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第百四十四話

アドリアンとメーラの二人は「里の視察」と称して、セルペントスの隠れ里を歩いていた。

湿った土と濃厚な植物の匂いが立ち込める里は、陽光が届きにくいこともあり、どこか薄暗く神秘的な雰囲気に包まれている。


そんな異質な二人を、里の蛇の獣人たちは、家の窓から、あるいは木々の陰から、息を殺して遠巻きに見つめている。

彼らの眼差しには、好奇心よりも、得体の知れない侵入者に対する、あからさまな警戒心が色濃く浮かんでいた。


「アド……私たち、なんだかすごく怖がられてるみたいだね……」


無数の視線に居心地の悪さを感じたのか、メーラが不安げにアドリアンの服の裾を掴みながら、小声で呟いた。

彼女の言葉に、アドリアンは肩を竦め、にこやかな笑みを浮かべて言った。


「そりゃそうさ。なんたって俺たちは、彼らから見たら、下半身が二つに不格好に割れてて、鱗もなければ、美しい尻尾すら生えていない、実に珍妙で可哀そうな種族なんだからね」


自分たちの世界に浸るかのような二人のやり取りを、里の蛇の獣人たちは依然として物陰から、警戒心と好奇の入り混じった眼差しで見つめ続けている。

そんな空気を肌で感じ取ったのか、アドリアンは足を止めると、肩を竦めた。


「でも、このままじゃ埒が明かないな。よし、メーラ姫。ここは一つ、英雄アドリアンが、ちょっぴり不思議な魔法で、彼らの固い鱗の下にある、柔らかな心に呼びかけてみるとしよう……」


そう言うと、アドリアンはパチン、と軽やかに指を鳴らした。

すると、どうだろう。

それまで凪いでいた湿地帯の空気が微かに動き、彼の足元に落ちていた色とりどりの落ち葉が、ふわり、ふわりと、意思を持ったかのように宙へと舞い上がり始めたのだ。


舞い上がった落ち葉は、アドリアンの指先の動きに合わせるかのように、渦を巻き、集まり、やがて一匹の、巨大な蛇の形を成していく。

葉でできたその蛇は本物さながらに、空中で優雅に身体をくねらせて踊り始めた。


「わぁ……!」


その、幻想的で、そしてどこか面白い光景に、メーラが感嘆の声を上げる。

最初は「何事か」と身構えていた里の獣人たちも、魔法に敵意がないことを悟ると、次第にその不思議な光景に見入っていた。


そして——。


「きゃっきゃっ!」

「みてー!おっきなヘビさん!」

「おどってるー!」


その光景に、真っ先に心を奪われたのは、里の子供たちであった。

大人たちの制止も聞かず、それまで家の陰に隠れていた蛇の子供たちが、目をキラキラと輝かせながら、次から次へと広場へと駆け出してくる。

あっという間に、アドリアンとメーラの周りは、小さな蛇の獣人たちによって完全に取り囲まれていた。


だが、その輪に加わろうとしない大人たちは、依然として物陰から、遠巻きに得体の知れない侵入者たちを値踏みするように見つめている。

その眼差しに浮かぶ警戒心は、未だ解けてはいない。そんな大人たちの硬い表情を見て、アドリアンはにやりと口の端を吊り上げた。


「さぁさぁ、お立ち会い!そこの奥様方も、旦那様方も、よーく見てらっしゃい、聞いてらっしゃい!」


どこかの街角で呼び込みでもするかのように、アドリアンは芝居がかった仕草で両手を広げ、朗々と声を張り上げた。

突然のパフォーマンスに、大人たちの視線が一斉に彼へと注がれる。


「皆さま、日々の暮らし、お疲れではございませんか? 長年のぬかるみでの生活で、腰や肩に痛みを抱えてはおりませんか?なんと!本日、この場におわす、我らが心優しき魔族の姫メーラ様は、奇跡の『治癒の魔法』の遣い手でございます!腰の痛いお爺さん蛇!肩こりが治らないお婆さん蛇!はたまた、最近旦那の帰りが遅いと嘆く奥様蛇の、心の痛みまで!このメーラ姫の奇跡の御手にかかれば、たちどころに癒されること、請け合いでございます!」

「えぇ!?わ、私、そんな大したことは……!」


突然、大勢の前でとんでもない万能薬のように紹介され、メーラは顔を真っ赤にして狼狽する。

確かに、アドリアンから分け与えられた力によって、彼女は高位の治癒魔法を使うことができる。しかし、心の痛みまで癒せるなどと、そんな大それたことはできるはずもなかった。

アドリアンの胡散臭い自信に満ちた謳い文句に、里の獣人たちはざわめき、半信半疑といった表情で顔を見合わせる。

そんな中、一人の腰の曲がった年老いた蛇の獣人が、藁にもすがるような思いでメーラの前に進み出た。


「あ、あのぅ……魔族の姫様……。わしのこの長年痛み続ける腰も……本当に、治るのでございますか……?」

「えっ、えっと……やってみます!」


メーラは戸惑いながらも、その切実な眼差しに応えようと、老人の腰にそっと手を当てる。彼女の小さな掌から、温かな緑色の光が溢れ出し、老人の身体を優しく包み込んでいった。

