……?」


ノーマの声が震える中、アドリアンの周りには既に一頭のシャドリオスも残っていなかった。


「ごめんね、君の可愛い子たちを片付けちゃって。でも、もう少し愛想の良い子を連れてこない?この子たち、笑顔が足りないと思うんだ」


アドリアンの足元で漆黒の残骸が風のように消えていく。

同時に、彼は悠然と頭を上げ、闘技場を覆う青白い結界の網を見上げた。


「片付け忘れが一つあったみたいだ。ちょっと掃除させてもらおうか」


アドリアンは舞うように身を翻す。

深紅の外套が弧を描き、彼の姿は一瞬にして浮遊する結界の核へと移動していた。そして、右拳を天へと突き上げ──


「!?」


蒼白い光の網が、その一撃の下で轟音を立てて砕け散った。

粉々になった結界は、無数の光の粒となって闘技場を包み込んでいく。破壊された結界の欠片たちは、儚げに光を放ちながら、ゆっくりと消えていった。


「メーラ!」

「うん!」


そして、アドリアンはメーラに向かって叫ぶ。メーラは、アドリアンの意図を、瞬時に理解し、ツノから魔力を沸き立たせ──。

メーラのツノから放たれた翡翠色の光が、静かな波のように戦場を包み込んでいく。

その光に触れたシャドリオスたちは、朝日に溶けるように、再び次々と消えていった。


「──」


その様子を呆然とノーマは見ていた。

魔法無効の結界が破られた今、シャドリオスを出そうとも『魔族の姫』の魔法で、一瞬で無効化されてしまう……。


「ば、馬鹿な──き、貴様らは一体──」


その言葉に、優雅に着地したアドリアンが言った。


「言ったろ?『英雄』と、『魔族の姫』だって」


その瞬間、ノーマは全身を貫くような威圧感に打ちのめされる。アドリアンから放たれる英雄の覇気と、メーラの清らかな気迫。

それは、もはや次元の違う存在の前に立たされているような感覚だった。額に生えたツノが震え、魂そのものが戦慄を覚えていく。


「──そろそろ幕引きの時間かしら」


見ると、トルヴィアと帝国兵たちがノーマを完全に包囲していた。

前方にはアドリアンとメーラ、後方には魔導機械兵の青い眼光。上空には結界も失われ、四方八方から剣と槍が向けられている。逃げ場など、もはやどこにもない。


「おや、何だか随分と静かになっちゃったね。さっきまでの高笑いは、どこかに置き忘れてきたのかな?」

「……」


アドリアンの皮肉に、ノーマは黙ってうなずくばかり。

どうやら、本当に万策尽きたようで──


と思った、その時だった。


「くく……くくく……」


ノーマの笑いが漏れる。

それを聞いたアドリアンは、僅かに警戒しながらも、肩を竦めて言った。


「はいはい、その如何にも悪役って感じの笑いはもう十分堪能したよ。まだ何か芸が残ってるなら、さっさと披露して……」


アドリアンが軽やかに言った、その瞬間──


「!?」


突如、轟音と共にノーマの身体から黒い靄が噴き出した。

それはシャドリオスと同質の、深淵から湧き上がるような禍々しい闇の気配。その漆黒の波動は、まるで空間そのものを侵食していくかのように広がっていく。


「な、なんという魔力……!?」

「こんな力を、どこに隠していたというのだ……」


戦士たちが思わず後ずさり、トルヴィアさえも顔をしかめる。メーラの放つ翡翠色の光が、その闇の前で押し返されていく。


「愚か者どもよ。『あの御方』の加護を宿した私が、こんな茶番劇で幕を閉じると思ったか?このような時のために、私は特別な『加護』を授かっているのだ。『世界を繋げる』加護をな──」


あの御方。特別な加護。その言葉を聞いた瞬間、アドリアンの瞳が鋭く光る。

そうしてノーマの全身が、闇に覆われていく。

アドリアンは目を見開いた。その姿は、以前目にしたことがあるからだ。


(これは……カイが使っていた、あの力……!?)


奴隷市場で闇に落ちたキツネの獣人、カイ。あの時と同じ力の奔流を、アドリアンは目の前の男から感じ取っていた。

漆黒の靄は次第に実体化し、ノーマの姿を一変させていく。

全身を覆う禍々しい装甲のような闇。額のツノは以前の倍以上に伸び、紅く輝きながら空間を歪ませていた。


「感じる……世界の深淵が、私の中に流れ込んでくる……!ああ、これが『あの御方』の眼差し、全ての真実が頭に入ってくる!」


闇に飲まれたノーマの瞳は狂気に染まり、理解不能な言葉を吐き続ける。

──闇に、飲まれている……!?──これが、加護の力なのか……!?

その異様な様子に、周囲の兵士たちが思わず後退りする。


だが突如として、その狂気は凍りつくような冷徹さへと変わった。


「──全てが繋がった。そうか、そうだった!英雄アドリアンよ!『この世界』でもまた、我ら魔族の覇道を阻もうというのか。『前の世界』での因縁を引き継ぐかのように……!」

「──なに?」


アドリアンの表情から笑みが消え、鋭い眼差しに変わる。

前の、世界?何故、こいつがそのことを──。

だが、アドリアンが口を開く前に、ノーマが激しい怒りに震えながら叫んだ。


「この力は確かに凄まじい……!だが、それでもお前には敵わない!世界の理から外れた存在、大公様も魔王様ですら屠り去った『理外の英雄』には……!」


その瞬間、ノーマの体から制御を失った魔力が迸る。漆黒の魔力は轟音と共に暴風となり、闘技場を激しく揺るがしていく。

壁が軋み、床が砕け、その狂瀾は全てを飲み込もうとしていた。


「ぐっ……ち、近づけん……!」

「気を付けろ、魔法を発動するつもりだ……!」


戦士たちが悍ましい魔力に身を低くし、トルヴィアが剣を構える中。

アドリアンだけは真剣な眼差しで、ノーマを見据えていた。

間違いない、この男は前の世界──『セフィリス』のことを、知っている。


「……」


アドリアンしか知らぬであろう、二つの世界を、何故この男が知っているのか──

ノーマを殺すのは容易い。だが、前の世界の情報を持つ存在を見つけた今、なんとしてでもこの男から話を聞き出さねばならない。それがアドリアンの動きを鈍らせる唯一の理由だった。

しかし、その一瞬の躊躇が、ノーマに魔法発動の機会を与えてしまう。


「故に……全てを消し去ってくれる!!」


ノーマが両手を天へと掲げる。一瞬にして周囲の魔力が渦を巻き、その掌から禍々しい光球が生まれ出る。

刻一刻と膨れ上がっていくそれは、やがて闘技場の巨大な空間を呑み込まんばかりの大きさにまで成長していた。


「見よ……!大公様の広域殲滅魔法『煉獄天焼』を!『あの時』の貴様ですら、迎撃を諦めざるを得なかった魔族の奥義を……!」


あまりの魔力の奔流に、トルヴィアさえも息を呑む。戦士たちは膝を震わせ、メーラは恐怖に凍りついたように立ち尽くしていた。

禍々しい光球は、太陽が地上に落ちてきたかのような威圧感を放っている。


「……」


だが。アドリアンは、ゆっくりと歩を進めていた。その瞳には、絶望など微塵も存在していない。

『かつて』、仲間たちの命を奪ったあの光を見て……アドリアンの手に、淡い……星が煌めくような光が、灯る──。


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