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第百四十二話


どこまでも広がる青い空、風に揺れる緑の草波。時折姿を見せる、のどかに草を食む小動物たち。

大草原はいつもと変わらぬ雄大で、そして平穏な顔を見せている。


だが、そんな大草原に新たな時代の到来を告げるかのような、力強い風が吹いていた。


母なる大地を踏みしめるのは、地平線の彼方まで続くかのような、うねり進む獣の河。

掲げられた多種多様な部族の旗が、空を埋め尽くさんばかりにはためいている。


「今回も俺らが最前列かぁ?」

「嬉しいねぇ、指揮官どのは俺らリノケロスをよく分かってるぜ」


先頭を征くのは、リノケロス族の重装歩兵部隊。彼らが一歩踏み出すごとに、大地が地響きを上げて呻き、その威容はさながら動く城塞だ。


「各員、警戒を怠るなよ」

「斥候からの報告はまだか?」


両翼には、対照的に音もなく駆けるパンテラ族の軽装兵たちが、黒い疾風となって草原を滑る。

そしてその後方には、かつて敵であった元ルミナヴォレンのキツネ族、屈強な熊の獣人、猪の獣人など、ありとあらゆる部族の戦士たちが一つの巨大な塊となり、進軍していた。


それは、まさに獣人の坩堝。

種族も、文化も、誇りも異なる者たちが、ただ一つの旗の下に集い、一つの目的のために進む、大軍勢。

そんな軍の中央では、指揮官格たちが言葉を交わしていた。


「ちぇっ、まだ着かねえのか!さっさとあの狼どもを蹴散らして、美味い酒が飲みてえってのによぉ!」


リノケロス族長イルデラが、肩に担いだ巨大な戦斧をがちゃりと鳴らし、退屈そうに息巻いた。

その好戦的な言葉に、隣を歩むパンテラ族長ゼゼアラが、冷静に、しかしどこか呆れたように窘める。


「焦るな、イルデラ。ヴォルガルドの組織力は侮れん。特に、族長グレイファングは、ただの腕自慢ではない。一筋縄ではいかん相手だ」

「グレイファング、か。……アタイさぁ、昔、大草原が平和な頃の族長招集とか、ああいう堅苦しいのは面倒臭くて一回も行ったことねぇんだよなぁ。おい、ゼゼアラ。お前は昔の族長会議で、グレイファングに会ったことあんだろ?どんな野郎なんだ?強いのか?」

「……お前、本気で言っているのか?それでよく今まで部族を率いてこられたものだ……。まぁいい、リノケロスの族長とは、代々そういうものだからな……」


ゼゼアラは、心底呆れたように深いため息をついた。

彼にとって、グレイファングはよく知る男だ。かつて、獅子王リガルオンの右腕として、誰よりも忠実に、そして勇猛に大草原の秩序を守っていた将軍……。


「奴は強いぞ。イルデラ、お前が思っている以上にな。ヴォルガルドの奴らは、大部族という立場に胡坐をかくこともない、本物の武人の集まりだ。……どこぞの、口先だけのキツネとは違ってな」


ゼゼアラは、そう言うと、侮蔑の色を隠そうともせず、軍列の後方でのろのろと歩いている、太ったキツネの獣人……元ルミナヴォレン族長フェンブレを見やった。


「ひぃ……ひぃ……こ、こんなに歩くのは、久しぶりだからもう疲れてきたぞぉ……。だ、誰か、水を……わしに水をくれぇ……」


でっぷりと肥え太った身体を揺らし、立派なはずの赤褐色の尻尾をだらりと垂らしながら歩くその様は、かつて大部族を率いていた族長の威厳など微塵も感じさせなかった。

ルミナヴォレンに勝利してからというもの、捕虜となった族長フェンブレの処遇は、この寄せ集めの同盟軍の中でも、特に頭の痛い問題となっていた。


その意見は実にシンプルに、真っ二つに割れていた。

曰く、『今まで散々好き勝手やってきた、あのデブキツネを今すぐ八つ裂きにして、その尻尾を旗にしろ!』という血気盛んな過激派と、『まぁ、確かにムカつく野郎だけど、殺すほどでもないから、適当に許してやったらどう?』という、ごく少数の穏健派である。


驚くべきことに、かつて彼の配下であったはずの元ルミナヴォレンのキツネたちでさえ、その大半が過激派に属していた。

「あんなのが族長だったから、我らは負けたのだ!」「そうだそうだ!生かしておけば、またロクなことにならん!いっそ、ここで……」などと、なんとも冷たい意見が飛び交う始末であった。

処刑やむなし、という空気が軍全体を支配しかけていた、まさにその時であった。


『うーん……でも、やっぱり殺しちゃうのは可哀そうじゃない?これからの働きぶりを見て、許してあげるかどうか決めるっていうのはどうかな?』


というレフィーラの、鶴の一声ならぬエルフの一声が、その場の空気を一変させた。

この決定に、フェンブレは「レフィーラ様ぁ!この御恩は一生忘れませぇん!」と、誰が見ても明らかな嘘泣きで、コンコンと泣きじゃくって感謝を示した。

そして、これからの働きぶりとやらを示すため、こうして罪を償うという名目で、半ば強制的に戦場へと引きずり出されている、という訳である。


「くそ、どうしてこのわしが、こんな目に遭わねばならんのだ……。そもそも、あの化け物みたいな人間がおらぬのに、本当にあのヴォルガルドに勝てるのか……?いざとなったら、わしだけさっさと逃げ出して……」


