『枯れずの湖丘』。
かつて三つの大部族が血で血を洗う激戦を繰り広げたその場所は、今やみんな仲良し同盟の新たなる進軍拠点として、慌ただしくも活気に満ちた陣地へと姿を変えていた。
無数のテントが立ち並び、様々な獣人たちの鬨の声や武具のぶつかり合う音が、新たな戦いの予感を孕んで風に乗って運ばれてくる。
「うーん……?」
そんな喧騒から少し離れた、陣地全体を見渡せる小高い丘の上に、レフィーラは一人佇んでいた。
その手には、アドリアンから託された、手のひらほどの大きさの「綺麗な鉱石」が握られている。
「この石、なんだろう。アドリアンは何も教えてくれないし……。なんだか、持ってるだけでポカポカして、ちょっとだけ懐かしい感じがするけど……」
陽光を受けて淡く輝くその鉱石は、微かに温かく、生きているかのように不思議な力を内に秘めているように感じられる。
──この不思議な輝きを放つ鉱石は、アドリアンがセルペントスの隠れ里へと一人で向かう直前、彼女に託したものだった。
脳裏に蘇るのは、アドリアンが旅立つ時の、彼との会話……。
『レフィーラ。これから俺はメーラ姫と一緒に、あのジメジメしたセルペントスの隠れ里まで、泥んこ遊び……じゃなかった、平和的交渉をしにちょっと出かけてくるんだけどさ。その間、ここの指揮はキミに任せるから、よろしく頼むな!で、キミにはこれを渡しておくよ』
『え?なになに、この石?わぁ、なんだか綺麗!もしかしてアドリアン、ついに私に愛の告白!?これって、人間の国に伝わる伝説の婚約石だったりする!?』
『うーん……残念ながら、人間はエルフと同じく指輪を交換するのが一般的だったと思うから、多分違うかなぁ。まぁ、そのロマンチックな勘違いは、とりあえずそっと胸の奥にでもしまっておいてさ』
アドリアンは、いつもの悪戯っぽい笑みを消し、瞳に真摯な信頼の色を浮かべながら、レフィーラの手のひらにそっとその鉱石を乗せた。
『いいかい、レフィーラ。オオカミさんたちと戦っている時、もし万が一……何か、こう、言葉では上手く説明できないような『何か』が起こったら、迷わずこの石を天にでも掲げるんだ。そうすればきっと、この石がキミの大きな力になってくれるからね』
どこか煮え切らないアドリアンの言葉に、レフィーラは不思議そうに小首を傾げた。
『「何か」って、なにー?全然わかんなーい!』
『うーん、それが俺にもさっぱり分からなくてね。まぁ、大体こういう時の俺の勘って、外れたためしがないんだ。困ったことに』
『もう、何それ!アドリアンったら、いつもそうやって適当なことばっかり言うんだから!』
そんなこんなで、レフィーラに謎の鉱石を託し、アドリアンはさっさとメーラを連れて、セルペントスの隠れ里へと旅立ってしまったのだ。
「ちぇっ、私もアドリアンと一緒に行きたかったのに……私だって、たまにはアドリアンと二人っきりで冒険したいのに……」
レフィーラは、ぷうっと可愛らしく頬を膨らませ、少しだけ拗ねたように、手の中の鉱石を弄ぶ。
そうしてぶつぶつとアドリアンへの不満を呟きながら鉱石を眺めていた、まさにその時。背後から、一人のパンテラの戦士が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「レフィーラ様!大変長らくお待たせいたしました!各部族の族長様方が、これより軍議を開始したい、とのことでございます!つきましては、この軍の総指揮を任されし『将軍』であらせられるレフィーラ様にも、急ぎご参加いただきたく……」
その、やけに畏まった兵士の言葉に、レフィーラは「へ?」と間の抜けた声を上げ、きょとんと目を丸くした。
そして、次の瞬間には
「あ!そっか、軍議だった!いっけない、すっかり忘れてたよー!教えてくれてありがとね、クロヒョウさん!じゃ、また後でねー!」
言うが早いか、レフィーラは文字通り一陣の風のように、その場から駆け出していった。
その速さに、パンテラの戦士の尻尾の毛がぶわりと逆立つほどだった。あっという間に、彼女の金色のポニーテールは丘の向こうへと消えていく。
