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第百二十三話


草原の風が吹き抜ける中、獣人の軍勢が大地を踏み締めながら前進していた。

前方には様々な獣人の戦士たち——クマの獣人、オオカミの獣人、イノシシの獣人などが隊列を組み、それぞれが鋭い牙や爪を剥き出しにしていた。

太陽の光が彼らの武具を照らし、金属の光沢が草原の緑に映え、遠くまで列をなして進んでゆく様は壮観だ。


「おい、聞いたか?」

「あぁ、今回は相手がフォクシアラじゃないんだってな。珍しい話だぜ」


前列を行くクマの獣人が、肩に担いだ斧を持ち替えながら言った。


「あぁ、なんでも南の方から湧いてきた新興勢力が相手らしいぜ」

「ふぅん……ようやくフォクシアラには敵わないと理解したってことかねぇ」


オオカミの獣人が皮肉めいた笑みを浮かべて言った。彼の長い尻尾がゆらりと動き、その言葉には隠しきれない侮蔑の感情が滲んでいる。


「おい、声がでかいぞ。キツネに聞かれちまう」


イノシシの獣人が小声で注意し、肩越しに後方を振り返った。彼の目に映るのは、軍の中心部を占める、キツネの獣人たちの姿。

彼らの赤褐色の毛並みと長い尻尾が、草原の中に浮かぶ炎のように広がっている。


「おっとすまん」


オオカミの獣人は口元を押さえ、声を潜めた。


彼らは、ルミナヴォレンの軍勢の一員だ。

一員、と言っても、彼らは生粋のルミナヴォレンの部族ではない。

オオカミやイノシシといった、混合の種族から分かるように、彼らは皆、元々は別の部族だったが、ルミナヴォレンの侵攻により吸収合併された部族の戦士たちであった。

長いキバを持つイノシシの獣人も、鋭い牙を見せるオオカミの獣人も、かつては独立した部族を構成していたが、今では赤褐色の毛皮を持つキツネの獣人たちの命令に従う存在となっていた。


リガルオン一族の威光が存在し、大草原に秩序というものがあったころは、ルミナヴォレンも大人しくしていた。


──しかし、今やこの大草原は力と無法が支配する土地。


獅子の統治が失われ、大戦士たちが互いの尊厳を忘れた今こそが、躍進の時だとばかりに、ルミナヴォレンは勢力を拡大し続けているのだ。


「ま、相手がフォクシアラじゃなきゃ楽だろ。多分」


熊の獣人が言うと、周囲から軽い笑い声が漏れた。

制圧した部族の獣人の戦士たちを軍勢に組み込み、ルミナヴォレンの軍は日に日に肥大化していった。

膨れ上がった部族の力を抱えて、彼らは同じキツネの獣人であるフォクシアラ大部族に幾度となく戦いを挑んだのだが……。


「ま、我らがキツネ様たちも、筋肉バカじゃ幻術使いには勝てないって至極真っ当なことを、百回負けて、やっと分かったみたいだな。ずいぶん長かったじゃないか、その悟りに至るまで」


オオカミの獣人が憮然とした表情で呟いた。彼の言葉には、所属する部族への敬意よりも皮肉が滲んでいる。

肉弾戦を得意とするルミナヴォレンと、幻術で相手を翻弄するフォクシアラの相性は最悪だった。鋭い爪や牙、筋肉の力が頼りのルミナヴォレンは、フォクシアラの幻術に翻弄され、何度戦っても全敗を喫していた。

