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第117話:タブー

「千賀さんですか……?」

 わたしは恐る恐る、遊佐さんに尋ねる。愚痴をこぼすタイプには見えなかったからだ。

「そうですよ。しゃべったと思えば言い訳ばっかり。自分の立場がまるでわかってない。なにひとつまともにできないくせに」 

 冷めた瞳がより一層言葉尻を強くする。鬱憤が募っていたようで、いくらか不満を吐いたあと、遊佐さんは「障害者を嫌いって言うと、差別って騒がれるから余計に嫌いです」と言った。


 わたしは黙って聞いているしかできなかった。唇に力が入り、引きつりながら、目を無駄に見開いて大袈裟に何度か頷く。それを見て、遊佐さんは言った。

「瀬野さんは伊倉さんに教えられた人だから、こんなこと思わないですかね」

 確かに伊倉さんは奇特な明るさがあった。精神科、特に落ち込んでいる人や無口な人にあてがうにはこれ以上ない逸材だ。

 しかし普段の生活ではどうだろう。四六時中、聖人君子のように微笑んでいることはできない。プライベートがイメージできない。むしろ、目の前の遊佐さんの反応の方が自然な気がした。

「伊倉さんはすごい人です。わたしにあのキャラクターはまねできません」

 暗に、わたしは遊佐さん側であることをほのめかした。

 遊佐さんは、わたしを一瞥すると、今の吐露などなかったかのように別の話題を振った。

「精神科で働き続けられそうですか? そろそろ瀬野さんも自分の適性が分かってきたころじゃないですかね。精神科に向いてるか、向いていないか」

 勤め始めたころ、伊倉さんにも似たような話をされた。やはり精神科の異質さは、誰もが感じるところらしい。

「どうでしょう。まだ向き不向きは分かりません」

「もう少しで1年ですか。大抵、辞める人はそろそろ次の就職先を探し始める時期です」

 ふふ、と遊佐さんは小さく笑った。

「1年は早いですね。と言っても非常勤ですし、伊倉さんの訪問ルートにプラス何名かしか訪問していませんが……それに困難事例の割り振りはないですし」

 誰を頭に思い浮かべたのかは分からないが、遊佐さんはほんの少し表情を緩めた。


「ずっと精神科なんですよね、遊佐さんは」

 首からぶら下げるネームプレートの「遊佐葵」の文字は、掠れている。このクリニックの訪問看護師としては、1番の古株だ。

「辞めてやると思っているうちに、誰よりも長くなっていたパターンです。まなべ精神科クリニックに来たときも、もういまさら新しい科の勉強をするのが億劫だったからで」

 よくある話だ。長く働きたいとわざわざ公言するような人は、早々に折れてしまうか、働けない前提で入ってきた人が多い。それに今までとは違う科に移動・転職するのはパワーがいる。一から新卒のように学び直す必要があるからだ。身体の構造は同じでも、疾患が及ぼす影響、治療に使う多様な薬剤、そして療養上の注意点などは大きく変化する。

「精神科の知識、役に立たないでしょ」

 遊佐さんは、ため息交じりにそう切り出した。

「救急もそうですよ。道具が揃ってなければ、何にもなりませんし」

 医療機器の操作も挿管介助も、今の環境では、できたところで何にもならない。

「でも、『聴く』っていうことは、ここに入って学びました。傾聴とひとえに言っても、やはり意識しないと話は聴けないですし、聴こうともしないなって」

「随分忙しいところで働いていたんですね」

 これまでの関わりが本当に正しかったのか、たまに分からなくなる。救急外来ですべての患者の話を入念に聞くことが不可能だ。それでも、あのときの自分に、さらっと教科書で習った知識だけでなく精神科の経験があればと振り返ることは増えた。

「あ! やっぱり、精神科の知識は役に立っている気がします」

 遊佐さんは目を丸くしてこちらを見返した。「例えばどんな」と言う顔は、物珍しい生き物を見るようだった。

「えーっと……知人からの頼みで、引っ越しの荷造りの間、認知症のおばあさんの話し相手をしたり、あとは友人のお母さんがアル中で管理入院になったときの愚痴聞きをしたりすることがあって――」

 すると、遊佐さんは「それ、プライベートでやってるんですか」と話を遮った。そうだと告げると、尊敬と軽蔑が入り混じる瞳をわたしに向ける。

「得た知識を生かそうとして頑張りすぎると、続きませんよ」

「自分から買って出たわけじゃないんです。必要に駆られて……」

 わたしは冨佐江さんのときの話をした。お店のお客さんの親戚のおばあさんが、認知症で施設入居する際の手伝いだったと説明すると、なおさら複雑な視線は度合いを増した。

「認知症は落ち着いていればそれほど負担もないですが、アル中はちょっと……できれば避けたい。絶対に面倒で厄介じゃないですか」

 歩く足を止めず、遠くを見る。いつになく硬い苦笑いがわざとらしい。

「分かりますよ。そのときも『内縁の夫』とか出てきて……当の息子は、お母さんに隠れて飲酒されていたことで落ち込むし」

 ひどく不憫なアンの姿は、今でもすぐ思い出せる。自分を頼りにしていたはずの母に男がいたことも、何から何まで可哀そうだった。

 それを聞いた遊佐さんは言った。

「そうそう、それでこそアル中!」

 不謹慎な話だ。それでも、家族を巻き込むアル中の厄介さを間近で見てきた遊佐さんは、まだ話し足りない様子でいる。


「昔の利用者さんでいましたか」

 わたしはわざと話を聞きたいふりをした。

 すると遊佐さんは、以前受け持っていた困難事例の中に、アル中のDV加害者がいた話をしてくれた。奥さんとは裁判沙汰、調子の悪いときにそばにいてくれる人もおらず、訪問看護が導入後も隠れてお酒を飲む。

「信用を失っていくことが分かっているのに、辞められないんですよね」

 何度も信じては裏切られる。精神科の疾患では、よくあることだ。――嘘をついてしまう、見栄を張ってしまう、しないと約束したことを破ってしまう。

 それでも看護師は、患者・利用者を信用しないといけない。次は約束を守ってくれると信じるしかない。

「結局、地域で暮らせない人っていますよね。なんでもかんでも『地域に返そう』っていう今の流れは、結構危ういなと思います」

 ため息が聞こえた。見えている範囲も感じている苦労もまったく違う。ひとりで訪問をしていると気付けない話に、思わず聞き入った。


 ひとしきり話し終えたあと、遊佐さんはぽつりとつぶやいた。

「わたしはプライベートでまで関わりたくないです。できれば避けて暮らしたい」

 堂々と言えることではない。小声で話し始めたことが、状況を理解していることを表していた。

「分かりますよ。疲れますもん。それに遊佐さんが訪問しているような方たちなら、なおさら」

 遊佐さんは、伊倉さんとは正反対のタイプだ。共感できるところもあれば、疲弊している様子が心配になる場面もある。

 話を済ませ、「来週の訪問もよろしくお願いします」と退勤すると、わたしは次の勤務地・バーへ向かった。

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