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第百二十一話

──フェルナギア平原、大草原の南西部に位置する豊穣の地。

幾重にも連なる緩やかな起伏の丘陵地帯と、その間を縫うように流れる小さな清流。清らかな水と澄んだ空気、そして豊かな土壌が作り出す理想の耕作地は、獣人たちが口を揃えて「大草原の宝庫」と呼ぶ場所だった。


かつて獅子の獣人リガルオンが統治していた頃、ここは部族間の垣根を越えた共同の収穫場として平和に利用されてきた。

 狼の獣人が豆を植え、鹿の獣人が野菜を育て、熊の獣人が実りの季節には果実を分け合う——そんな穏やかな光景が広がっていた。


しかし今——その景色は一変している。


「この地は我らグラシル部族の聖なる土地だ!いい加減、立ち去れ!我が部族の怒りを買いたくなければな!」


長い草を揺らし、とあるの獣人の一団が角を低く構えて叫んだ。全身からは殺気が漂い、太い脚で大地を叩く音が轟く……。

相対するのは、分厚い毛皮を持つ熊の獣人たち。


「何を言うか!この地は、先祖より受け継いだ我らの聖地!一歩たりとも、渡さん!」


熊の獣人の咆哮が大地を震わせた。彼らの鋭い爪が太陽の光を受けて煌めき、強靭な筋肉が蠢いている。

そして、それだけではなかった。


「我が部族としても、この地から立ち去るつもりはない!」

「この実りの地は、牛の部族にこそ相応しい!」

「いやいや、この香りの良い土壌は、私たち部族に相応しいものよ!」


あちこちで様々な獣人たちが入り乱れ、それぞれが己の部族の権利を主張していた。

牙をむき出しにする狼の獣人、角を鳴らして威嚇する牛の獣人、低く身を構えるアナグマ——それぞれが己の強さを示そうと、威嚇と罵声を浴びせ合う。

それが、フェルナギア平原。獣の本能と強者の論理だけが支配する土地……。


「我らのものだ!」

「いや、我々の土地だ!」


争いの渦が大地を覆い、乱舞する戦士たちの呼吸と足音が響き渡る……。


「フンガァ!」


牛の獣人の一撃が大地を叩き、衝撃波が草原に走る。

獣人たちが角を低く構え、熊の戦士たちに突進していく。その角が熊の分厚い毛皮を捉えたかと思えば、熊の強靭な爪が鹿の戦士の脇腹を引き裂く。

互いに傷つき、互いを傷つける悪循環だけがこの地を支配していた。

入り乱れる戦いは、もはや誰が誰を攻撃しているのかも分からぬ混沌の極みにあった。

そんな混戦模様の中──


「ウォォォォォ!!!」


突如として、轟く咆哮が戦場に響き渡った。

まるで雷が落ちたかのような轟音に、争っていた獣人たちが一斉に動きを止め、驚愕に目を見開く。


「!?」


そこにいたのは──

青い空を背景に、山のような体躯が聳え立っていた。

灰色の髪を風に揺らす、大柄な女。その額からは、猛々しいサイのツノが天を穿つようにそびえ立っている。


「へへっ!イキのいい雑魚どもが、わんさかいるなぁ!」


──イルデラ。

勇猛で名高いリノケロス大部族の族長。

彼女の首にかかる大戦士の証である首飾りが、太陽の光を受けて鈍く輝いていた。

そして、その横に影のように佇む黒ヒョウの獣人の青年──


「いきなり大声を出すのはやめろ。鼓膜が破れる」


ゼゼアラ。誇り高きパンテラ大部族の長。

長く優美な尻尾は微かな風にしなやかに揺れ、その姿からは威厳と気品が漂っている。

彼の首元にも、大戦士の証である首飾りが輝き、太陽の光を踊らせていた。


「あ、あれは……イルデラ……!?」

「ゼゼアラもいるぞ!リノケロスとパンテラは敵対しているはずじゃ……!?」


戦場に集まっていた獣人たちの間に驚愕と困惑の声が広がった。

イルデラとゼゼアラの名は大草原に広く知れ渡っている。彼らの部族、そして個人としての実力は大草原でも上位に位置するのだ。

敵対していたはずの二大部族の長が共に現れたことに、誰もが混乱し、恐れおののいた。戦場の空気が一変し、争っていた獣人たちは思わず後退っていた。


「馬鹿だねぇ。叫ぶと闘気が漲ってくるもんなのさ。お前も叫んだらどうだ?」

「遠慮しておこう。お前みたいな馬鹿でかい声は出せないだろうからな」


二人はそんなやり取りをしたあと──


「さぁて」


イルデラが肩に担いでいた大斧を地面に叩きつけた。轟音が平原に響き渡り、彼女の足元の地面がえぐれ、亀裂が走る。斧の衝撃に驚いた獣人たちが、一歩また一歩と後退していく。