取り残された伝令のパンテラ戦士は、『将軍』の後ろ姿を、ただただ呆然と見送りながら、ぽつりと不安そうに呟いた。
「大丈夫なのだろうか……。あのような、少女で……いや、アドリアンどのがお選びになった方なのだ、きっと何か深遠なお考えが……あるに違いない……」
♢ ♢ ♢
『枯れずの湖丘』に設えられた、ひときわ大きな軍議の幕舎。その中央には巨大な羊皮紙の地図が広げられ、それを囲むように、同盟の主だった者たちが顔を突き合わせていた。
同盟の長であるモル少年が、その小さな体には不釣り合いな上座にちょこんと座り、真剣な表情で議論に耳を傾けている。その隣には、レフィーラが、どこか退屈そうに、佇んでいた。
「皆様!本日はお集まりいただき、ありがとうございます!早速ですが、対ヴォルガルド族の作戦会議を始めたいと思います!」
モル少年の声がテントに響く。
斥候からもたらされたヴォルガルド族の推定戦力、その陣地の地形、予想される進軍経路などが、次々と報告されていく。幕舎内は、獣人たちの熱気と、これから始まる大戦への緊張感で張り詰めていた。
一通りの報告が終わると、パンテラ族長ゼゼアラが、腕を組み、低い声で口火を切った。
「ふむ……ヴォルガルド単体の戦力で見るならば、数はこちらが上回っている。だが、油断はできん。奴らは地の利を活かした戦いを得意とするし、何より、未だ動向の掴めぬアクィラントの鷲どもが、空から急襲を仕掛けてくる可能性も捨てきれん。ここは慎重に事を進めるべきだろう」
ゼゼアラのその慎重な意見に、すかさずリノケロス族長イルデラが、その巨躯を揺らしながら噛みついた。
「なんだぁ、ゼゼアラ!アドリアンの奴がいねぇと、途端に弱気になるのか?セルペントスの蛇野郎どもは、今頃アドリアンが見張ってるはずだ。だったら、空飛ぶ鳥なんざ無視して、一気呵成に狼どもをねじ伏せるのが筋ってもんだろうが!」
イルデラのその、どこまでも好戦的な言葉に、幕舎内は一気に白熱する。
「うむ、イルデラどのの言う通りだ!狼なぞ、我ら熊の一撃で粉砕してくれるわ!」
「いやいや、ヴォルガルドの組織的な動きは侮れませぬぞ!ここは慎重に策を練り、まずは陽動で敵を誘き出すのが上策かと存じます!」
「そもそも、我らのような小部族は、大戦の先鋒など務まりませぬ。後方支援に徹するのが分相応というもの……」
喧々囂々。様々な部族の長たちが、それぞれの立場から、あるいは恐怖から、あるいは功名心から、次々と意見を叫び、軍議は収拾のつかない騒乱の様相を呈し始めていた。
「み、みなさん、どうか落ち着いてください!こ、これでは話し合いに……」
モル少年が、その小さな体から精一杯の声を張り上げ、白熱する族長たちの議論を抑えようとする。
しかし、一度火がついた獣人たちの激論は、そう簡単には収まりそうにない。
(アドリアン様がいらっしゃれば、きっと一言でこの場を……だ、駄目だ、そんなことを考えちゃ!アドリアン様は、僕を信頼してこの場を任せてくださったんだ!僕がしっかりしなくちゃ……)
モルはギュッと拳を握りしめ、もう一度声を張り上げようとした。まさに、その時だった。
「はいはーい!そこまで、そこまでー!みんな、ちょっと落ち着いてねー!」
場違いなほどに明るく、そしてよく通る甲高い声が、突如として幕舎内に響き渡った。
喧々囂々たる議論の熱気が、その声によって一瞬にして凍りついたかのように静まり返る。全ての獣人たちが、驚いたように一斉に声の主——レフィーラへと視線を向けた。
「レ、レフィーラさん……」
モルは、救いの女神でも現れたかのように、縋るような、そして期待に満ちた眼差しでレフィーラを見上げる。
しかし、幕舎内にいる多くの族長たちの目に宿っていたのは、期待の色ではなかった。むしろ、その逆——困惑と、あからさまな懐疑の色である。
「レフィーラ……どのでしたかな」
「ふーむ……。議論に口を挟んでほしくないのう」
無理もない。彼らにとって、レフィーラはあくまで「英雄アドリアンに付き従う、どこか暢気なエルフの少女」という認識でしかないのだ。
