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第百二十四話

大空に放たれた無数の矢が、時が止まったかのように静止していた。

羽根の一枚一枚が風に揺れることもなく、宙に停滞した異様な光景に、この場にいる全員が息を呑んだ。


「な……に……?」


あまりの異様な光景に、ルミナヴォレンの大戦士の手から槍が滑り落ちた。

キツネたちは言葉を失い、口をぽかんと開けたまま。前列に控える他部族の戦士たちも膝をついたまま、ただ呆然と上空を見つめるばかり。


「うーん」


草原に異様な静寂が満ちる中、一人の黒髪の青年が風のように現れた。

──アドリアンである。アドリアンは爽やかな微笑みを湛え、モルとゼゼアラ、イルデラの前に悠然と歩み出る。


「モル族長の言う通り、キツネさんたちは名乗りなんてしなかったね。正直、もう少し原始的な戦法を期待してたんだ。槍でも投げてくるかと思ってたけど、まさか弓矢という文明の利器を扱える知能があるとは。感動的な進化だよ、本当に」


草原の風がアドリアンの言葉を運び、キツネの戦士たちの顔が恥辱と怒りに歪む。

モル少年は長い耳をピクリと動かし、宙に浮かぶ矢を見上げたまま、小さな声で言った。


「ルミナヴォレンは狡猾な大部族……そして、古いしきたりに縛られない部族でもあります。彼らにとって勝利こそが全て。だからこそ、手段を選ばず、こうして……」


その時であった。

イルデラが獣のような唸り声と共に、モルの言葉を遮った。


「古いしきたりに縛られない部族だぁ……?」


彼女の手に握られたドワーフ製の大斧が、太陽の光を受けて青白く煌めいた。


「あのな、モル坊。戦いの前の名乗りすら省いて矢を放つのを……『進化』だの『新しい考え』だのと小綺麗な言葉で飾るんじゃねぇ!今のはな、『卑怯』ってだけの話なんだからさぁ!」


イルデラの声が雷鳴のように響き渡り、その迫力に草がなびき、丘の土が震えた。

リノケロス族長の言葉に、ゼゼアラも静かに頷いた。


「あぁ。古いしきたりに縛られないのではない。獣人としての名誉と誇りを忘れ、勝利のためなら恥も外聞もかなぐり捨てる——それは伝統を超えた進化ではなく、獣人の尊厳を踏みにじる行為に他ならない」


ゼゼアラの言葉は低く響き、そして彼の爪がゆっくりと伸びた。

鋭く尖った黒い爪が陽光を受けて残酷に煌めき、漆黒の影を地面に落としている。

そんな二人の族長から放たれる威圧感に、ルミナヴォレンの前列の戦士たちが震え上がった。

かつて圧制者として彼らを支配していたキツネの獣人たちさえも、尻尾をぴたりと地面に付け、耳を完全に伏せる姿勢を取っていた。

大部族の族長たちの放つ威圧感は、草原の嵐よりも凄まじく、見つめられるだけで戦意が削がれていく。


そんな緊張に満ちた空気の中──アドリアンはふっと表情を緩め、顎に人差し指を当てた。

考え込むような、しかし確かなからかいを孕んだ仕草で、彼は口を開いた。


「まぁまぁお二人さん。そんなに怒らないで。キツネさんたちだって、『進化』してるだけじゃないか。古い因習に縛られず、勝利のためなら手段を選ばないなんて……実に人間らしい発想で面白いよな。理想よりも結果、矜持よりも勝利を重んじる……うん、実に理に適ってる!」


アドリアンの軽やかな皮肉に、イルデラとゼゼアラは訝しげな視線を送った。彼らの眼差しには困惑と共に、わずかな怒りの色が宿っている。

だが、二人が何かを言葉にする前に、アドリアンは続けた。


「でもね」


アドリアンの声色が一変した。爽やかさを装った表情が消え、代わりに冷徹な色が浮かび上がる。


「誇りを捨て、名誉を忘れ、卑劣な手段で『勝利』を得ようとするなら——その代償も覚悟しなきゃならない。力で勝とうとする者は、より大きな力の前に膝を屈する運命が待ち受けてるんだから!」