勝利を掴めないまま月日が流れ、彼らの心には焦りと共に、憎悪が積み重なっていったのだ。


「おい!貴様ら、何をぺちゃくちゃと話している!進軍中の私語は慎め!」


その時、談笑している獣人の戦士たちの後方から、一人のキツネの獣人が駆けてきた。

ルミナヴォレンの戦士である。

筋骨隆々としたその身体は、キツネとは思えないほどの巨躯を誇っている。

しかしその動きはキツネ本来の俊敏さを失っておらず、重い筋肉を持ちながらも風のように素早く地面を蹴って駆けてきた。

それこそが、彼らが大部族の精強な戦士である理由——力と速さを兼ね備えた精強なキツネの獣人たちなのだ。


「いやぁ、ルミナヴォレンのキツネ様の尻尾は今日も美しいなぁって話をしてたんスよ。朝日に照らされると、まるで炎みたいでさぁ」


一人の獣人が首を掻きながら、わざとらしい媚びた声で言った。


「そうそう、俺たちみたいな粗末な毛並みとは大違いだって感心してたところさ。羨ましい限りだよ」


オオカミの獣人も、わざとらしく尻尾を低く垂らしながら続けた。

そう言う戦士たちに、ルミナヴォレンの戦士はギロリと睨みつけた。鋭い瞳には、彼らの言葉の裏に潜む皮肉を見抜いているような色が浮かんでいる。

しかし、それ以上は何も言わず、彼は踵を返して元の場所へと駆けていった。

その後ろ姿を見て、戦士たちは互いの顔を見合わせ、再び口を開いた。


「あれがキツネの身体かよ?何を食い過ぎたらあんな化け物みたいな筋肉になるんだ。俺の身体よりデケェじゃねぇか」


クマの獣人が吐き捨てるように言った。その声には、横暴な支配者に対する隠し切れない憎悪が混じっている。


「フォクシアラの尻尾と違って、ルミナヴォレンの尻尾なんて臭そうだしゴワゴワだしな。手入れも行き届いてない。ぎゃはは」


イノシシの獣人が鼻を鳴らしながら笑った。その笑い声は、恨みを含んだ薄ら寒いものだった。

そうしてやる気のない他部族の戦士を先頭に、ルミナヴォレンの軍勢は草原の中を進んでいく……。


そして、目的の地についた。

そこは小高い丘が立ち並ぶ草原地帯……。風が草を靡かせる美しい光景が広がる中、ルミナヴォレンの軍勢の前方には、既に別の軍勢が整然と待ち構えていた。


「全隊、止まれい!今の位置で陣形を保て!」


ルミナヴォレンの戦士の鋭い号令が響き渡り、軍勢の足が一斉に止まった。

草を踏みしめる音が消え、ただ風の音だけが耳に届く。戦士たちは緊張から息を詰まらせ、前方を凝視している。

その時、前列の戦士たちが呟いた。


「おいおい、ありゃパンテラじゃねぇか?」

「リノケロスもいるぞ……!?」


オオカミの獣人が続けた。彼の声には動揺が混じり、長い耳が不安からピクリと震えていた。

前方の丘の上に広がる軍勢は、大部族として名を馳せているパンテラとリノケロスの両種族の混成軍だった。黒い漆黒の尻尾を持つパンテラの優美な戦士たち、そして堅牢な角を持つリノケロスの屈強な戦士たち。


「楽な相手じゃなかったのか!?」

「あれのどこが『新興勢力』なんだよ!?」


まさか、高名な二つの種族が相手だと思わなかった戦士たちの間に、不安と焦燥のざわめきが広がっていく。


「静まれぃ!!」


しかし、そのざわめきはルミナヴォレンの大戦士の一喝によって静まり返った

普通の戦士よりも、更に一回り巨大な筋肉の塊——ルミナヴォレン大戦士。真紅の毛皮に覆われた彼の腕は木の幹のように太く、その尻尾は地面を叩けば穴が開くほどの重量感を持っていた。

まさしく「化け物」である彼が槍を地面に叩きつけると、轟音と共に土煙が舞い上がり、前列の戦士たちがビクリと縮こまった。


「パンテラだろうが、リノケロスだろうが、我らルミナヴォレンに敵う者はいない!まさか我らの威光を信じぬ不届き者はおらんだろうな!?」


大戦士の怒号が草原に響き渡るが、その言葉に戦士たちは顔を見合わせた。

リガルオンの威光があった頃──ルミナヴォレンという部族は今の大声とは打って変わって小さな声で強き者に媚びへつらっていた。

そして最近はフォクシアラには何度も負けてきた癖に、いきなり何を大口叩いているのか——そんな想いが戦士たちの心を過ぎるが、誰も口にしようとはしない。

……ルミナヴォレンは、確かに強い。だがその強さの最大の理由は——


「おっと」


ルミナヴォレンの大戦士が突然、前方を見据えた。彼の口元にはにやりとした笑みが浮かんでいる。

その視線の先には、相手の軍勢から前に出ている三つの姿があった。漆黒の尻尾を持つパンテラ族長、鋭い角を持つリノケロス族長、そして——なぜか、長い耳を持つウサギの少年。


