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第122話:ポテト

「ちょっと待ってください」

 急な退職の話に、わたしは遊佐さんに食いついた。

「遊佐さんに辞められたら、大変ですよ! 今の残りの職員では回らないんじゃないですか。それにもいますし……」

 困難事例を多く任されていた遊佐さんには、遊佐さん以外の看護師では手に負えない人が多くいた。入室拒否のパターンもあれば、訪問は行けるが会話の収拾がつかないパターンもあった。

「眞鍋院長に話をすれば、すぐ求人が出ると思います。それで人は入るでしょう。それにこういうのは何とか回っていくものですから。それに太田さんには、常勤ならもう少し働いてほしいですし。いい機会です」

 同じく常勤の太田さんは、仕事の仕方が少々粗い。今のメンバーでは頼りになる人がぱっと思いつかない。

「負担が大きかったですよね。伊倉さんが妊娠した後は特に」

「まあ、おめでたいことですから」

 そう言って、また軽食に手を伸ばす。もぐもぐと、わざとらしく頬を膨らませる。それを見て、「俺も食べていい?」と香月さんが手を伸ばす。一口食べた後で、アンが香月さんの腕を引いた。

「だめですよ、お客さんのに。篠田さんじゃないんだから」

 叱られた香月さんは子どもっぽく拗ねた表情をしたかと思えば、香月さんは遊佐さんに声を変えた。

「看護師が嫌になったら、ここでバイトしてくれていいからね」

 そういうと、山積みのポテトをまた1本、遊佐さんのお皿から勝手にとった。 

「いえ、わたしは……」

「まあまあ。看護師さんもいいけど、疲れたらバイト程度で気楽に働いたら? いつでも戻れる資格なんだし。少しくらいバイト生活する貯金もあるんでしょ。良い気晴らしになるって」

 表情を曇らせながら話を聞く遊佐さんに、香月さんは「お待ちしてます」と言ってからこれ見よがしにポテトをかじった。


 ちょうどそのときお店のドアが開いて、一人客の常連さんが入ってきた。

 カウンター席に人が座っているのを見ると、男性は一番奥のテーブル席を指差した。香月さんが軽い世間話をしながら席に通す。

 常連の彼は静かに過ごせればどこでもいい。カバーをかけた文庫本を手に、ゆっくりとお酒を2杯飲むと帰ってゆく。香月さんもアンも、無駄に声をかけたりはしない。いくらもせず、またカウンターに話の中心は戻ってきた。


「わたしはどうしようかなあ」

 ぼんやりと、自分の行く末を案じる。頼りになる先輩が出来たというのに、またいなくなってしまう。

「瀬野さんも辞めたらいいじゃないですか」

「そんな簡単に言わないでよ」

 今まで気配をひそめていたアンがようやく口を開いた。奥のお客さんも、しばらく注文はない。この後の準備まで終わってしまい、すっかり手持ち無沙汰になっている。

 すると、遊佐さんが思い出したように言った。

「瀬野さんは問題なさそう。勉強熱心で、仕事にいつまでも前向き。プライベートでまで認知症のおばあさんの相手したりとか」

「それはたまたま……必要に駆られてといいますか」

 冨佐江さんの話だ。アンがちらりとこちらを見たが、気づかないふりをした。

「熱心すぎるのは時折心配ですけど、基本的に精神科向いてるんじゃないですか。瀬野さんはちゃんと病気の人を病気の人として見られるので」

「ん? それは当たり前のことではないんですか」

「なかなか難しいですよ。その人の生活の中に入って行けばいくほど」

「ああ。おそらくわたしは、まだ病院勤務のときの距離感でいる日もあるのかもしれません」

「いいことでもあります。何事もバランスですね。わたしはここまで来て、よく分からなくなりました」

 一瞬の沈黙のあと、遊佐さんはわたしにお礼をいった。「ちょっとすっきりしました」と話す彼女は、珍しくやわらかな笑顔を見せる。そして支払いを済ませると、早々にバーをあとにした。



 遊佐さんが帰ったあと、静かになったカウンターで香月さんとアンの視線が気になった。何か言いたげな瞳に、わたしは軽く睨み返した。

「なんですか、ふたりして」

 すると、香月さんは小馬鹿にするように、「うちで正社員になってもいいからね」とわたしを誘った。アンまで大きく頷いて笑っている。

「心配ご無用です!」

 ぷいっとそっぽを向き、わたしは洗われたばかりのグラスを拭いた。

「いやいや、心配するなは無理があるでしょ」

「本当に大丈夫だって」

 濡れた手をエプロンで拭く。エプロンに大きなしわが寄り、それを見てアンがまた気を立てる。

「てかもう、あっち辞めましょ。こんなストレスフルな仕事、わざわざやる必要ありますか」

 彼は今にも転職をすすめてくる勢いだ。はあ、とため息が漏れる。わたしが即決しないことにいらいらしている様子だ。

「あの方は向いてるって言ってましたけど、俺はそうは思いませんから!」

「なんで見てもないアンがそこまで言うのよ」

「忘れたんですか。前も言いましたけど――」

 アンは、いつかの豊洲公園での話を、香月さんの前でしようとした。

 わたしは、あああ、と両手を振って彼の言葉を遮った。

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