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第百四十一話

大草原東部に広がるヴォルガルド族の陣地。その中心に設えられた、武骨で巨大な軍議の幕舎は、獣人たちの荒々しい熱気と戦の前の張り詰めた空気で満ちていた。

中央に置かれた大きな木の机には、大草原東部の地形が詳細に描かれた羊皮紙の地図が広げられている。


「……」


その地図を、獲物を狩るかのように鋭い隻眼で睨みつけている男こそ、ヴォルガルド族を統べる族長──隻眼のグレイファング。

彼の周りには、いずれも歴戦の強者であることを伺わせる屈強な部下の幹部たちが集まっている。

彼らの表情には一様に、出口の見えない三つ巴の戦況が膠着していることへの、隠しきれない苛立ちが滲み出ていた。


「くそっ、鷲どもも蛇どもも、こちらが動かねば一向に仕掛けてこぬ!いつまでこの無意味な睨み合いを続けるのだ!」

「本来なら空を飛ぶしか能のない鳥や、湿地に隠れることしか知らぬ蛇など、我らヴォルガルドの牙をもってすれば一蹴できるものを……!」

「その上、先日の『枯れずの湖丘』では、得体の知れない第四の勢力までしゃしゃり出てきたというではないか!」


好戦的な、しかしどこか短絡的な意見が飛び交う中、別の幹部が苦々しげに続けた。


「どうやら西部一帯を瞬く間に制圧したという新興部族らしいな……」

「報告によれば、あのパンテラや、リノケロス、更にはルミナヴォレンといった、名だたる大部族を次々と吸収し、今や我らに匹敵するほどの大勢力になっているらしい……!油断ならん相手だぞ!」


幕舎内にいる幹部たちの顔には、一様に怒りの色が浮かんでいた。

『枯れずの湖丘』で三つ巴の乱戦を繰り広げていた隙を突かれ、漁夫の利をさらうかのように現れ、ヴォルガルドを含む三部族の精鋭をまとめて蹴散らし、挙句の果てにはその重要拠点をまんまと占拠したというその謎の勢力──。