「がはは……!また獣人の矜持というやつか!いつになったら頭を使った戦い方を覚えるんだ?まったく、この大草原は一本気な馬鹿ばかりでやりやすくて助かるぜ!」


大戦士の声には嘲りと共に、どこか高揚感が混じっていた。


──獣人の軍勢同士の戦いは、基本的には最初は部族の名乗り、そして自身の名乗りから始まる。

あえて最初に族長が前に出て、身を晒し、自らの勇気と強さを示す……それが開戦時の暗黙の了解であった。

草原の風がそよぎ、丘の上に立つ三人の姿が夕陽に照らされて輝いている。勇敢な姿はまさしく戦士の理想像だった。

しかし……。


「さぁ、弓で穿て!流儀も戒律も戦いに必要なし!知恵を使えぬ馬鹿どもは、淘汰されるのが草原の新たな掟だ!」


ルミナヴォレンの大戦士の声が、冷酷な命令として響き渡った。

ルミナヴォレンが強い理由。それは、獣人の流儀を無視した、卑劣な戦い方を厭わないことだった。

リガルオンの統治が消えた後の草原では、ルミナヴォレンこそが最も早く獣人の誇りを捨て、勝利のためなら手段を選ばない「新たな強さ」を体現していたのだ。

その言葉と共に、本隊のルミナヴォレン弓兵は、嬉々として弓を引いていくが……。


「ちっ……撃ちたくはないが……」

「命令だ、やるしかねぇよ……」


前列にいる他部族の戦士たちは、不満げに唸りながらも弓を引く。

彼らの目には恥辱の色が浮かんでいたが、身の安全を確保するためには、心にある獣人の誇りを踏みにじるしかなかった。


「はは、名乗りだの、矜持だのと言いながら、矢に撃たれて死ぬがいい!頭を使うことを知らぬ愚か者どもが!」


大戦士の言葉は草原に轟き、その手が高々と掲げられた。


「俺はパンテラ族長、ゼゼアラ!ルミナヴォレンよ、いざ尋常に勝負を」


草原の風が彼の黒い髪を撫で、金色の瞳が太陽の光を受けて煌めいていた。その姿勢からは獣人としての誇りが滲み出ていた。


「アタイはリノケロス族長、イルデラ!この鋭き角に誓って、怯まぬ心を持つ勇敢な戦士はかかってこい!」


彼女の轟く声は大草原を揺るがし、その巨躯は太陽の光を遮るほどだった。イルデラの灰色の髪が風に舞い、大きな斧を肩に担いだ姿は圧倒的な威圧感を放っている。

前列にいる戦士たちは、戦士としての誇りを体現するような二人の大族長に、思わず息を呑んだ。


「あれが、パンテラとリノケロスの族長か……」

「すげぇ……噂以上の覇気だ……!」


なんという勇気、なんという戦士の鑑──。

彼らの心には、ルミナヴォレンへの忠誠よりも、目の前の二人への敬意が湧き上がっていた。


「ぼ、僕は……」


そして、その間にいる小さなウサギの少年が震える声で名乗りを上げようとした、その時だった。


「撃てぇーっ!!!」


ルミナヴォレンの大戦士の声が、高らかに響き渡った。

次の瞬間、ルミナヴォレンの軍勢から凄まじい数の矢が放たれた。無数の矢が空を覆い尽くし、太陽の光を一瞬奪うほどの濃密な影が丘の上の三人に迫っていく。


「!!」


風を切り裂く矢の音だけが草原に響き、ルミナヴォレンの戦士たちの冷酷な笑い声が風に乗って広がった。

空を覆い尽くすほどの矢の群れは、太陽の光を遮り、一瞬、丘の上に立つ三人の姿を暗闇に包み込んだ。

死の雨が降り注ぐ直前、ゼゼアラは瞳を細め、イルデラは斧を持った腕を低く構え、モルは震える耳と共に矢に埋め尽くされた空を見上げた。


その時だった。


「っ!?」


──矢が、止まった。


文字通り、何百、何千という矢が、空中で完全に静止していた。空気中に浮かぶように、全ての矢が一斉に動きを停止したのだ。

太陽の光を受けた矢尻が鈍く輝き、羽根の一枚一枚までもが風に揺れることなく、まるで時が止まったかのように宙に浮かんでいる。


「な……に……?」


あまりの異様な光景に、ルミナヴォレンの大戦士の手から槍が滑り落ちた。


「な、なんだありゃ……!?」

「矢が止まってやがる!?」


それは他の戦士たちも同様であった。彼らの中には弓を取り落とす者、膝をつく者、後ずさる者もいた。

そうして、混乱と静寂が支配し、止まった矢が空中で固定されている光景の中。


「──素晴らしい名乗りだね。知恵を持ってると思い込んでる、誇りも何もない卑怯者にはピッタリの、獣らしい振る舞いだ!」


青年の声が、大草原に響き渡った。


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