フェルシル大草原には多種多様な部族が存在する。
月光の下で影のように駆ける、狼の獣人ヴォルガルド。
大地を踏みしめる足音を雷鳴のように響かせる、牛の獣人タウロス。
強靭な肉体の熊の獣人、ウルグリッド。
誇り高き鷲の獣人、アクィラント。
優雅に舞う狐の獣人、フォクシアラ。
狡猾な蛇の獣人、セルペントス。
そして、大部族を束ねる存在こそが獅子の獣人、リガルオン。
獅子の獣人であるその一族は、最強の名を欲しいままにする、古からの支配者であった。
しかし、リガルオンの真の強さは、その圧倒的な力を振るうことではない。
彼らは力で抑圧することは絶対にせず、会話による相互理解によって、草原の秩序を保ってきた存在だ。彼らの下では、どの部族も平等に扱われ、秩序という名の平和が草原を包んでいた。
そして、リガルオンの名は、勇気と誇りと慈悲の象徴として、長く伝えられていた。
──だが、今やその威光は落ち、大草原は秩序なき戦場へとその姿を変えている。
かつての同胞たちは互いに牙を向け、血で血を洗う争いが絶えない。
平和の砦は崩れ、混沌の波が大草原を飲み込みつつあった。
「……」
黄金色の夕日が大草原を包み込んでいた。地平線まで続く緑の海は夕焼けに染まり、風に揺れる草が波となって広がっている。
その大草原の一画……小高い丘の上に一人の獣人が佇んでいた。
獅子のタテガミを思わせる豊かな金色の髪を風に靡かせる男。瞳には、深い憂いが宿っていた。
「草原には争いの炎が燃え広がり、部族の血が大地を濡らしているというのに」
男がぽつりと呟いた。
夕焼け空の下に広がる大草原の景色が映り込む。炎に包まれた集落も、戦いの痕跡も、この丘からは見えず、ただ草原の雄大な美しさだけが広がっていた。
「この風景だけは何も変わらない。俺が愛してやまない大草原は、いつもこうして、美しさを保ち続けている」
穏やかな風が流れ、男の金色の髪を優しく撫でていく。彼は静かに目を閉じ、草原の匂いと風の音を感じていた。
しかし、不意に背後から声がかかった。
「レオニス様!」
声をかけてきたのは、部族の若い戦士であった。
若者は、レオニスに畏敬の念を示すように膝をつき、急ぎ足で言葉を紡いだ。
「東の領域が最早手に負えぬ事態となっております!セルペントスが領地を拡大し、それに対抗するかのように北からはヴォルガルドが軍勢を率い、南からはアクィラントが翼を広げて侵攻!三つの大部族がぶつかり合う場所は、もはや混沌そのもの!」
その報告に、レオニスは身体をピクリと動かした。
夕陽に照らされた彼の横顔に、一瞬だけ苦悩の色が浮かぶ。──だが、それだけだった。
「そうか」
短い言葉だけが風に乗って、草原を渡っていく。
凄惨な報告に、「そうか」の一言で済ませるレオニスに、若い戦士は思わず詰め寄った。彼の顔には焦りと共に、切実な懇願の色が浮かんでいる。
「……レオニス様!我らリガルオンが動かねば、大草原は血の池と化してしまう!獣人同士の殺し合いで多くの勇敢な戦士が命を落とし、その戦火は弱きものたちにも及んでいる!女子供の嘆きの声が草原に満ちている!!どうか、『鎮圧せよ』と、命じてください!」
その言葉にレオニスは背を向け、地平線の彼方に沈みゆく夕日を見つめた。夕陽に染まる彼の姿は、どこか孤独にも見えた。
「我らは動かぬ。これは、決定事項だ」
レオニスの言葉は重く響いた。
それを聞いた若い戦士の体が、怒りと絶望に震え始める。彼の目は次第に赤く染まり、呼吸が荒くなっていく。
「がぁぁぁーーーっ!!」
若い戦士の口から、獅子の咆哮が轟然と響き渡った。その声は草原全体を震わせ、鳥たちが驚いて空へと飛び立つ。
「なぜ、見て見ぬふりをする!?大草原は獣人たちの血で染まり、日に日に死者が増えていくというのに!リガルオンの責務は草原の秩序を守ることではなかったのか!?」
若い戦士がレオニスに詰め寄った。その眼差しには怒りだけでなく、深い悲しみと失望が混じっている。