ぶつぶつと誰に聞かせるともなくそんな不穏な言葉を呟きながら、重い身体を引きずるようにして進軍するフェンブレの姿にゼゼアラは呆れて肩を竦めた。

全く反省の色も見えないこのキツネが、果たしてどれほど役に立つかは甚だ疑問だが……将軍が決めたことだ。口を挟むつもりはなかった。


「まぁ、要するに、グレイファングという男は獣人らしい誇りと、それに裏打ちされた確かな実力を持つ男だということだ」

「ふぅん。伊達に六大部族なんてものを、やってやしねぇってワケかい」


ゼゼアラとイルデラが、そんな会話を交わしている、まさにその時であった。

彼らのすぐ背後から、鈴を転がすような、快活な声が響いてくる。


「みんなー!調子はどうかなー?」


レフィーラがにこやかな笑顔でやってきた。その後ろには、ウサギの少年モルが付き従っている。


「皆さん!もうすぐ、ヴォルガルドの迎撃部隊の姿が見えてくるはずです!各隊、戦闘準備をお願いします!」


モルの小さな体からは想像もつかないほど凛とした声に、それまで雑談を交わしていた族長たちが、一斉に表情を引き締める。

そして、レフィーラはそんな彼らの様子に満足げに頷くと、高らかに叫んだ。


「焦らず、でも大胆に行こう!」


将軍として、そして総大将としての二人の言葉が、周囲にいる指揮官格の獣人族長たちの戦意をまとめ上げ、その場の空気を一気に引き締める。

軍議の幕舎で、彼女に懐疑的な視線を向けていた者たちは、もうこの場にはいない。

誰もが、このエルフの少女とウサギの少年が、アドリアンに後を託されるに足る、非凡な指導者であることを、既に理解していたのだ。


「ところでモル君。ヴォルガルドに放ったあの矢文……うー、アドリアンのと比べると、ちょっと迫力に欠けると思わない?もっと挑発して怒らせた方が良かったかなぁ」

「いえ……ヴォルガルド部族には挑発という行為は殆ど効果がないと思います。彼らは、一見猪突猛進に見えて冷静な戦士たちの集まりですから……」


二人がそんな相談をしていた、その時だった。

遥か前方、地平線の彼方から一筋の黒い疾風が土煙を上げながらこちらへと猛烈な速度で迫ってくる。

それは斥候として先行していたパンテラ族の兵士であった。彼は、軍勢の目前まで辿り着くと、レフィーラの前に跪く。


「レフィーラ将軍!ご報告します!遥か前方にヴォルガルドの迎撃部隊を確認!主力部隊、そして族長グレイファングの姿も!」


切迫した報告に、しかしレフィーラの顔に浮かんだのは、驚きや恐怖ではなかった。

瞳を爛々と輝かせ、口の端を吊り上げたその表情は、どこか楽しげな笑みであった。

そして、その自信に満ちた空気は、彼女の周囲にいる族長たちも同じであった。ゼゼアラは静かに頷き、イルデラは「けっ、ようやく来やがったか!」と好戦的に鼻を鳴らす。

唯一、その輪から外れているのは、顔を真っ青にし、「ひぃ、もう来たのか!?」と小刻みに震えているフェンブレだけだが……もはや、彼の存在を気にする者は誰もいない。


「よーしっ」


レフィーラは気合の籠った声を上げると、ふわり、と魔法で風を纏い、大地を蹴るかのようにして軽やかに飛翔した。

彼女の身体は宙を舞い、そのまま全軍が見渡せる丘の頂へと、音もなく降り立つ。

多種多様な獣人たちからなる大軍勢の視線が、一斉に、丘の上のただ一点——その金色の髪を風になびかせる、エルフの総大将へと注がれた。


そして、レフィーラの手が淡い、青白い光を放ち始めた。

光の粒子が、意思を持っているかのように彼女の手に収束し、エルフの国が誇る守護者の証——『精霊武器』……壮麗な長弓がその姿を現す。

レフィーラは、顕現した弓を天に高く掲げ、高らかに叫んだ。


「この『守護者』レフィーラが付いている限り、貴方たちに敗北はない!さぁ──全軍、戦闘準備!」


いつもの快活な声色とは全く異なる、凛とした、そして絶対的な自信に満ちた堂々たる叫び。

それに呼応するように、地平線を埋め尽くす多種多様な獣人たちの軍勢から、大地そのものを震わせるかのような、凄まじい雄叫びが轟き渡った。


「「「ウォォォォォォーーーーーッ!!!」」」


雄叫びを全身に受け、レフィーラの天真爛漫な少女の表情は、完全に消え失せていた。

その瞳に宿るのは、幾多の戦場を駆け抜け、勝利を掴み取ってきた、百戦錬磨の『武人』の顔。

大草原に吹く風が、彼女の金色の髪と、そして決意に満ちたその横顔を、優しく撫でていった。


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