その斧には、シャヘライトが埋め込まれており、幾何学的な模様と共に淡い青白い光が漏れ出していた。


「『婿』どのから貰った、このドワーフ製の斧の力……試させてもらうか!」


彼女の声には期待と高揚が混じり、尻尾が小刻みに震えていた。

この斧は、アドリアンがグロムガルド帝国で皇帝から褒美として貰った物品の一つであった。魔導技術と、一流の武器職人が作った帝国の中でも最高峰に位置する斧である。

イルデラがその斧を誇らしげに撫でる様子に、ゼゼアラは瞳を細めた。


「人間ならともかく、獣人が武器に頼るとは情けないものだ」


ゼゼアラが横目で斧を見ながらそう言うが、イルデラは豪快に笑った。彼女の顔には戦いを楽しむ子供のような無邪気さが浮かんでいる。


「ははは!いつまでも爪一本で戦う方が時代遅れってもんさ!新しい時代は武器と共にあるんだよ、パンテラのお坊ちゃん!」


彼女の言葉と共に斧を持ち上げ、その巨大な武器が草原の風を切り裂く音を立てた。シャヘライトの光が強まり、周囲の空気が震え始める。


「ならば、試してみるか。獣人の本質である己の爪と、他者の力である借り物の武器。どちらが強いかをな」


ゼゼアラの挑発じみた言葉に、イルデラはにやりと笑い、シャヘライトを埋め込んだ斧を軽々と持ち上げた。


「望むところだぜ!どっちが多く倒せるか、勝負してやらぁ……!」


二人の大戦士から放たれる殺気が、草原全体を震わせる。

周囲の獣人たちは息をするのも忘れ、身体を強張らせていた。大草原でも屈指の大部族の長である二人が発する威圧感は、弱小部族には耐え難いほどの重圧なのだ。


「ま、まて……俺はアンタらと敵対するつもりは……」


一人の熊の獣人が、震える声でそう言った。彼の毛皮が恐怖で逆立ち、手にしていた棍棒が落ちそうになっている。


「お、俺は逃げるぞ!」


別の狐獣人が悲鳴のような声を上げ、後ろに倒れこみながら言った。彼の尻尾は完全に縮こまり、長い耳は頭に張り付いていた。

争っていた獣人たちは、みな本能的に危機を感じ、逃げようとしていた。


しかし——


「さぁ、堂々と戦いな!いくよ──!」


イルデラが雄叫びを上げ、巨大な斧を大地に向かって勢いよく振り下ろした。斧が空気を切り裂く音が鋭く響き、刃がフェルナギア平原の肥沃な大地に突き刺さる。

その瞬間、シャヘライトが眩い光を放ち、地面から衝撃波が放たれた。大地が波打ち、轟音と共に土煙が巻き上がる。


「う、うわぁ!?」

「バケモンだ!」


数多の獣人戦士たちが、まるで枯れ葉のように空中に舞い上がり、無様に吹き飛ばされていった。

鹿の角を持つ戦士も、狐の尻尾を持つ戦士も、熊の爪を持つ戦士も、その威力の前に等しく蹂躙されていく。


「お、俺は逃げ……うぎゃあ!?」


一方では、イルデラの力を目の当たりにした戦士たちが逃げ惑っていた。しかし、彼らの前に黒い閃光が走り抜けた。

地を蹴るゼゼアラの姿は、常人では捉えられないほどの速さだった。彼の尖った爪が風を切り裂き、逃げようとする獣人たちを次々と捉えていく。


「は、速すぎて見えねぇよぉ……!?」


戦士たちの叫び声が虚しく響くだけで、その体は既にゼゼアラの爪によって切り裂かれていた。

彼の攻撃は致命傷を与えることはなく、ただ相手を戦闘不能にするだけの正確な一撃ばかり。その精密さと速さは、まさに捕食者の極致──。


「背を向け逃げるとは……。戦士の風上にもおけん」


ゼゼアラは冷静な声でつぶやきながら、立ち止まった。黒い尻尾がゆっくりと左右に揺れ、戦いの高揚感よりも退屈さが勝っている。

彼の周りには、意識を失った獣人たちが十数人横たわっている。

