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第119話:リバイバー

 遊佐さんは一瞬戸惑いの表情を見せたが、「いいですよ。帰ってもひとりなので」と言って話に乗ってきた。表情をさほど崩さないクールな雰囲気からは、お酒を飲むイメージが湧かない。ノンアルコールドリンクの在庫を思い浮かべながら、わたしは遊佐さんとお店へ向かった。


 お店のドアを開けると、出勤したばかりのアンがいた。カウンターに私物のバッグを置き、椅子に座ってスマホをいじっている。 お疲れさまです、とわたしに言いかけて、そのうしろの遊佐さんを見つけると、すっとスマホをバッグにしまう。

「あ。いらっしゃいませ、でしたね」

 アンは立ち上がると、遊佐さんに「こちらどうぞ」と言って、アンが座っていた席からふたつ隣に行ったカウンター席の椅子を引いた。

「お店はまだ準備中ですよね。すみません」

 そう言って軽く頭を下げる遊佐さんに、アンは「大丈夫ですよ。どうぞ」と言った。遊佐さんはアンに促されるまま席に着く。控えめに辺りを見渡すが、何を言うわけではなかった。

「エプロンだけ取ってくるので、ここでメニューでも見ていてください! お酒はこのあたり、ノンアルは後ろの方で……あ、ここです。軽食はこっち」

 わたしは彼女の目の前でメニュー表をめくる。遊佐さんの好みも知らないのに、ひとしきりおすすめの品々を伝えると、持っていたバッグを握って駆け足で奥の部屋に荷物を置きに向かう。部屋の入口に差し掛かったとき、何かにぶつかり、頭の上で「おわっ」と低い男性の声が聞こえた。

「なんだ瀬野ちゃんか。大丈夫?」

 ごめんごめん、と言うのは寝ぐせのついた香月さんだ。大きなあくびをして、わたしと入れ違うように部屋を出て行く。  アンが「おはようございます。もう準備始めますよ」と香月さんを急かした。うんうんとあいまいに頷きながら、香月さんはいくらか遅れて遊佐さんの存在に気づく。

「おわっ……びっくりした。……お姉さん、静かすぎるね」

 やっと目を覚ましたようで、香月さんは髪を整える素振りをしながらカウンター席に座る遊佐さんに微笑んだ。わたしはふたりの会話に聞き耳を立てながら、急いで荷物をしまい、エプロンを握って部屋から出た。


「瀬野ちゃんのお友だち?」

 さっと置いた厚紙のコースターの上に、ドリンクが置かれる。香月さんが「コープス・リバイバー #3です」と言った。そしてカウンター内に置いたままの緑色の瓶のリキュールをしまう。

「同じ職場の方です。今、引き継ぎの訪問で一緒に行ってもらっているタイミングで。今日は誘ってみました」

 わたしはカクテルに口を付けた遊佐さんを横目で見てた。

 フェルネット・ブランカは、苦みの強いハーブのリキュールだ。それを使った「コープス・リバイバー #3」は、リバイバーカクテルの内の一種で、お疲れの方がよく選ぶ。

「香月さんがすすめたんですか」

「まあね。苦いのイケるって言うから」

 そして後ろの作業台へ行く際に、香月さんはわたしの耳元に顔を寄せ、「瀬野ちゃんが連れてくるってことは、お疲れさんなんでしょ」と無邪気に言った。眉を無意識に動かしてしまう。

 ニヤリとして後方で調理し始めた香月さんに、アンが気づいた。

 お通しの小鉢を遊佐さんに提供しながら、アンは遊佐さんに「瀬野さん、そっちではどうですか」と笑いかける。目を細めるわざとらしい営業スマイルを見て、わたしはアンを睨んだ。

「やめてよ。普通だって」

「瀬野さんがちゃんと看護師さんしてるのか、聞いておこうと思いまして」

「普通も普通。……ったく、アンがいない日に連れてくればよかった」

 アンの肘のあたりを掴み、遊佐さんに変なことを聞かないよう彼を引き留める。さらりとした彼のシャツの感覚が指から伝わる。


「瀬野さんは優しいですよ。いつも親身で」


 わたしとアンの小競り合いを割るように、遊佐さんが堪えた。

「困っている人を放っておけない。……わたしとは違いますから」

 グラスに視線を落としたかと思えば、ふたたび手を伸ばし、口元に運ぶ。

「なに言ってるんですか。遊佐さんはシゴデキで、情だけじゃなく知識も経験もあるじゃないですか。わたしなんかまったく……」

 そうだ、遊佐さんはあのクリニックで一番多く困難事例を受け持っているナースだ。精神科での長い経験とそれから来る慣れは、どうしても周囲から頼られる。カンファレンスが多いわけでもない訪問看護で、相談ごとはどうしていたのだろうか。わたしのように、無理やりでも眞鍋院長を捕まえて話せていただろうか。


「遊佐ちゃんっていうのね。覚えとく、覚えとく。上の方の出身なの? この辺りじゃ珍しい名字」

 香月さんが勝手に自分の飲み物を作り始めた。お酒は、すでにマドラーで上下にかき混ぜる最終段階だ。

「そうです。ここよりは北で。田舎です」

「へえ、珍しい。この店はなぜか南の方のお客さんが多いんだよ」

 口数の少ない遊佐さん相手に、香月さんは卒ない会話でスモールトークをする。

 わたしは遊佐さんに、このお店のオーナー兼店長をしている香月さんと、同じバーテンダーのアンを紹介した。遊佐さんはまたふたりに軽く会釈する。

「看護師さん、ストレス溜まるんじゃない? 瀬野ちゃんの職場の人って言うし、一杯おごるから次頼んでね。おすすめはこれ、あとは――」

 香月さんは、カウンターを挟み、遊佐さんの目の前に開かれたままだったメニュー表をのぞき込んだ。いくつかのドリンクを指差す香月さんに、遊佐さんは言った。

「溜まりますよ、変な人ばっかりで。我が強くて、クレーマー。傷ついたとか言って、泣いたり怒ったり。そしてクリニックの受付に、被害者面で苦情を入れてくるんです」

 急に語り始めた遊佐さんを見て、香月さんとアンは目を微かに彷徨わせた。

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