アドリアンが彼女をこの軍の総大将に指名したとはいえ、その真意を測りかねている者が大半で、面白くないと感じている者も少なくはなかった。彼女が一体どれほどの力量を持ち、どのような存在なのか、彼らのほとんどは何も知らされていないのである。
もちろん、彼女の規格外の力を目の当たりにしているゼゼアラと、イルデラは例外だ。彼らは、他の族長たちとは異なる、どこか意味ありげな表情で、これからレフィーラが何を言うのかを静かに見守っている。
「えーっと、みんないろんな意見があるみたいだけど、とりあえず、私が考えた作戦、聞いてもらってもいいかな?」
そう切り出したレフィーラの声色は、次の瞬間には鈴の音のように凛と響き渡り、瞳には先ほどまでの暢気さとはかけ離れた、鋭い知性の光が宿っていた。
「ゼゼアラさんの懸念されるアクィラントの脅威、そしてイルデラさんの主張されるヴォルガルドの迅速な攻勢、どちらも戦局を左右する重要な要素だよね~」
彼女は、広げられた地図の一点を、白魚のような指で的確に示しながら続ける。
「そこで提案!本隊は予定通りヴォルガルド本拠地へと進軍。ただし、その進軍に先立ち、パンテラ族の中から選抜した俊足の精鋭部隊を先行させるの!目的は敵本陣への強襲による初期混乱の惹起、及び敵主力部隊の防衛体制確立の遅延……」
「並行して、別働のパンテラ族斥候部隊をアクィラントの予想侵攻経路及び監視に適した高地に配置してね。敵の動向をリアルタイムで把握し、万が一の奇襲に対しては、本隊へ即座に警報を発する連絡体制を構築するよ!」
「先行部隊が敵陣に混乱を生じさせたタイミングで、リノケロス族の重装部隊が中央突破を敢行して……敵指揮系統の麻痺、及び敵戦力の分断を図って……」
レフィーラが、よどみない口調で語り終えた瞬間──幕舎内は、先ほどとはまた質の違う、絶対的な静寂に包まれた。
──ぽかん、と。
集まった獣人の族長たちが、皆一様に、開いた口が塞がらないといった表情で、目の前の少女を凝視している。
彼女の口から紡がれた言葉は、その可憐な外見からは想像もつかないほどに的確で、合理的で、そして何よりも、ヴォルガルドという強大な敵を打ち破るための具体的な戦術が、寸分の無駄もなく組み込まれていたからだ。
不意に。パチパチ、と。
パンテラ族長ゼゼアラと、リノケロス族長イルデラが、まるで示し合わせたかのように、同時に力強く手を打ち鳴らした。
その乾いた拍手の音が、緊張を解きほぐすかのように響き渡る。
「素晴らしい……実に素晴らしい作戦だ、レフィーラどの。これならば、ヴォルガルドの牙城を崩すことも不可能ではあるまい」
「へっ、大したもんだぜ、エルフの嬢ちゃん!流石は森林国が誇る『守護者』様だねぇ!」
イルデラの口から放たれた『守護者』という言葉。その一言が、それまで唖然としていた他の獣人族長たちの間に、新たな衝撃となって駆け巡った。
彼らは一様に目を見開き、信じられないといった表情でレフィーラを凝視する。
エルフの国、エルヴィニアにおける『守護者』——その称号は、遠く離れたこの大草原にまで、威光が轟き渡っていた。
それは、森の精霊にその力を認められ、エルフの国において武の極みに達した者に与えられる、栄誉ある称号。つまり、目の前のどこか暢気で快活なエルフの少女は、幾多の戦場を駆け抜け、勝利を掴み取ってきた歴戦の将軍であるということに他ならないのだ。
「レ、レフィーラさんは……『守護者』様だったのですね……」
ざわざわとしたどよめきが幕舎内を満たす中、モル少年が、キラキラとした純真な、そして尊敬に満ちた眼差しでレフィーラを見上げた。
そんなモルの視線に、レフィーラはいつもの悪戯っぽい、しかし今はどこか誇らしげな笑みを浮かべて頷いた。
「そんな大層な呼び名なんて、どうでもいいのよ、モル君」
そして、レフィーラは幕舎に集う全ての獣人たちを見渡し、高らかに宣言する──
「──今の私は、『みんな仲良し!平和大好き!』同盟のみんなを、勝利に導く将軍だからね!」
レフィーラの、どこまでも快活で、しかし揺るぎない自信に満ちた声が、静まり返った幕舎内に高らかに響き渡った。