芦谷さんとユウちゃんが何を話したのかは分からない。ただ、そのあとからユウちゃんはカフェタイムに顔を出すようになった。仕事が休みの昼にひとりでやってきては、芦谷さんが焼いたパンケーキのランチを食べて帰って行く。昔ながらの生地がしっかりとしたシンプルなパンケーキは、男性でも障りなく食べることができた。
ユウちゃんは長居せず帰って行く。芦谷さんも特別愛想よくすることもない。ふたりの関係性は、名づけようのないものだった。
*
秋風がもの寂しさを増したころ、常勤の遊佐さんが受け持っていた利用者をひとり引き継ぐことになった。金曜日の最後の枠だ。
「今日行くのは、千賀ひな子さん、21歳、女性。発達障害。ADHDです。約束を守れず、高校中退、就労経験なし。……厳密に言うと、アルバイトを3日で辞めてそれっきり」
これから引き継ぎの同行訪問をしてくれるのは、常勤で長い遊佐さんだ。ショートボブの黒髪で、やせ型の女性だ。歳はわたしよりいくつか上、おそらく伊倉さんと同世代で、経歴もずっと精神科一本と聞く。しかし伊倉さんとは対照的に、ドライな人だった。
「あと、たまに訪問時間にいないことがありますけど、電話して訪問キャンセルか確認すれば大丈夫なので」
「え? 不在もあるんですか」
淡々と申し送りされる内容だったが、聞き返さずにはいられない。
遊佐さんは表情を変えずに話をする。むしろわたしが驚いたのを見て、「ああ、伊倉さんの利用者さんを引き継いだんでしたもんね」と立ち止まるのだった。
「ちゃんと決まった時間に決まった場所にいられる人は、結構少ないものですよ」
遊佐さんは、
「大抵は駅前にいますけど、探しに行かなくていいので。本人が『帰る』って言えば、待っててもらう形で結構です」
日中は、飲屋街も静かだ。この辺りで遊べる場所は、確かに駅前の商業施設しかない。あとは電車に乗ってどこかに出ることになるだろう。
居場所がわかっているのに少々冷たい気もしたが、いない利用者を全員探しにはいけない。仕方なく、わたしは機械的にそのあとの手順を確認する。
「その場合、訪問時間はどうしたらいいですか」
「延長せず終了してください。次もありますし、本人にも再三説明済みなので大丈夫です」
分かりました、と答えながら、わたしは手元の小さいリングノートにメモを取った。
「……訪問時間が覚えられない、とかなんですか?」
ボールペンを走らせながら、わたしは遊佐さんにチラリと視線を向けた。
「いえ、覚えてますよ。毎週金曜日の16時。知的もないです。でもADHDなので、急に来た連絡に飛びついて出て行っちゃったり、午前中に外出していると、買い物に夢中になってそのまま時間までに帰ってこなかったりします。言ってしまえば、それだけです」
思わず、ああ、と合点がいった声が漏れる。
遊佐さんの言った「夢中」というキーワードは、発達特性を語るときによく使われる。「集中力がある」と言い換える人もいるが、現実の生活に影響を及ぼす特性は、どんなに明るい表現を用いても、困っている人を置いてけぼりにする。
「今日はどうでしょうね。では行きますか」
遊佐さんからの引き継ぎを終え、わたしたちは一緒に千賀さんの家へ向かった。
世間話を多くする方でない遊佐さんは、その道中も口数は多くなかった。
訪問看護師でクールな雰囲気の人はそう多くない。大抵は、ひとり訪問だ。それゆえ、その一対一の部屋の空気を動かせるコミュニケーションスキルが求められる。利用者を萎縮させても、相手のペースに飲まれすぎてもいけない。そうなると、必然的に
千賀さんは駅からそう遠くないアパートの2階に住んでいた。建物の目の前がひらけ、日当たりがいい。インターホンを鳴らすと、そのドアから出てきたのは、オン眉のアシンメトリーな前髪が印象的な女の子だった。
「はい」
ピアスの穴がいくつもある耳に髪をかける。玄関はビニール傘が何個もたてかかっている。
「訪問看護の遊佐です。今日は前に話していたもうひとりの職員も一緒ですよ。……お邪魔しますね」
玄関で長々紹介はされなかった。
わたしは目が合っている千賀さんにそっと会釈してから、家の敷居を跨いだ。
入室に拒否がないことに安心しながら、わたしは極力部屋をジロジロ見ないよう注意して進んだ。聞き馴染みのないバンドのグッズがカラーボックスの中に詰め込まれている。
遊佐さんがバイタルを測り終えると、薬の内服状況や日々の生活の様子を聞いた。
発達障害の場合、病気を併発していなければ、日常生活の困りごとの有無や内容を尋ね、解決に向けに向けて手段を一緒に検討する。千賀さんは一人暮らしのため、食事や休息の状況に特段注意が必要だった。
しかし、千賀さんは遊佐さんの話に頷く程度で、深く腹を割って話す気はないようだ。
訪問を終え、人通りのある道まで出てくると、遊佐さんは言った。
「わたし、あの人嫌いなんですよね」