すると、老人の深く曲がっていた腰がミシミシと音を立てるかのように、伸びていくではないか。


「お……おお……!?痛みが……長年の痛みが、消えていく……!?腰が真っすぐに……!?」


老人は信じられないといった表情で何度も腰を捻り、そして天に向かって歓喜の声を上げた。

その奇跡を目の当たりにした他のセルペントスの民たちも、堰を切ったようにメーラの元へと殺到し始める。


「姫様、わしの肩も!」

「古傷が痛むんだぁ、頼む!」

「は、はい!順番に、順番にお願いします!」


メーラは、次から次へと押し寄せる患者たちに、嬉しい悲鳴を上げながらも、一人一人丁寧に治癒の魔法を施していく。

一方、その隣でアドリアンは、腕を組みながら里の奥様方らしき女性の一団に向かって、にこやかに微笑んでいた。


「さぁさぁ、そちらの美しい奥様蛇の皆さま。メーラ姫が身体の痛みを癒している間に、この私めが、皆さまの『心』の痛みを、それはもう綺麗さっぱりと癒してさしあげましょう。旦那様への愚痴、ご近所付き合いのストレス、何でもこの英雄がお聞きしますよ?」


その言葉に、最初は訝しげな表情を浮かべていた奥様方も、一人が意を決したように口火を切ると、次から次へと日頃の鬱憤をまくし立て始めた。


「聞いてよ!?うちの亭主ときたら、最近帰りが遅い上に、私の自慢の鱗の手入れにも気づいてくれないの!」

「分かるわ!男って、どうしてあんなに鈍感なのかしら!」


アドリアンは、そんな彼女たちの愚痴の一つ一つに、うんうんと真摯に頷きながら耳を傾け、そしてその軽やかな話術で、彼女たちのストレスを巧みに解消していく。


「いやはや、奥様。それは旦那様が、貴女のその輝く鱗の美しさに、毎日見とれてしまって、もはやそれが当たり前の光景になってしまっているだけですよ。罪な美しさというやつですね」

「あらまぁ!随分口が上手いわねぇ!鱗もないのに!」


こうして、メーラの奇跡の治癒と、アドリアンの巧みな話術によって、あれほど強固だった里の獣人たちの警戒心は、瞬く間に解きほぐされていった。

気づけばアドリアンとメーラの周りには、老いも若きも、男も女も関係なくたくさんの蛇の獣人たちが集まり、そこにはもはや敵意など微塵もない、活気と笑い声に満ちた輪が生まれているのであった。


活気と笑い声に満ちた輪の中心で、アドリアンは満足げに頷くと、ふと、何気ない口調で里の者たちに問いかけた。


「そういえばみんな。最近、この里で何か困ってることとか、妙なことって起きてない?どんな些細なことでもいいんだ。例えば、以前と比べて、何か『違う』こと、とか」


唐突な問いかけに、それまで賑やかだった獣人たちは一瞬きょとんとして、互いに顔を見合わせた。

しかしアドリアンの真剣な、それでいて安心させるような眼差しに、彼らはぽつりぽつりと、日頃感じていた小さな違和感を口にし始める。


「そういえば……最近、里の子供たちの顔色が、どうも優れないような……」

「うちの畑の作物も、なんだか元気がなくてのう。例年通り世話をしておるのじゃが……」

「最近、巨大化したカエルが水源地をうろついてて近づけないんだよね……。前はあんなのいなかったのに」


次々と語られる一見すると無関係な、しかしどこか生命の陰りを思わせる里の変化。

それらの言葉を聞き、アドリアンは「……なるほどね」と静かに呟いた。

その瞳がすっと細められ、いつもの悪戯っぽい光は消え、代わりに全てを見通すかのような鋭い光が宿っている。

その横顔に浮かぶ真剣な表情に、隣にいたメーラは「アド……?」と、不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。


