「族長さまはおられるか!」
とある集落に、緊迫した叫び声が響き渡った。
大草原にある数多の獣人の集落の中で、ここだけは異質な雰囲気を醸し出しているキツネの集落。
単なるキツネの集落ではない——この場所こそは、フォクシアラ大部族の中心地。
幻術と謀略を得意とするフォクシアラは、大草原の勢力の中でも異質で強大な部族の一つ。他の部族が力に頼る中、彼らは知恵と幻術で草原の覇権を狙う存在だった。
だからこそ、力に勝る獣人たちの中でも一目置かれる存在なのだ。
集落の様子は他の部族とは明らかに違っていた。
鹿や牛、熊の獣人たちの集落にあるような無骨な木造の住居は一切なく、優美な曲線を描く建物ばかりが立ち並んでいた
道を歩くキツネの獣人たちも、その歩き方は踊るかのように優雅。長く美しい尻尾を風になびかせ、弧を描くように揺らし、金色の毛を煌めかせている。
この光景こそが、フォクシアラの一族が他と一線を画す部族だということを如実に物語っていた。
──そんな静謐な美しさに包まれた集落の大通りを、一人のフォクシアラの戦士が慌ただしく駆けていく。
彼は集落の中央にある族長の屋敷に辿り着くやいなや、飛び込むようにして門をくぐり、精巧な彫刻が施された廊下を駆け抜ける。
そして、内庭に足を踏み入れた。そこには陽光が降り注ぎ、その中心に一人の女性が佇んでいた。
金色の長い髪が風に靡き、同じく金色の柔らかな毛並みを持つキツネの耳と尻尾が陽の光を受けて煌めいている。
彼女は手の中で小さな火の玉を浮かび上がらせ、それを軽やかに指の間で踊らせていた。
「騒がしいな、どうした」
彼女こそが、フォクシアラの族長……大戦士アカネ。
優雅さと勇猛さを兼ね備えた彼女は、幻術の術に長け、多くの戦いで勝利を収めてきた大戦士だった。
アカネは火の玉を消し、たった今飛び込んできたフォクシアラの戦士に、訝し気な視線を向けた。
金色の尻尾が静かに左右に揺れ、緊張感を孕んだ空気が内庭に満ちていく……。
「報告いたします!ル、ルミナヴォレン部族が……その……」
その単語を聞いた瞬間、アカネは細く長い指で生え際の髪をかき上げ、「またか」と呟いた。
──ルミナヴォレン。
同じキツネの獣人の部族。フォクシアラと似たような規模を持つ大部族ではあるが、その性質は大きく異なる。
フォクシアラが知恵と幻術で優美に戦うのに対し、ルミナヴォレンは粗暴で、荒々しさを誇る戦闘集団だった。
彼らの戦い方は、キツネ耳の先っぽから爪先まで筋肉で出来ているかのように直截的であり、洗練さを欠いているのだ。
古来より、ルミナヴォレンが前衛を務め、フォクシアラが後方から魔法で援護する──そのような補完関係で、表裏一体の兄弟のような部族で、共に大草原を守り、異種族の侵入を防いできた名高き同胞だったのだが……。
「また筋肉だけで考えるバカどもが、知恵の欠片もない頭で攻めてきたのか」
この大草原が混乱に陥ってから、長い間保たれてきた関係は脆くも崩れ去った。
……いや、正確に言えば元々、『とあること』が原因で、その関係性は揺らぎつつあったのだが……それは置いといて。
リガルオンの統治が失われ、この地に力による支配が始まってからというもの、亀裂は一気に表面化したのだった。
これまでルミナヴォレンは幾度となくフォクシアラに戦いを挑んできた。しかし彼らは毎回、アカネの巧みな幻術と策略によって翻弄され、撃退されてきた。無意味な繰り返しが続いていたのだ。
「仕方ない、また戦士たちに出陣の準備を……」
アカネは優美に尻尾を揺らしながら、既に次の策を練り始めていた。
だがその時、戦士が首を慌てて横に振る。
「い、いえ……違うのです。ルミナヴォレンが攻めてきたわけではないのです」
戦士の言葉に、アカネの指が空中で止まった
「なに?」
それでは、何故この戦士は慌てているのだ?