一方、イルデラは豪快に笑いながら、斧を振るい続けていた。一振りごとに地面が割れ、木々が倒れ、獣人たちが吹き飛ばされていく。


──やがて、平原に立っていた獣人たちは、ことごとく倒れ伏した。わずか数十分の間に、激しい争いが続いていた平原は静寂に包まれた。

残されたのは、戦いの痕跡と、二人の大戦士の姿だけであった。


「まったく、この程度かい。つまらない勝負だったねぇ」


イルデラが拍子抜けしたように言い、斧をがっしりと肩に乗せた。


「大戦士がいなければ、これが限界だ。想定の範囲内だな」


ゼゼアラは淡々と言い、爪を軽く舐めて血を拭った。その動きからは、退屈さと共に、かすかな安堵の色も感じられた。

そんな二人に、片膝を立てて起き上がろうとするキツネの獣人が、血の混じった唾を吐き出しながら言った。


「テ、テメェら……俺に手を出したら、『ルミナヴォレン』大部族が黙っちゃいねぇぞ……!わかってるのか、このくそったれが……!」


その言葉に、二人は同時に顔を向けた。

イルデラの目に疑問の色が浮かび、ゼゼアラの尻尾の動きが一瞬止まる。


ルミナヴォレン——キツネの獣人の大部族。同じキツネの大部族である『フォクシアラ』とキツネの勢力を二分する存在であり、この大草原でも屈指の勢力——。

だが、その言葉にイルデラとゼゼアラの二人は互いの顔を見合わせ、次いで呆れたような仕草を浮かべた。


「へぇ、自分じゃ立ち向かえないからって、すぐに親分の名前を借りるのかい。惨めなやつだねぇ。まさに虎の威を借りる狐って感じでさ」

「いや……この場合、キツネの威を借るキツネというのが正しい。訂正しろ、イルデラ」

「……うっさいな!どうでもいいだろそんなもん!」


そんな二人の言い争いを見て、キツネの戦士は全身をわなわなと震わせた。彼の尻尾は恐怖で完全に縮こまり、長い耳も頭に張り付いている。


「な、なんなんだよ……お前ら、なんなんだよぉ!急にやってきて、全部めちゃくちゃにして……大体、リノケロスとパンテラは敵対してたんじゃないのかよ!?」


ルミナヴォレンの名を出しても引き下がるどころか、嬉々として余裕の態度を崩さない二人。

それも当然だ。リノケロスとパンテラの威光は、ルミナヴォレン以上のものなのだから。

狼狽するキツネの戦士を見て、イルデラが豪快に笑って言った。


「その可愛いキツネ耳でよーく聞けよ!アタイらはな、『みんな仲良し!平和大好き!』部族同盟!これから大草原に平和を取り戻すんだ!そしてお前らみてえなケンカ好きを片っ端から黙らせんだよ!」


キツネの戦士の動きが止まった。




暫くの静寂が、平原を支配した。



そして……。



「えっ……なんだその名前……?ダサッ……」


次の瞬間、キツネの戦士の腹部にイルデラの太い腕が矢のように突き刺さった。


「うぼぁ!?」


彼の身体が宙を舞い、そのまま無様に地面へと叩きつけられる。意識を失った彼の尻尾が地面に擦れ、長い耳はもはや動くことなく横たわっていた。


「ダサいだと……!?てめぇ、みんなが思ってることを易々と口に出すんじゃねぇよ!」


イルデラの怒鳴り声が平原に響き渡った。


「もう気を失ってるから言っても伝わらないぞ」


ゼゼアラが冷静に言った。彼の瞳にはわずかな諦めの色が浮かんでいる。


平原に倒れ伏した獣人たちは、やがて目を覚ませば『みんな仲良し!平和大好き!』部族の支配下にあることを知るだろう。

それは、力によって植え付けられる平和。だが、秩序ある世界。


獣人の世界に、新たな秩序が広がり始めていた──。


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