しかし、メーラが何かを問いかける前に、アドリアンはぱあっと、再びいつもの満面の笑みを浮かべると、集まった里の者たちに向かって、高らかに叫ぶように言った。


「──では、皆さま方!この英雄アドリアンと、心優しきメーラ姫が、皆さまのお悩みを、この手で、全て綺麗さっぱりと解決してさしあげましょう!」




♢   ♢   ♢




「くそ……!あの人間……このわらわを、どこまで虚仮にすれば気が済むのじゃ……!」


セルペントスの女王ナーシャは、自らが住まう豪奢な屋敷の長い廊下を苛立ちを隠そうともせず、美しい虹色の尾で床を叩かんばかりの勢いで進んでいた。

その後ろを数人の侍女たちが、主の機嫌を損ねまいと息を殺して付き従っている。


ナーシャの不機嫌は、今や頂点に達していた。

それもこれも、数日前にこの隠れ里に土足で踏み込んできた、アドリアンと名乗るあのふてぶてしい人間のせいである。

朝、勝手に寝室に侵入してきては人の寝顔を覗き込み、あまつさえ、こちらの過去を知っているかのような意味不明な戯言で揶揄ってくる。

女王として生まれ、このセルペントスの頂点に君臨してきたこの自分が、これほどの屈辱を味わわされたことなど、いまだかつて一度もなかったのだ。


ナーシャが、込み上げてくる怒りと屈辱に、ギリ、と再び歯噛みした、まさにその時であった。

廊下の向こうから、一人のセルペントスの戦士が、血相を変えて転がるように駆け寄ってくる。


「な、ナーシャ様!た、大変でございます!」

「なんじゃ、騒々しい。今、わらわは機嫌が悪いんじゃ。後にせよ」

「里が……里が、今、大変な大騒ぎになっておりまして!」

「大騒ぎじゃと……?」


その言葉に、ナーシャの切れ長の瞳が、ピクリと反応した。彼女の脳裏に、最悪の予感がよぎる。

あの人間めが、この里で暴れているんじゃなかろうな?という思考が過るが……。


「……して、その原因は、あの人間か?」

「は、はい!まさしく!」


戦士のその言葉に、ナーシャは「やはりか!」と内心で毒づいた。

しかし、続けて放たれた戦士の言葉は、彼女の予想を遥か斜め上に裏切るものだった。


「民たちが……民たちがみな、里の広場に集まって、あの人間と魔族の姫を、神のように崇め奉り、歓声を上げておるのです!」

「は?」


ナーシャは、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

崇め奉る?歓声を上げる?あの、無礼千万で、ふてぶてしくて、人の心を土足で踏みにじる、化け物のような人間を……?


「な、なにを……あの人間は、一体、何をしおったのじゃ……?」


ナーシャは、すぐさま踵を返すと訳の分からない状況の真相を確かめるべく、長い尾を激しくくねらせながら大騒ぎの中心である里の広場へと急ぐのであった。


そうして、息を切らしながら里の広場へとたどり着いたナーシャ。

彼女の目に飛び込んできたのは、これまでの人生で一度も見たことのない、異様な光景であった。

そして広場の中央に鎮座する「とあるもの」を認めた瞬間、彼女は女王としての体面も忘れ、素っ頓狂な声を上げた。


「な、なんじゃありゃあ!?」


広場の中央に置かれていたのは——小山のような巨体を持つ巨大な化け物蛙──。

ぬめぬめとした深緑色の皮膚、いくつもの目、そして粘液を滴らせる口。

隠れ里の者たちが恐れ、決して近づかなかった怪物だ。里の獣人たちは、亡骸を前にして恐怖するどころか、祭りのようにわいわいと騒ぎ、歓声を上げていた。


「すごい!本当に倒しちまった!」

「これで安心して子供たちを外で遊ばせられるわ!」


そして、その巨大な化け物蛙の亡骸の前で、民衆ににこやかに手を振っているのは——。


「やぁみんな、そんなに喜んでくれて、英雄として嬉しい限りだよ!この大きなカエルくんは、俺たちが散歩のついでに、えいっ、て感じで倒しておいたから、これからは安心して、里の外で日向ぼっこでもしてくれよな!」


——アドリアンと、その隣で、どうしてこうなったのか分からないといった表情ではにかみながら小さく手を振り返すメーラであった。


「……」


民衆の歓声の輪の中心で、英雄として喝采を浴びるアドリアン。そんな光景を、ナーシャは広場の隅から、ただ唇を噛み締めながら見つめていた。


(こ、この人間……!武力でわらわを屈服させるのではなく、こうして民に恩を売り、外堀から埋めていくつもりか……!?)


アドリアンの真の狙いに気づいた瞬間、ナーシャはその背筋に、ぞくり、と氷のような戦慄が走るのを感じた。


「ぐ……ぐぬぬ……っ!」


そんな、行き場のない怒りと屈辱に身を震わせるナーシャの元へ、当の本人が何も気づいていないかのような、人の良い笑みを浮かべてやってきた。


「やぁ、女王様。里の散歩、実に有意義で楽しかったよ。ところで、あの大きなカエルくん、せっかくだから民衆に振る舞ってあげたらどうだい?きっと、女王様の人気も、今以上にうなぎ登りになると思うけどなぁ」


人を食ったような言葉に、ナーシャが「貴様に言われるまでもなく……!」と何かを言い返そうとした、まさにその時であった。


「ところでさ、女王様。散歩の途中で、一つ、面白いものを見つけたんだけど……」


そう言うと、アドリアンは、おもむろに懐から、手のひらに収まるほどの、小さな黒い石を取り出して見せた。

ナーシャは、最初は「何だそれは」と訝しげな視線を向けた。

しかし、その石が放つ、微かでありながらも、明らかに異質で、そして不吉な魔力の揺らぎをその目に捉えた瞬間——。


「……そ、それは」


ナーシャの切れ長の瞳が、ありえないものを見たかのように、驚愕にカッと見開かれた。

その反応を、アドリアンは全てを見透かすかのように、ただ静かに見据えていた。


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