言葉が終わるか終わらないかのうちに、アドリアンの全身から凄まじい闘気と魔力が吹き荒れ始めた。

青白い光が彼の周りに渦巻き、その体から発せられる威圧感は、ルミナヴォレン全軍を凌駕するほどの力を秘めていた。草が大きく揺れ、空気が震え、丘さえも割れていく。


「!?」


次の瞬間、空中に浮かんでいた無数の矢が、まるで嵐に巻き込まれたかのように一斉に吹き飛んだ。軽い木の棒きれのように、宙に舞い、弧を描き、風に乗って舞い上がっていく。

矢は風に乗って舞い、やがて草原の大地へと還っていく……。

そんな幻想的な光景の中、ゼゼアラの口元に満足げな微笑みが浮かび、イルデラは腕を組んで豪快に笑い声を上げた。アドリアンはそんな二人の横で、モル少年に顔を向けた。


「さぁ!モル族長!卑怯なキツネさんたちの次の一手はなんだろうね?おそらく『とりあえず謝りましょう』とか『やっぱり矢じゃなくて花束だったんです』的な言い訳かな?閃きのある知恵者なら、もう少し創造的な言い訳を思いつくと思うんだけど」


アドリアンの軽妙な皮肉に、モル少年は長い耳をピクリと震わせた。彼は小さな体で立ち上がり、敵の軍勢に向けて視線を向けた。


「はい!次の行動は……ルミナヴォレンの大戦士が、自尊心を傷つけられた怒りから冷静な判断力を失い、勝ち目のない状況であるにも関わらず、自らの部下を犠牲にしてでも、『突撃!』の一声と共に戦士たちに突撃を命じる!」


