大草原東部に広がる、名もなき平原。
乾いた風が草の穂を揺らし、これから始まるであろう戦いの前の束の間の静寂を運んでいた。
その平原の両端を埋め尽くすように、二つの巨大な軍勢が布陣し、互いに睨み合っている。
片や、エルフの守護者が率いる『みんな仲良し!平和大好き!』同盟軍。
黒豹の俊敏さ、犀の剛健さ、そして狐の狡猾さ——パンテラ、リノケロス、元ルミナヴォレンなど、多種多様な獣人たちが混在し、その様相は、熱と混沌を内包したまさに獣人の坩堝と呼ぶに相応しい。
掲げる旗も、装備も、戦い方も異なる者たちが、ただ一つの目的のために集った、前代未聞の連合軍である。
そして、もう片方は——。
銀色の耳と尻尾で統一され、一糸乱れぬ隊列を組む、精強なヴォルガルドの本隊。
兵士一人一人の双眸には、統率された殺意が宿り、軍勢が放つ威圧感は、寄せ集めの同盟軍とは比較にならないほどに、重く、そして冷徹。
同盟軍の誰もが、息を呑んだ。
目の前に布陣するヴォルガルドの本隊は、これまで戦ってきたどの部族とも、練度、放つ気の質が明らかに異質であったからだ。
「けっ……!威勢よく吠えもしねえで、気味が悪ぃ奴らだ。だが、骨のありそうな奴らじゃねえか!」
イルデラが、肩の戦斧を握り締めながら好戦的に呟く。
彼女の言う通り、そこにはリノケロスのような猛々しい雄叫びも、ルミナヴォレンのような狡猾な威嚇もない。
ただ整然と並ぶ、銀色の軍勢。風の音以外、物音一つ聞こえないその様は、かえって不気味なほどの静かな威圧感を放っていた。
「一糸乱れぬ統率、見事なものだ。兵士一人一人が、族長の目となり、牙となっている。……油断すれば、一瞬で食い破られるぞ」
ゼゼアラが、冷静に、しかし警戒を最大限に強めて分析する。
兵士一人一人の目には、恐怖や油断といった感情の色は一切ない。
その殺気立った瞳には命令一下で、一斉に獲物の喉笛を食い千切るべく、その瞬間を待ち続ける研ぎ澄まされた狩人の光だけが冷たく宿っていた。
「……」
そして、軍勢の戦闘に立つ隻眼の男──グレイファングの存在感は、まさに王者の風格そのものであった。
彼が動けば、軍が動く。彼が息をすれば、軍が息をする。ヴォルガルドの本隊とは、彼一人の意志が具現化した、巨大な一つの生き物であると、誰もが理解する。
「……うん。確かに、今までで一番の相手みたいだね。でも──」
同盟軍の総大将、レフィーラが不敵に微笑む。
「だからこそ、面白くなってきたじゃない!」
平原を支配していた、肌を刺すような静寂。
それを破ったのは、ヴォルガルド軍の先頭に立つ、隻眼の族長であった。
彼はたった一人、両軍の中間地点へとゆっくりと歩みを進める。その一挙手一投足に、数万の獣人たちの視線が集中した。
そして、彼は腕を組み、朗々と大平原の隅々まで響き渡るかのような、力強い声で名乗りを上げた。
「我こそは、大草原東部を統べるヴォルガルド族長、隻眼のグレイファング!我が牙は、大草原の秩序を乱す不埒者を食い千切るためにある!さぁ、名乗るがいい、混成軍の長たちよ!」
小細工など一切ない、敵将への敬意すら感じさせる堂々たる武人の名乗り。それを見た同盟軍の指揮官たちから、感嘆とも畏敬ともつかぬ声が漏れた。
グレイファングの、大地を震わすかのような力強い名乗りを受け、レフィーラは不敵な笑みを深々と浮かべると、一歩前へと進み出た。
手に、淡い光と共に壮麗なエルフの長弓が顕現する。彼女は、その弓を空へと向けると、その可憐な姿からは想像もつかないほどに、凛とした声で高らかに名乗りを上げた。
「私は『みんな仲良し!平和大好き!』同盟の将軍、エルフの守護者レフィーラ! この弓は力に溺れ、無益な争いを広げる愚か者を射抜くためにある!」