このように慌てて報告にくるときは、決まってルミナヴォレンが攻めてきた時のはずだが……。
戦士は膝をついて頭と尻尾を垂れ、絞り出すように声を出した。
「その……ルミナヴォレン部族がある新興勢力に敗北し、その支配下に置かれたと報告がありました。もはや独立した部族ではなくなったようです」
「は?」
アカネの呆然とした声が中庭に響き渡った。
ルミナヴォレンが負けた?しかも、新興勢力の部族に?しかもしかも、吸収された……?
「……」
アカネは無言で自らのキツネ耳の内部を触った。彼女の指が毛並みの良い耳の中を軽く掻き、何かの間違いでもないかと確かめている。
しかし耳が汚れているわけでもなく、幻聴があるわけでもない……正しく聞こえているようだ。
「先刻、ルミナヴォレンの斥候が、泥にまみれた姿で草原をうろついているのを発見し、捕縛して話を聞いたところ……。ルミナヴォレンの戦士団は壊滅し、族長フェンブレは捕らえられたとのことで……」
「フェンブレが?」
ルミナヴォレンの戦士団が壊滅?しかも、あのフェンブレが捕らえられた?
アカネの頭の中では様々な思いが交錯していた。彼女はフェンブレという傲慢でしつこいキツネの男を心から嫌っていた。
いつも彼女に挑戦状を叩きつけては敗れ、それでも無様に自身に『求婚』する愚かな男——
しかし、その彼は弱くはなかった。粗暴で知性に欠けるところはあれど、戦士としての実力は確かなものだった。
その男が呆気なく負け、捕えられたという事実に、アカネの理解が追いつかない。
「あの……それと、捕えた斥候が奇妙なことを口走っておりまして……」
「奇妙なこと?」
アカネから普段の優雅さが消え耳がピンと立ち、全神経を集中させている。
「それが……その……『おのれフォクシアラ!人間と婚儀を結んでまで、我らを駆逐するとは、卑怯なり!』と叫んでおりました……」
「???」
アカネの思考が一瞬で止まった。
人間と婚儀?何を言っているのか理解できない。彼女の頭の中に混乱の風が吹き荒れる。フォクシアラの部族で人間と交わる者などいない。
「な、なんだそれは……!?詳しく話せ……!」
アカネの声には焦りが滲み、尻尾の動きが荒々しくなっていく。彼女の周りに漂っていた優雅さは、今や完全に消え失せていた。
「は、はい……斥候から聞き出した話を最初から伝えますと……」
アカネの耳と尻尾が、ピクリ揺れ動く中、戦士は深く息を吸い込み、震える声でポツリポツリと話し始めた──。
♢ ♢ ♢
──それはアカネが、とんでもない報告を聞く前の、お話である……。
真昼の太陽が大草原を包み込み、黄金に染まった草原が風に揺れる。遠くを見渡せば、地平線まで広がる大草原と、あちこちに点在する小さな丘。
その雄大な風景の中、一つの野営地が活気に満ちていた。
「アドリアン様!ペペロン部族、カルカラ部族が僕たちに恭順の意を示しました!」
草原の風に乗って、モル少年の声が響き渡った。
彼は長いウサギ耳を嬉しさからぴょんぴょんと跳ねさせながら、草むらに腰掛けているアドリアンとメーラに駆け寄る。
「うんうん、順調だね!流石モル族長……とんとん拍子に、大草原侵略作戦……じゃなくて、『愛による平和の導き』作戦が進むねぇ。このまま行けば、キミが大草原の覇者になる日も近いな」
アドリアンは草の上に寝そべりながら、笑みを浮かべた。
「アド、『愛の鉄拳大作戦』じゃなかった?」
メーラがすかさず首を傾げ、突っ込んだ。呆れたような眼差しでアドリアンを見つめている。
「そうだっけ?まぁ、同じようなもんだよ、多分」