「フォクシアラはルミナヴァレンと血で血を洗う争いを続け、あの温厚と知られるウルグリットでさえも武器を手に勢力を広げている!レオニス様、何が起きているというのだ!私たちが黙って見ているだけでいいのか!何故、我らは動かないのか!どうか、その理由だけでも教えてくれ!」
その慟哭のような問いかけに、レオニスは目を伏せた。夕陽の最後の光が彼の姿を赤く染め、長い影を丘の向こうまで伸ばしている。
「すまぬ……」
その一言だけを残し、レオニスは風のように静かに立ち尽くした。
夕日は大草原の地平線に完全に隠れ、辺りが闇に包まれ始めた。草原に長い影が伸び、獣人たちの姿を飲み込んでいく。
やがて、丘の上に立つ二人の獅子の獣人の姿も、夜の中に溶け込んでいった。
♢ ♢ ♢
「おーい!ここに住居を立てていいかー!」
リマ湖の周囲は、わずか数日前とは思えないほどの活気に満ちていた。
湖の碧い水面を囲むように、様々な形の住居が広がり始めている。
パンテラ部族の黒い皮で作られた洗練されたテント、リノケロス部族の頑丈な木と革で組まれた頑強な造り、廃棄集落から集まった獣人たちの質素だが温かみのある仮住まい——
「ここなら、太陽がよく当たるし、湖の水も取りやすいだろ」
「かたじけない……タカどの」
タカの獣人が、シカの老人の荷物を運ぶ手伝いをしている。かつては敵対していた者たちが、今は互いに助け合っている光景が、至る所で見られた。
子供たちは種族の区別なく走り回り、時には角や翼や尻尾の違いに驚きながらも、すぐに打ち解けて一緒に遊んでいる。
モル少年の長い耳を引っ張るリノケロスの子供、リスの特徴を持つ少女ペララの軽やかな木登りを真似しようとするパンテラの子供たち——。
それぞれの部族が独自の領域を持ちながらも、境界線はあいまいで、獣人たちは自由に行き来している。
「うーん、なんて素晴らしい景色だろう。これこそが理想郷というやつかな?『種族のるつぼ、リマ湖。あなたも今すぐ移住しませんか?』なんてキャッチフレーズも付けられそうだね。メーラはどう思う?このカオスな混ざり具合について」
アドリアンは丘の上から集落の様子を眺め、皮肉めいた調子ながらも、心からの満足感を滲ませながら言った。
メーラはアドリアンの言葉に、静かに頷いて答えた。
「うん、素敵だね。色々な獣人さんたちが、こうして一緒に暮らしているのを見ると……私自身も、この世界に希望が持てる気がするの」
彼女の瞳には純粋な感動の色が浮かんでいたが、次の瞬間、その表情が一変した。
眉を寄せ、頬を膨らませ、明らかに不機嫌そうな顔つきになる。
「アドリアンも、色々な獣人の女の人と仲良くできて楽しそうだしねぇ」
メーラの鋭い皮肉に、アドリアンは笑顔のまま固まった。
彼の表情が凍りつき、額から冷や汗が一筋流れ落ちる。
「メーラ、いや、メーラ姫?もしかして少々ご立腹かな?これはね、平和外交の一環なんだよ。獣人さんたちの心を開かせるには、お互いに心を開く必要があるからさ。特にイルデラ族長は強面だから、特別な『外交手腕』が必要なわけで」
「そうだね。『ツガイ』とか『婿』とか、そういう『特別な外交』が必要なんだよね。次はどの部族と『外交』するつもり?虎のお姉さん?それともキツネのお姉さん?」
──やれやれ、お姫様はご立腹だ。
更には、いつの間にか皮肉っぽさまで身に着けてしまった。
一体誰の影響だろうか……と思ったところで、それは紛れもなく自分自身の影響だと気付いたアドリアンは、肩をすくめるしかなかった。
そうして、アドリアンは眼下に広がる新たな集落を見つめた。彼の瞳には、何かを見極めようとする色が宿っている。
「……」
とても微笑ましい光景だ。
集落を焼かれたパンテラと、攻めたリノケロスの溝は簡単には埋まらないだろうが……それでも、これは着実な一歩だった。
獣人たちが協力して仮住まいを作り、子供たちが種族の垣根を超えて戯れる姿は、かつての大草原の平和な日々を思い起こさせる。
しかし──
(一体、誰が集落に火を放ったんだ?)
