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第百二十話

──大草原の西端に位置する小さな獣人の集落。

緑豊かな草原に寄り添うように築かれた丸みを帯びた木造の住居が点在し、普段ならば穏やかな風が運んでくる草花の香りと共に、獣人たちの優しい笑い声が響き渡る場所。

しかし、今日の集落は違っていた。

集落の獣人たちの尻尾は恐怖で震え、長い耳を持つ者たちは耳を垂れさせ、身をひそめていた。集落の広場に集められた獣人たちの眼差しには、絶望と色が濃く滲んでいる。


「ぐふふ……なんと弱い奴らだ」


集落の中央、かつては子供たちが集い遊ぶ場所だった円形の広場に、一人の大柄な獣人が立っていた。

鋭い牙を覗かせる口元には残忍な笑みが浮かんでいる。鋭く尖った耳、そして肩から腰にかけての厚い筋肉──イヌの獣人の大戦士だ。


その周囲には、集落の戦士たちが無残な姿で倒れ伏していた。血に染まった剣が散乱し、うめき声だけが風に乗って響いている


「くそっ……こんなやつに……がはっ!」


立ち上がろうともがく一人の戦士の声が、突然苦痛に引き裂かれた。

別のイヌの獣人が、その戦士の背に足を乗せ、グリグリと踏みつけている。一回り小さい体躯だが、その目に宿る残忍さは同じだった。


「雑魚が喋るんじゃねぇ!テメェらは負けたんだ!」


声が甲高く響き、周囲に散らばる負傷した戦士たちを見下ろしながら、ほくそ笑む。


「そうだ!ここにおわす御方を誰だと思っている!?『大戦士』ウォーン様だぞ!」


大柄な獣人──ウォーンと呼ばれた男を仰ぎ見ながら、子分らしき獣人が誇らしげに叫んだ。彼の首には大戦士の証である首飾りが煌めいている。

その言葉に、集落の獣人たちは更に深く俯き、恐怖で震える耳と尻尾を隠してしまった。


「今日からこの集落は我々の部族の支配下だ!」


ウォーンの声が、集落に轟然と鳴り響いた。


「貢物を毎日上納するんだぞ。食料、女、金……テメェらみてぇな弱者が持ってても仕方ないもんだからなぁ!」


その言葉に合わせるように、イヌの獣人たちの下卑た笑い声が集落全体に広がっていく。

尖った牙をむき出しにした彼らの表情には、弱者を虐げることに喜びを感じているかのような、残忍な色が浮かんでいる。


「うっうぅ……」


相手は「大戦士」を擁する部族。

豪壮な体格と百人力の怪力を持つウォーンの爪一つで、この集落は跡形もなく消し飛ばされてしまう。

対する彼らの集落には大戦士が一人もいない。勝負にならないのは明らかだった。


「ぐははは!!さぁて……と」


ウォーンが頭を後ろに反らせると、獣の咆哮のような遠吠えが真昼の空に響き渡った。

彼は唸り声を収めると、残忍な笑みを浮かべた。爪で爪を清めるように擦りながら、呟いた。


「見せしめに、転がってる雑魚を処分してやるかぁ……!」


その言葉に、配下の獣人たちの目が獲物を見つけた捕食者のように輝いた。

彼らの表情には不気味な期待感が浮かんでいる。女性や子供たちの悲鳴が聞こえるが、それも彼らの耳には心地よい音楽に聞こえているのだ。


ウォーンの巨体が太陽の光を遮り、長い影が負傷した戦士を覆っていく。

集落の獣人たちの瞳が絶望に染まり、今から起こるであろう凶行に対して、成す術もなく、ただ恐怖に震えることしかできない。

彼らの心の叫びは天にも届くことなく消え、残るのは諦めだけ。


──しかし、その時。


「ウォーン様!大変だ!だ、大部族が……リノケロスが……うぎゃあ!?」


配下の獣人の声が突然途切れた。

彼の体が風に吹かれた落葉のように宙を舞い、ドサリと地面に叩きつけられる。


「あぁん?なんだってんだ……?」


ウォーンの眉根が寄り、いぶかしげな表情が浮かぶ。

彼は音のした方向にゆっくりと振り向いた。


そして——


ウォーンの全身が、凍りついた。瞬きさえせず、呼吸すら忘れたかのように静止した。


「は?」


いつの間にか、ウォーンの背後に巨大な影が立ちはだかっていた。

そこにいたのは、サイの獣人だった。しかもただのサイの獣人ではない。

ウォーンを軽々と見下ろす程の巨躯。筋肉質な体は、完璧な戦士の肉体……。


「おいおい、何処の部族のイヌだこりゃあ?」


その首には、大戦士の証である角の形をした特別な首飾りが輝いていた。太陽の光を受けて煌めくその首飾りは、草原における絶対的な力の象徴。

つまりウォーンと同じ、大戦士のサイの獣人。


——それが、五人。


「こんな奴見たことねぇなぁ」

「大方、大戦士が一人しかいない弱小部族だろう」


サイの獣人はあくびをしながら、退屈そうに言った。その態度には、ウォーンを脅威とも見なしていない余裕が滲み出ていた。

彼らは逞しい腕を組みながら、徐々にウォーンを取り囲むようにして立っている。

そして、その表情には、子供が虫を眺めるような、好奇心と退屈さが入り混じっている。


「な、なに……?」


先ほどまで暴虐を尽くしていたウォーンの顔から血の気が引いた。

彼の全身を覆っていた威圧感が霧のように消え失せ、後ずさりしようとする足が地面を掻いている。


「ア、アンタら……いったい何者だ……?」


震える声でそう言うウォーンに、サイの獣人たちは顔を見合わせ、鼻を鳴らした。


「見て分からんのか?俺たちゃリノケロス大部族の大戦士だ」


──リノケロス大部族!

その名を聞いた瞬間、ウォーンの全身に電撃が奔った。頭から爪先まで震えが走り、毛並みが逆立つ。

多数の大戦士を擁し、その名を大草原中に轟かせる大部族。鋼のような角を持つリノケロスは、大部族の中でも上位に属する規模と強さを誇る強大な勢力だ。

対して、ウォーンの部族は大戦士が自分一人だけの、いわば「成り上がり」の新興部族に過ぎない。


「リ、リノケロスだと……!?何でこんな辺境の集落に……!?」


ウォーンの声は裏返り、先ほどまでの傲慢さはどこへやら、今や震える声音だけが残っていた。

その言葉に、リノケロスの戦士たちは顔を見合わせた。彼らの目には何かを思い出そうとするように目を細める。


「なんだっけ……ほら、あれ。『婿』どのが言ってたあの作戦名」

「愛の鉄拳大作戦だろ」。

「あぁ、それそれ」


太陽の光を浴びながら、彼らは他愛もない会話を交わしていた。


(な、なにを言っているんだ……?こいつらは……)