モルの言葉が草原の風に乗って消えた、まさにその瞬間だった。


「き、貴様ら、何を怯えている!あんな手品に惑わされるな!突撃だ!突撃ぁ!!」


ルミナヴォレンの大戦士は、地面に落としていた槍を慌てて拾い上げ、震える腕でそれを握りしめた。

豪勇を誇る大戦士のキツネ耳は完全に伏せられ、尻尾は彼の意思とは裏腹に恐怖で小刻みに震えている。


「はは、こうもモル坊の言う通りだとなんだか恐ろしく感じるねぇ!」


イルデラが豪快に笑い、リノケロスの角を勇ましく輝かせた。

灰色の髪が風に舞う彼女の隣で、ゼゼアラも静かに頷いた。


「まったくだ。この少年の心は草原の獅子よりも勇敢だ……」


イルデラとゼゼアラは、同時に手を掲げた。

二人の族長が配下の戦士たちに向き直ると、緊張が辺りを包み込む。


「さぁ……我がリノケロスの戦士たちよ!大地を踏みしめ、角を高く掲げろ!卑怯な奴らに、草原最強の突進を誇るリノケロスの力、たっぷりと見せてやりな!」

「行くぞ、お前たち!漆黒の爪を研ぎ澄ませ、闇の大地を駆ける黒豹の威光を示せ!」


その瞬間、背後にいたリノケロスとパンテラの戦士たちが、凄まじい咆哮を響かせた。

大地そのものが震えるような声が草原を包み込み、鳥たちが驚いて空へと飛び立っていく。


「ぐわっははは!俺たちの突進は岩をも砕く!あのキツネどもの尻尾は潰れたサツマイモみたいにぺしゃんこにしてやるぜ!」


リノケロスの戦士たちが隊列を組み、生きた壁のように全身進軍する。

彼らの足音は太鼓のようにリズミカルに大地を打ち、歩みを進めるごとに空気が震える。重厚な鎧をまとい、角を前に突き出した彼らの姿は、まさに移動する要塞そのもの──。

そして、その最前列には一際巨躯を誇るリノケロスの大戦士たちが、斧を煌めかせて堂々と進む。太陽の光を受けた彼らの角は、凶器のような鋭さを備え、艶やかに輝いている。


「リノケロス戦士団が敵前衛を粉砕し次第、各隊は自在に散開し、敵後方を攪乱せよ!」


一方、パンテラの戦士たちは、まったく異なる印象で進軍していた。彼らは優雅に、しかし身体のあらゆる部分から静かな殺気を漂わせたまま敵へと迫る。

そしてパンテラの大戦士たちは、目にも見えない速度で部隊を率い、敵の周囲を駆け巡る。時に木々の間を跳躍し、時に草むらに潜んで姿を消す。

草原そのものが彼らに味方し、隠れ家を提供しているかのように──。


「ど、どうすんだよ!?あんなのに勝てるわけねぇ!俺たちゃルミナヴォレンにくっついただけで、こんな戦いなんて望んでねぇよ!」

「く、くそ……!どうしてこんなことに……!」


ルミナヴォレン配下の戦士たちは右往左往し、隊列が乱れ始めた。しかし時すでに遅し。

前方にはリノケロスの壁が立ちはだかり、周囲をパンテラの黒い影で囲まれている。最早逃げ場はどこにもない。

それに、もし戦線を離脱しようものなら、ルミナヴォレンの本隊から裏切り者として弓矢で撃たれるかもしれない。狭間に立たされた彼らの顔に、絶望の色が広がっていく。


その時だった。


「おのれ臆病者どもめぇ……!何をブルブル震えておる!」


最前列にいるルミナヴォレンの大戦士が、耳と尻尾、そして全身を震わせながら咆哮を上げた。

彼の目は血走り、牙は剥き出しになっている。しかし、その強がりの裏には、明らかな恐怖の色が見え隠れしていた。


(くそ、くそ……!役に立たん奴らだ……!ここは、弱そうなやつを血祭りにあげ、士気を上げるしかない!)


彼の瞳に映るのは、敵の強そうな戦士たちではなかった。戦場の後方に、指揮官のように立つ、小さなウサギの獣人——モル。

一見して華奢な身体付きの人間と幼いウサギの子供。リノケロスともパンテラとも比べられないほど弱そうな姿。

何故あのような子供が、軍勢の指揮をしているのかは、分からないが……今はそんなことはどうでもいい。

アレなら、一瞬で命を奪うことができる!


「この俺が手本を見せてやる!弱き者から先に倒していくのだ!草原の獣の掟は弱肉強食——まずは子供を殺し、そのあとでパンテラとリノケロスを相手にするッ!」


そして、ルミナヴォレンの大戦士の体がぐんっと沈み込んだ。筋肉隆々とした脚に力を込め、春の大地を蹴り上げる。


「!?」


ルミナヴォレンの大戦士の体が鮮やかな弧を描き、壁のようなリノケロスの隊列の遙か真上を飛び越える。

草原の風を切り裂き、ひと飛びにモルの元へと迫った。


「グルァァァァ!!!」


巨躯だというのに、キツネ本来の跳躍力を失っていない、大戦士の咆哮が草原の空に響き渡る。腐っても大戦士の称号を得た大部族の精鋭——。

その神速の突撃に、リノケロスもパンテラの戦士たちも一瞬反応が遅れた。モルの元への接近を許してしまう。

イルデラは「しまった!」と声を上げかけ、ゼゼアラの黒い影が疾風のように動き出そうとするが、もはや間に合わない。


(殺った──!)


