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第123話:揺れ動く

 家に帰り、午前1時に届きそうなころ、湯船にお湯を張る。お湯の流れ出る音を間近で聞きながら、今日の出来事を追いかける。


 向いてると言われたり、向いていないと言われたり、忙しない一日だった。

 実際にわたしが訪問する様子を見ている遊佐さんと、わたしの素の姿を知っている――と言っては大げさかもしれないが、気が強い、可愛げのない女であることを知るアン。どちらを信じたらいいかが決められない。


 そんなとき、お風呂場の外に置いていたスマホが鳴った。手だけを伸ばし、棚の上のスマホの液晶画面を見る。

――今週の日曜日、会えませんか。

 連絡をよこしたのはアンだった。

 わたしは一度スマホを元に戻し、足を拭いてお風呂場をあとにした。そしてふたたびスマホを握り、アンへの返事を考える。用事はなかったが、スマホをタップする指はすんなりと動かない。

 、それがわたしたちが出したひとつの答えだった。なんとも情けなく、滑稽な仲間。いつしかカフェ&バー「Toute La Journée」はわたしたちふたりにとってかけがえのない場所で、香月さんはオーナー以上の存在になった。

――空いてるよ。どうしたの?

 送信後、すぐにまた軽いトーンの着信音が鳴る。アンからの返事はすぐに来たが、ただちにスマホを見ることはためらわれた。

 知りたいような、知りたくないような、ティーンの恋愛ごっこのように心を動かす。彼がなんと言うかでこの先が変わってしまいそうな気がして、それを面倒に思ったり、どこか待ち望む心を隠したりした。いまだにアンとは、時折になる。

 誰も見ていないひとりの部屋で、そんなことをしては馬鹿らしく嘲笑しては、肩に入った力をすっとおろして気を取り直す。ひとりだけの部屋で誰にともなく平然を装い、手元のメッセージを確認した。


――よかった。実はその日、母が退院してくるんです。一緒に来てもらえませんか。


 スマホの画面を消すと、暗くなった画面にいびつな笑みの顔が映った。何を期待していたのかと、嘲笑する。

――なんでわたしが?

――家族の中で話すべきことでしょ。

 どれも書きかけては、消した。

 返事を考えているうちに、どこからか苛立ちが湧いてきたのだった。

 アンの返事に勝手にあれこれ予想し、どれも外れたのは自分のせいだ。それなのに、いかにもな理由を並べてアンの願いを断ろうとする。少しだけ面倒にすら感じてきた。


 結局わたしはアンに返事をしないまま、翌日のカフェタイムの勤務へ向かった。

 芦谷さんはいつも通りの愛想の無さ、そしてカフェタイムの込み具合も普段通り。何も変わったことがない日中が過ぎる。

 15時のティータイムも過ぎ、あとは片づけだけが残るころ、空いてきた店内を見てぼんやりと昨日の返事を考える。

 夕方には言わなければ。

 どのみち明日のバータイムで急かされることになる。

 ため息が自然と漏れる。手元の作業だけが着々と進み、いつもより捗った。


「じゃあ、また来週」

 カフェタイムの締め作業が終わると、芦谷さんが先にお店のドアに手をかけた。

「お疲れさまです」

 彼女の背中を見送ると、ドアを開けたところで「あら」と芦谷さんが驚く声が聞こえた。外に誰かいるようだ。

 わたしは芦谷さんがなかなかドアを閉めないことが気になって、カウンターを出てお店のドアの方向へ向かった。

「まったく、あなたも意外と面倒ねえ」

 芦谷さんの白ける声が聞こえ、「芦谷さん?」と聞きながら、ドアの向こうに顔を出した。


「「あ」」


 わたしの声と聞きなれた男声が重なる。

 お店の外にいたのは、なんとアンだった。少し伸びてきた襟足を束ねる。そう言えば最近、香月さんとヘアスタイルがどんどん似て来た。

「わざとらしいったら。しつこいと嫌われるわよって言ったところよ」

 芦谷さんはわたしにそう話すと、「じゃあね」と気怠そうに螺旋階段を上がっていった。


「返事、これからしようと思ってて……」

 嫌な間があいた。

「別にいいですよ。だって空いてるってもう聞いてますから」

 来てくれるでしょ? と当たり前のように聞く彼に、また昨晩の苛立ちがよみがえる。彼にとっては理不尽なことこの上ないのだが、当然のようにわたしが病院へ付き合ってくれると踏んでいる彼にかける同情はない。

「え? だめですか?」

「だめではないけど……」

 「そういうのはご家族で」と言いかけたところ、アンは「俺んちのは定義が曖昧なので。気にせず入ってきてもらって大丈夫ですよ」と軽口を叩いた。

 自分も意地が悪い。いつもみたいに引き受けてしまえばいいのに、ひとりでに心をかき混ぜられているのが面白くなかった。

「考えます」

「明後日ですよ」

「分かってる」

 わたしは逃げるように、「じゃあ夜頑張ってね」と言ってアンの横をすり抜けた。階段を行くわたしの足音が金属音に変わる。それは立ち止まらず、そそくさと1階の地上を目掛けて駆けていった。まるで息継ぎを求めるようだった。



 結局、その夜は連絡しなかった。アンからの催促もない。

 アンのお母さんの退院に付きそうとなれば、きっとあの社長さんも病院に来ているだろう。これからの話をするのかもしれない。……いや、もう方針は決まっている。アンのお母さんは社長さんの家で暮らす。お母さんがこれまで住んでいたアパートは、もう解約したのだろうか。

 半端に話を聞いていた。


 思い返せば、初めからわたしは半端だった。アンにお母さんのことを打ち明けられ、訪問看護を始めた手のくせに家に行くことを申し出た。案の定断られたが、今思えばそれでよかった。なにもできなかったと思う。相手は長らく受診にすら繋がれなかった人だ。ぽっと出のわたしに何かできるとは思えない。

 一方でアンは、むしろ頼ってくれるほどに心を開いてくれるようになった。無下にはできないという気持ちと、ただのお節介で首を突っ込んでいい話でないという事実の間で悩んだ。



 一日の訪問を終えクリニックに戻ると、受付の佐藤さんがわたしを呼び止めた。

「瀬野さん、このあとってすぐ次のアルバイト先へ向かわれますか」

 珍しくプライベートな話をする彼女に、わたしは「まだ時間はありますが」と答えた。

 手続きでもあっただろうか。彼女が呼び止めてくるということは、経費精算の不備かもしれない。今まで一度も指摘を受けたことはなかったが、他に思い当たることはない。

「よかったです。実は今、奥の部屋に伊倉さんが来ているんです」

「伊倉さんが?!」

 ほとんど脊髄反射的に、わたしは久しぶりに聞いた名前を繰り返していた。

 最後に会ったのはだいぶ前になる。妊娠後期に入るか入らないかというころ、急に仕事に来なくなった。切迫早産の危険性が出たのだ。管理入院となった伊倉さんは、予定より早めに産休入りし、そこで当時関係性を築いていく途中だった赤城さんへの単独訪問が早まってしまった。

「眞鍋院長と話をしています。話が始まる前にいた太田さんなどは会えたみたいですが、瀬野さんだけ入れ違いになってしまって……」

「いいですよ。着替えて待ってますから」

 身支度をしに奥へ引っ込む足取りは弾んでいた。

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