アドリアンは軽く手を振った。その表情には悪戯っぽさと、幼馴染に対するからかいの色が浮かんでいる。
そんなやり取りを見て、メーラの口元が緩み、彼女の笑い声が草原に広がった。アドリアンもつられるように笑う。
モル少年も、二人のやり取りを見ているうちに、つい自分も笑みを浮かべてしまう。
「……」
彼らは不思議な人たちだ——そう、モル少年の心は静かに語りかけていた。
突然、大草原にやってきて、虐げられていた自分たちを救ってくれたと思ったら……こんな突拍子もない「みんな仲良し!平和大好き!」という部族同盟を作り出している。
そして、アドリアンとメーラの姿からは悪意が微塵も感じられない──。
だからこそ、モル少年は心から安堵していた。いつの間にか信頼という名の絆が結ばれていたのだ。
「それで、モル族長。これから先はどうすればいいのかな?」
アドリアンが上半身を起こし、草の葉を払いながら期待を込めた目でモルに問いかけた。
──アドリアンとモル族長が率いる元・廃棄集落は、わずかな日数で目覚ましい成長を遂げていた。
初めは大草原の中の小さな点に過ぎなかったが、パンテラとリノケロスの戦士たちの圧倒的な力を借りて、効率的に多数の部族を傘下に収めていった。
彼らは次々と弱小部族を味方につけ、時には力に溺れる傲慢な部族を力で下し……同盟の輪を広げていったのだ。
そして、驚くべきことに、この戦略的な動きは、アドリアンが細かく指示したことではない。
なんと、モル少年が提言し、随時指示を全員に出している。長い耳と小さな体の少年が、生来の指導者のように部族の指揮を執っていたのだ。
「はい。そのことなのですが……」
モルは、アドリアンの言葉に顎に手を当て、思案する仕草を見せた。小さな丸い尻尾が集中力からか微かに震えている。
「少し前に、ゼゼアラ様とイルデラ様が、フェルナギア平原を制圧した時に、『後ろ盾』がある部族を攻撃しましたよね」
モルの冷静な分析に、アドリアンは片方の眉を上げた。
「あぁ……そうだったね。キツネの後ろにキツネがいるとか、前にキツネにいるとか、何とも言えない話だったね。噛み合わない歯車みたいで」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、モルは真面目な表情で頷いた。
「はい。配下の部族を攻撃されて放置していたのでは、他の部族に示しがつかない……だから、その『後ろ盾』となっている大部族が、そろそろ全力で僕たちを攻めてくるはず──」
モルがそう言いかけた、その瞬間であった。
草原の風を切り裂くような足音と共に、黒い影が俊足で彼らの元へと駆け寄ってきた。パンテラ族の戦士だった。
彼は息を整えると、頭を下げて報告する。
「アドリアンどの!モル族長!ルミナヴォレン大部族の軍勢が北方より我らの領域に迫っているとの報告が入りました!急ぎ、戦いの準備を!」
アドリアンとメーラが顔を見合わせ、互いの瞳に驚愕の色が浮かんだ。モルは静かに頷き、まるで予想通りの展開に安堵したかのような表情を浮かべている。
そして、アドリアンが微笑を浮かべ、言った。
「──キミは、本当に素晴らしい軍師だ。今にも耳から水晶球でも出てきそうだね」
アドリアンは片膝を立て、軽やかに立ち上がりながら、モル少年の頭を優しく撫でた。モル少年は、アドリアンに撫でられ、照れながらも気持ちよさそうに身をよじる。
「さぁ、そろそろ俺の出番だよな!モル族長!」
「……はい!」
遠くから響き渡る太鼓の音が、静かな草原に戦いの予感を運んでくる。新たな戦場の幕が、今まさに開かれようとしていた──。