大戦士の頭の中では、既に勝利の絵図が描かれていた。手にした槍が空気を裂き、そのままモルの未成熟な身体を一気に貫こうとする、その凄惨な光景が。

鋭い穂先が太陽の光を受けて凶々しく輝き、少年の体に向かって突き進む。

モルの瞳が恐怖と驚愕で大きく見開かれた、その瞬間──


「おっと」


がくん、と。勢いよく突進していた大戦士の身体が、壁にぶつかったかのように突然停止した。

──モルを守るように、割って入ったアドリアンが、人差し指一本を軽く伸ばし、槍の穂先を指先でとんと止めたのだ。


「──え?」


たった一本の指で突進を止められ、彼は唖然とした声を漏らす。その目は驚愕で見開かれ、口はぽかんと開いたままだった。

大草原に、一瞬の静寂が訪れた。風さえも息を呑み、草の揺れる音も消えたかのように、全てが凍りついた。

戦場の視線がすべてその場に集まり、風が止み、草の揺れさえ消えたような静寂が辺りを包む中、アドリアンはにっこりと微笑んだ。


「せっかく、あんなに派手に登場したんだからさ──他の人に気移りしないでくれないと嬉しいんだけど?」

「ぐっ……!?こ、この……!」


アドリアンは槍を片手で掴み、子供のおもちゃのように軽々と持ち上げる。大戦士がいくら力を込めても、アドリアンの手は万力のように微動だにしなかった。

そして、アドリアンは優雅に手首を回転させた。槍がぐるんと回り、それを握ったままの大戦士の体も空中で大きく弧を描き始める。


「お、おぉぉぉ!?」


ぐるぐると槍を掴んだまま回される大戦士の姿に、草原の獣人たちから驚愕の声が漏れた。

人間離れした力で、堂々たる筋肉の塊だった大戦士を、糸の切れた凧のようにもてあそんでいるその光景に、全員が呆然と見守っている。

次の瞬間、アドリアンは槍を思いきり地面に叩きつけた。大戦士の巨体が大地に激突し、土煙が舞い上がる。


「ぎゃっ──!?」


衝撃で大地が割れ、その反動で大戦士の身体が再び宙に浮かんだ。そして信じられないことに、その横にはすでにアドリアンが立っていた。

彼の姿は風のように移動し、大戦士の横で悠然と佇んでいる。


「ひとりで突撃なんて、まるで昔話に出てくる英雄みたいだね!キミの勇気には心から感動した……!でも、子供を狙うのはいただけないな。だから、これは『お仕置き』だ──!」


アドリアンの脚に凄まじい力が集中し始めた。周囲の空間が歪むほどの圧が彼の足に集中していくのを見て、大戦士の顔が青ざめた。

全身の毛がピンと逆立ち、筋肉の隆々とした大戦士の体が、幼子のように震え始める。


「ま、待て──!こ、降参!俺は降参するから助け──」


その言葉が完全に紡がれる前に、アドリアンの脚が弾かれるように伸びた。一瞬の閃光のような蹴りが、大戦士の腹部に恐ろしい威力で突き刺さる。


「うっぐあああああああ!?」


大戦士の口から悲鳴と共に空気が一気に押し出され、巨躯が風切り音を立てて草原の空を飛翔していく。

大きな赤い流れ星のように、彼の体は弧を描き、そのままルミナヴォレンの本隊へと突っ込んだ。


「ぎゃあ!?」

「な、なんだぁ!?」


轟音と共に大地が揺れ、土埃が大きく舞い上がる。突然の異物の飛来に、ルミナヴォレンの戦士たちから悲鳴が上がった。

彼の巨体が何人もの仲間を巻き込み、ドミノ倒しのように倒れていく様子が見て取れた。


「ふぅ」


一陣の風が静かに草原を吹き抜ける中、アドリアンは満足げに頷いた。

その顔には仕事を成し遂げた職人のような誇らしさが浮かんでいる。そして、穏やかな笑みと共に言った。


「ルミナヴォレンの族長殿には空からの特別便をお届けしたよ。感謝の手紙でも送られてくるかな。どう思う?我らが天才軍師モル族長」


アドリアンの軽やかな皮肉に、モルはハッと我に返ったように目を瞬かせた。

彼の長い耳がピクリと動き、キラキラとした純真な瞳でアドリアンを見上げる。


「多分、感謝の手紙は来ないと思います!今頃、ルミナヴォレンの族長は怒りとか焦りとか、いろんな感情が渦巻いてるはずです。でも一番強いのは、きっと恐怖の感情かな。だって自分の大戦士が、アドリアン様にあんなに簡単に投げ飛ばされるなんて……想像さえしてなかったでしょうから!」


皮肉を理解する枠組みをまだ持たない、純真なモル少年の言葉に、アドリアンは眩しい光を見るような表情を浮かべた。

彼の瞳には優しさと、どこか懐かしさのような感情が混ざり合っている。


「さて──それじゃあ、暴れようか!」

「──はい!」


戦場の喧騒の中、モルの元気な返事が戦場に響いた。


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