ウォーンの頭の中は混乱に満ち、思考が千々に乱れていた。

目の前の圧倒的な力の前に、彼の「大戦士」としての自信も誇りも、砕け散りつつある。


「まぁ、つまりだな」


その瞬間、リノケロスの分厚い腕がウォーンを抱え込むように伸びた。逃れる間もなく、強靭な腕に捕らえられる。

丸太のように太い腕は絞め金のように容赦なくウォーンの体を締め付けていった。


「な……なにをする!?やめ……ぐおっ……!?」


さしものウォーンも、リノケロスの力には敵わない。いくら足掻こうとも、彼の力はびくともしない。

かつて自らの爪と牙で恐怖を振りまいていた大戦士の尻尾が、今は完全に縮こまり、わずかに震えるだけだ。


「お前さんみたいな、弱い者虐めをするバカを懲らしめる作戦中ってワケだ!!」


サイの獣人の声が低く轟き、腕の力がさらに増していく。

ギリギリと絞めあげられる音が集落に響き渡り、ウォーンの顔色が蒼白に変わっていく。目が徐々に飛び出し、鼻からは悲鳴めいた風が漏れ始めた。


「が……がぁ!やめろ……!お、お前たち!見てないで俺様を助けろ!!」


最後の力を振り絞り、ウォーンは配下の獣人たちに向かって叫んだ。

だが──


「ウォーンさま、パ、パンテラの奴らが……うぎゃあ!」

「ぎゃあ!た、助けてくれぇ!」


配下の叫び声に目を向けると、黒い閃光が集落中を奔っていた。

風のように素早く、影のように静かに。次々と集落を襲っていたイヌの獣人たちが、空中に投げ飛ばされ、切り裂かれ、倒れていく。

あっという間に、ウォーンの配下たちはみな地面に横たわり、唸り声をあげるだけだった。


「……!?」


それを見て、ウォーンは目を見開いた。

何故なら、自分の配下を襲っている黒い影は……黒いヒョウの獣人──


「なんと惰弱な戦士よ。本気を出すまでもない」


黒い閃光がようやく形を成し、その姿が日の光の下に現れた。

優雅な体躯を持つパンテラの獣人が、闘いの後とは思えぬほど整えられた毛並みを輝かせている。


「うむ。助走しただけで気絶するとはな」


別のパンテラの戦士がため息混じりに言った。

太陽の光を浴びながら、パンテラの戦士たちは息一つ切らさずに立っていた。集落を襲っていたイヌの獣人たちは、子供のように簡単に掃討されていた。

投げ飛ばされた者、足を払われた者、気絶させられた者——すべてが一方的な敗北である。


「集落の怪我人をメーラ姫の元へと運べ!襲撃者の方は……まぁ、そのうち目覚めるだろ。縛っておけ」


複数のパンテラの大戦士たちが、命令を下した。とても戦いの後とは思えぬ、穏やかさで……。


「う、うそだ……」


その光景を見て、リノケロスの腕の中でウォーンの全身が震え始めた。彼の毛皮が恐怖で逆立ち、尻尾は完全に縮こまっている。


「リノケロスとパンテラの大戦士が、揃って……こんなところに……」


その言葉を最後に、ウォーンの瞳から意識が薄れていった。彼の体がぐったりと力を失い、サイの獣人の腕の中で気を失う。

リノケロスの大戦士はウォーンを地面に放り投げると、呆れたように頭を振りながら言い放った。


「この犬が大戦士だと?冗談も休み休み言えよ」

「ま、大戦士にも雑魚は沢山いるからなぁ」