その暴挙に対し、彼らは煮え繰り返るような怒りを覚えていたのだ。


「新興部族なんぞに我らヴォルガルドが遅れを取るものか!今すぐ全軍で出陣し、奴らの陣地を蹂躙してくれるわ!」

「待て、早まるな!敵はパンテラやリノケロスを従える大軍勢だぞ!今、下手に動けば、背後を蛇や鷲どもに突かれかねん!」

「ではどうしろと言うのだ!このまま指を咥えて、奴らが勢力を拡大するのを黙って見ていろとでも言うのか!?」


幹部たちの間で、即時出撃を主張する強硬派と、慎重な対応を求める穏健派の意見が激しくぶつかり合い、幕舎内の議論は再びヒートアップしていく。

激しい議論が一区切りつき、幕舎内に一瞬の沈黙が流れた、その時であった。それまで黙っていた一人の若い幹部が、溜まりに溜まった不満をぶちまけるかのように叫んだ。


「そもそも、このような一大事に、大草原の中心たるリガルオンの獅子どもは、一体何をしておるのだ!」


その言葉が引き金となり、他の部下たちも堰を切ったように、現支配者であるリガルオン一族への侮蔑と嘲笑の言葉を口にし始めた。


「まことにな!我らがこうして血を流しておるというのに、王は玉座で昼寝でもしておるのか!」

「ふん、もはや獅子の時代は終わったのだ!これからの大草原は、我ら狼が支配する!軟弱な獅子など、猫以下よ!」


かつての主君を侮る言葉が、幹部の一人の口から放たれた、まさにその瞬間であった──。


「!?」


それまで地図を睨みつけ、黙って全ての会話を聞いていたグレイファングが、何の前触れもなく、無言のまま、その凄まじい剛腕を机に叩きつけた。

分厚い木の机は、その一撃に耐えきれず、轟音と共に粉々に砕け散る。

無数の木片が宙を舞い、先ほどまでの喧騒が嘘のように、幕舎内は一瞬にして凍てつくような静寂に包まれた。


やがてグレイファングは、燃えるような隻眼で幹部たちをゆっくりと見渡すと、地を這うような低い声で言い放った。


「……少し、風にあたってくる。お前たちは、軍議を続けていろ」


その一言だけを冷たく言い残すと、グレイファインは彼らに背を向け、明らかな怒りのオーラを放ちながら、一人幕舎の外へと出ていった。

取り残された幹部たちは、粉々になった机の残骸と、未だ幕舎内に漂う族長の凄まじい威圧感の中で、ただ互いの顔を困惑と恐怖の表情で見合わせるばかりだった。




♢   ♢   ♢




軍議の幕舎から離れた、陣地全体を見下ろせる崖の上。

吹き荒れる風が、グレイファングの屈強な身体を容赦なく打ち付ける。彼のピンと張られた狼の耳、そして長く力強い尻尾が、風を受けて激しく揺れていた。


「……」


グレイファングは物憂げな隻眼で、眼下に広がる自らの陣地と、向こうに広がるどこまでも続く大草原をただ静かに見つめていた。


「大草原は今や、戦乱の地と化した」


ポツリ、と。誰に聞かせるともなく、その言葉が彼の口から漏れた。


「……そう、思い描いた通りにな。力なき弱き者から順に命を落としていく、この凄惨な有様……。すべては俺の……いや、我らの望んだ通りに……」


その声には深い自嘲と、どうしようもない諦めの感情が宿っていた。


「覚悟は、していたはずだ。この道が、血と涙に塗れた修羅の道であることも……。だが、こうも……こうも、苦しいものなのか」


グレイファングは、ギリ、と音を立てんばかりに強く唇を噛み締め、その太く力強い狼の尻尾を、力なく地面へと垂れさせた。

彼の隻眼には戦火に追われ、家を焼かれ、そして命を落としていった、名もなき獣人たちの顔が、ありありと浮かんでいる。

そうしてグレイファングが一人、己の無力さと大草原の未来を憂いていた、まさにその時だった。


「いやはや、グレイファングさまぁ。この度の戦果、まことにお見事でございますよぉ」


そこへ、新参者の幹部である一人の獣人が、影が形を成したかのように、音もなく現れた。

彼はヴォルガルドの狼ではない。ハイエナのような、痩身と長い手足、そして常に浮かべている卑屈な笑み。

男は満面の笑みを浮かべ、忠実な犬のように、手を揉みながらグレイファングへと近づいてくる。


「ギエンか」


グレイファングは、崖下の景色から一度も視線を外すことなく、ただその名を呟いた。


「はい、いかにも!貴方さまの、それはもう、誰よりも忠実なる僕、ギエンにございます!」


媚びへつらうギエンのその言葉に、グレイファングはすっと目を細めた。

そして、呟くように言った。


「見事な戦果、か。先日の『枯れずの湖丘』では、我が精鋭たちが為す術もなく蹴散らされ、その大半が捕虜となった。それを『戦果』と呼ぶのであれば、まぁ、そうなのかもしれんな」


ようやく、グレイファングは崖下の景色からギエンへとその視線を移した。隻眼に宿る、剥き出しの殺気が、鋭い刃のようにギエンを射抜く。

並の獣人ならば、その視線を受けただけで腰を抜かし、無様に命乞いを始めるだろう。しかしギエンはその殺気を全身に浴びながらも、にこやかな笑みを一切崩さなかった。


「いえいえ、とんでもない決して皮肉などではございませぬよ、グレイファング様!心の底から、本当にそう思っているのです!」


ギエンは、舞台の上で踊る役者のように、飄々とした芝居がかった足取りでグレイファングの周りを動き回りながら、その目を爛々と輝かせ、熱っぽく語り始める。


「お分かりになりませぬか?『枯れずの湖丘』の一件は、大成功!これ以上ないほどの大成功だったのですよ!あの戦で、貴方様は、アクィラントとセルペントスを、消耗必至の泥沼の総力戦へと引きずり込むことに成功なされた!」


ギエンは、そこで一度言葉を切ると、さらに恍惚とした表情を浮かべ、両手を大きく広げた。


「そして、そこに現れた、あの得体の知れない新興勢力!あれこそが、この大いなる混沌の仕上げに相応しい、最高の予想外!パンテラやリノケロス、そしてルミナヴォレンをも吸収した大勢力……!かつて大草原を支配した大部族たちが、互いに疑心暗鬼に陥り、互いを食い潰し合う!ああ、素晴らしい!なんと素晴らしい光景でしょう!」


恍惚としたギエンの言葉に、グレイファングはギリ、と奥歯を強く噛み締め、その拳が血が滲むほどに固く握りしめられた。

今すぐ、目の前で踊るように戯言を弄するこのハイエナを、その喉笛を食い千切り、八つ裂きにしてやりたい——そんな獣の本能的な衝動が、彼の全身を駆け巡る。

しかし、そうは出来ない、あまりにも歯痒い事情があった。この男は、このギエンこそが、今やヴォルガルド部族の生命線ともいえる、大量の食料や物資を供給しているのだ。その供給源が一体どこなのか、皆目見当もつかないが……。


「グレイファング様、今こそ旧き時代の惰弱な支配者を打ち破り、この大草原の新たなる王として、貴方様が君臨する時が来たのです……!私、ギエンは、そのための支援は、決して、決して惜しみません!さぁ、もっともっと戦火を広げ、貴方様の武威を、大草原……いや、大陸全土に轟かせましょう!」


この男のおかげで、部族が飢えることなく、この長く苦しい戦いを続けられている——その厳然たる事実が、グレイファングの手足を縛り、その牙を鈍らせる。その言葉を、無下にはできない。

しかし……これから先、どれほどの血をこの大草原に流せばいいのか──。


(……くそっ)


覚悟はしていたはずだった。

だが、日に日に、その決意は揺らぎ、後悔という名の毒が、じわじわと彼の心を蝕んでいくのだ。


(レオニス様……俺は……俺は、この先、どうすれば……)


グレイファングが、誰にも届かぬ心の叫びを上げていた、まさにその時であった。

一人の伝令兵が、血相を変え、崖下から駆け上がってきた。


「ぞ、族長様!き、緊急のご報告が!」

「……?」


そのただならぬ様子に、物憂げな思考を中断し、伝令兵へと視線を向けた。

伝令兵は、ぜぇぜぇと荒い息を整えながらも、震える手で一本の矢文をグレイファングへと恭しく差し出した。

その矢に括り付けられた羊皮紙には、見慣れたパンテラ族の黒豹の紋章、そしてリノケロス族の犀の紋章、さらには、その他にも大小様々な、見たこともないような部族の紋章が、確かな意志を持って描かれていた。


「……これは」


その、あまりにも異様な紋章の羅列を前に、グレイファングの隻眼が、鋭い光を放った。


「これは……『枯れずの湖丘』を制圧した、新たな部族同盟からの……宣戦布告の矢文にございます!」


ゴウ、と一層強い風が吹き抜け、グレイファングの獣の耳を激しく揺らした。彼は宣戦布告の矢文を睨みつけたまま、その鋭い隻眼を、すっと細める。

そして、その背後で、ハイエナの獣人──ギエンが、誰にも気づかれることのないよう、その口元に、満足げな、そして残酷な笑みを、微かに浮かべていたのであった。


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