続いてイルデラが、はははと豪快に笑いながらレフィーラの横に並び立つ。彼女はその巨大な戦斧を小枝でも扱うかのように軽々と肩に担ぎ上げた。
「リノケロス族長、イルデラだ!てめえみてえな強ぇ奴と殺し合えるってんなら、どっちが正義かなんざ、アタイにゃあどうでもいい!さぁ、やり合おうぜ!」
そして、影のようにゼゼアラがその隣に姿を現す。その瞳は、遥か前方に堂々と立つグレイファングを静かに見据えている……。
「パンテラ族長、ゼゼアラ。俺の爪は、真の王が帰るべき場所を清めるためにある……」
どこか意味深な言葉に、グレイファングの隻眼が微かに細められる。
最後に小さなウサギの少年モルが、震える足を必死に叱咤し、レフィーラの隣まで駆け寄ると、精一杯の声を張り上げた。
「同盟の長、モル!僕たちは、大草原の争いを終わらせるために、ここに来ました!」
誇り高き大部族の長たちと、エルフの守護者、そして小さなウサギの少年。
あまりにも異質な指揮官たちの名乗りに、歴戦の猛者であるヴォルガルドの兵士たちの間に微かな動揺が走る。
ちなみに、その後方で、誰にも聞こえないほどの小声で、「……も、元ルミナヴォレン族長、フェンブレです……はい……」と、膝をガクガク震わせながら呟いていたキツネがいたことを、知る者は誰もいなかった。
エルフの守護者、二つの大部族の長、そして、小さなウサギの少年。
一人一人が確かな覇気を放つ指揮官たちの名乗りを聞き、グレイファングは隻眼を細めた。
彼の視線は最後に名乗りを上げたモル少年に注がれる。屈強な獣人たちの間で、その存在はあまりにも小さくか弱い。
しかしヴォルガルドの軍勢を前にして、少年は一歩も引かず、震えながらも確かに自らの名を叫んだ。
「……」
グレイファングは彼の姿に、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「見よ。あのような兎の幼子でさえ、我らを前に一歩も引かぬとは」
「然り。蛮勇ではなく、あれは……そう、真の勇気でしょう」
族長の言葉に、ヴォルガルドの戦士たちもまた、侮蔑ではなく、一種の畏敬の念をもって異質な敵の指揮官たちを見つめる。
風だけが吹き抜ける平原に、言葉には出さない、戦士としての静かな敬意が、両軍の間を流れた。
──だが、それも束の間。
次に訪れるのは、血で血を洗う死闘。互いにそれを理解している。
グレイファングが、拳を天に掲げた。
それとほぼ同時に、丘の上のレフィーラもまた、壮麗な精霊の弓を天に向けた。
二人の総大将の号令が、平原に轟いたのは、全くの同時であった。
「ヴォルガルドの戦士たちよ!我が牙の鋭さ、見せつけてやれ!」
「みんな、行くよ!この戦い、必ず勝つ!!」
その声が合図となり、二つの巨大な獣の波が、大地を揺るがす雄叫びと共に、互いに向かって殺到する。
大草原の覇権を賭けた、二つの巨大な軍勢の死闘が、今、始まる──
そして、そんな壮絶な光景を。
戦場から少し離れた、切り立った崖の上から、たった一人、見下ろしている者がいた。
「……素晴らしい!実に、実に素晴らしい光景です……!」
ハイエナの獣人、ギエンであった。
彼は、眼下で繰り広げられる同族同士の殺し合いを、極上の演劇でも鑑賞するかのように、目を恍惚と細め、不敵な笑みを漏らしていた。
「食い合え、食い合え、誇り高き獣どもよ。お前たちが流す血の一滴一滴が、我らが主の望む、新たなる時代の礎となるのだからな……」
邪悪な呟きは、戦場の喧騒にかき消され、誰の耳に届くこともなかった。
ただ、大草原の風だけが、その不吉な言葉を乗せて、血に染まる大地へと静かに吹き抜けていくだけであった。