アドリアンの胸中に、一抹の疑問が浮かんだ。彼の表情が真剣さを帯び、風に吹かれる髪が目元を覆う。
つい先ほど行われて、互いの族長、そして大戦士を交えた会議で、イルデラとゼゼアラが言ったのだ。
『集落に火を放ったのはリノケロスの仕業じゃねぇ。草原の大地に賭けて誓う。わざわざ陣取りに来た集落を、誰が燃やすかってんだ』
『……我らパンテラもまた、自らの住処に火を放つなどと言う愚行はしていない。それは草原の風に誓って断言できる。争いの中にあってもなお、我らには戦士としての誇りがある』
パンテラも、リノケロスも、誰もが火を放っていないという。アドリアンも、彼らの言葉をすぐに信じた。
なぜなら、『前の世界』を知るアドリアンは、誇り高きパンテラやリノケロスがそんなことをするとは思っていなかったからだ。
(なら、一体だれが……)
アドリアンの瞳に疑念の色が浮かぶ。自分が知る大草原とは異なる何かが、この世界には潜んでいるのかもしれない。
そうして、アドリアンが逡巡していると、前方から三人の獣人と、一人のエルフが駆け寄ってくる姿が見えた。
「アド、みんな来たみたいだよ!」
彼らは、丘を登りアドリアンの元へとやってくる。
黒い尻尾を持つパンテラの青年、角を持つリノケロスの女性、そして長い耳を持つウサギの少年。……それと、金色のポニーテールを揺らすエルフ、レフィーラ。
その中の一人、ゼゼアラが何かを諦めた様子で言った。
「会議での決定通り、我が部族の戦士たちには既に遠征の準備を命じてある。選りすぐりの戦士、五十名が朝には出立できるだろう」
彼の金色の瞳は冷静さを保っていたが、その奥には微かな不安の色が浮かんでいた。
「アタイのところの若い衆も全員準備万端さ!元気いっぱいで張り切ってるぜ!……でも、いいのかい?少数の戦士を残しているとはいえ……大戦士を少しくらいここに残しておいた方がいいんじゃないか?万が一、何かあったときのために」
イルデラがそう問うと、意外にもモルが落ち着いた口調で言った。
「いえ、イルデラ様。現状の立地と周辺部族の動向を考慮すれば、この集落が攻撃される確率は極めて低いです」
「そうそう、それにケルナに敵う奴なんて、この周辺にいないんでしょ?なら、安心よ!」
モルの言葉に、レフィーラが同調する。
アドリアンは満足気に頷いた。彼の顔に浮かぶ笑みには、何かを計画通りに進めている者の余裕が感じられた。
「よろしい──では、モル族長。同盟を結んだ大部族の長たちに、出陣前の言葉をかけてはどうでしょう?」
アドリアンの声は穏やかでありながらも、どこか格式高い響きを持っていた。彼の瞳はモル少年を励ますように優しく見つめている。
モル少年はハッと何かに気付いたように背筋を伸ばし、コホンと小さく咳払いをした。
「えっと……ゼゼアラ様、イルデラ様。此度は我々の提案を受け入れていただき、ありがとうございます」
モルは二人の族長に気圧されながらも、視線を外すことなく続ける。
混乱する大草原。そこに新たな秩序を取り戻そうとする、小さな獣人の大きな夢がその言葉に込められていた。
モルはゆっくりと息を吸い込み、声に力を込めた。
「これから我々は、大草原の平和を乱している部族たちのもとへ向かいます。彼らを説得し、時には力でねじ伏せてでも、かつての秩序ある大草原を取り戻したいんです!どうか、皆さまの勇猛と知恵を、この大義のためにお貸しください!」
──パンテラ、リノケロスの混成軍。そして、廃棄集落からはアドリアンと、魔族の姫メーラ、レフィーラが参加する。ケルナは残念ながら、防衛のためにお留守番となるが……。
三つの部族はこれから、大草原の秩序を取り戻すために出陣しようとしていた。
「……異論はない。いや、本当はあるが……ないことにする」
「アタイは問題ないねぇ!むしろ望むところさ!」
「私も、エルフ代表として頑張るよ!」
そして、最後にアドリアンが号令をかけた。彼は空に向かって拳を突き上げ、風に吹かれる黒髪と共に声を上げる。
「さぁ行こう!『みんな仲良し!平和大好き!』部族の力で、この混乱した大草原に秩序と愛を届けよう!もちろん、それが無理なら力づくでも平和は作れるからね!愛の鉄拳大作戦、始動だ!」
そう、これから本格的に、大草原を救う旅が、始まるのだ──
「ところでアドリアンよ。その……『みんな仲良し!平和大好き!』という部族名はやめないか?」
「だめ。さっき会議で正式決定したじゃないか。メーラ姫の素敵なネーミングセンスが爆発した芸術作品なんだよ。全獣人の心を鷲掴みにする魔法の言葉だよね」
「う~ん、やっぱり私の『もふもふハグ団!ニコニコ平和隊!』の方が良かったよね」
「それはないかな」
人間と獣人と魔族——種族を超えて集う一団が、大草原の新たな物語を紡ぎ始めようとしていた。