別のリノケロスの大戦士が肩をすくめて答えた。彼らの間に流れる会話には、敵を倒した高揚感よりも、退屈そうな調子が目立つ。

そこへ、後続のリノケロスの戦士とパンテラの戦士が駆け寄ってきた。彼らの顔には、大戦士への絶対的な忠誠と畏敬の念が浮かんでいる。


「大戦士さま!集落の制圧、完了しました!」


若いリノケロスの戦士が胸を張って報告する。彼の角はまだ短く、これから何度もの戦いを経て成長するであろう若々しさを湛えていた。


「あぁ、ご苦労」


大戦士たちは穏やかに頷き、その言葉に若い戦士たちの目が輝いていった。

──そして、その光景を唖然として見つめているのは、この集落に元々いた獣人たち……。


「お、おい……リノケロスだって?」

「パンテラ大部族もいるぞ……なんで俺たちを助けてくれたんだ……?」


先ほどまで独裁者の暴虐に怯えていた彼らの瞳に、今は理解しがたい状況に対する困惑が浮かんでいる。

ウォーンとその配下に虐げられていた獣人たちは、わずかに頭を持ち上げ、救世主とも邪神ともつかぬ、新たな「支配者」を見上げていた。


「あ、あのぅ……」


不意に、おずおずと、一人の女性が大戦士たちの前に進み出てきた。

恐らくは集落の長であろう、若いウマの獣人の女性は、長い耳をビクビクと震わせながら、前に一歩、また一歩と歩を進める。


「貴方たちは、一体?」


彼女の声は細く震えていたが、それでも集落の長としての毅然とした響きを失ってはいなかった。

その問いに、リノケロスとパンテラの大戦士たちは互いの顔を見合わせた。

強大な力を持つ者たちの間に奇妙な沈黙が広がる。


「おい、お前たちが言え」


パンテラの大戦士が黒い尻尾を左右に振りながら、その役目を拒否する。


「いや、お前たちが言ってもいいぞ。譲ってやろう」


リノケロスの大戦士が、角を掻きながらパンテラの大戦士に目配せをした。

互いに譲り合うような、奇妙なやり取りが交わされた後……諦めたようにパンテラの大戦士の一人が深い溜息をつき、言った。


「……我々は、『みんな仲良し!平和大好き!』部族同盟の戦士」


彼の声は低く重々しく、己の尊厳と戦いながらその言葉を絞り出しているかのようだった。

その不釣り合いな部族名を言い終えた時、彼の表情には恥ずかしさが滲み、黒い尻尾が不機嫌そうに小刻みに震えている。

そして、次にリノケロスの大戦士が一歩前に出て言った。


「この集落は我らが守護することになった。安心するがいい、住民に危害は加えん。お前たちはただ、普段通りに暮らせばいい。……あぁ、ついでにリマ湖に移住してくれたら、ありがたい。そこに行けば、豊かな暮らしを約束できるからな」


暫くの静寂が集落を覆った。

やがて、一陣の風が長の女性と大戦士たちの間を吹き抜けた。

その静寂の中、長の女性の口がゆっくりと開いた。


「『みんな仲良し!平和大好き!』部族……?」


その言葉を聞いた瞬間、大戦士たちの反応は様々だった。


ある者は咳払いをし、ある者は空を見上げ、またある者は地面を見つめている……。

風が再び集落を吹き抜け、彼らの恥ずかしげな姿を優しく包み込んでいった。


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