「あ、瀬野さん。そう言えば、以前植木さんのお母さんのことを眞鍋先生に報告していたようですけど」
クリニックの裏玄関に向かう手前で、常勤の太田さんがわたしを呼び止めた。
彼女はこれから訪問に行くところだった。ずっしりとした体形に、訪問バッグはやや小さく見える。
「はい、一度だけ。……それがどうかしましたか」
なにか面倒ごとになってしまっただろうか。
やたら小綺麗な髪や衣服、そしてどうしても目が行く派手なネイルに、先入観が混ざっていなかったとは言えない。わたしの早とちりだったかもしれない。苦い反省の記憶がよみがえる。
「えっとね。最近、お母さんもクリニックに来るようになったんですよ」
「えっ! どこか具合でも悪いんですか」
「違う違う。家族カウンセリングで。そうは言っても、植木さんの付き添いとしか思ってなさそうだけどね、当の本人は」
会話の内容をさして気にも留めず、太田さんは履いた靴の先をトントンと鳴らした。ナース服のふともも部分の生地が張っている。
「眞鍋先生ですか?」
「そう。まあ、時間はかかりそうですけど、今のところ本人も拒否なく継続して来てますからね。良い兆しなんじゃないですか」
訪問で外に出てしまう非常勤には、クリニック内のことは分からない。毎週の訪問担当から外れてからは、カルテも細かに目を通してはいなかった。
「よかったですね」
にっと笑う太田さんがこちらを見ている。どんな顔をしていいのか決められない。良い報告への嬉しさから、返す声が揺らいだ。
浅はかな自分に嫌気がさしても、あの日見たこと、考えたことが支援に繋がったと知れば少しは上を向くことができる。なんでも
職員玄関から出て行く太田さんの背中を、わたしはいつまでも見つめていた。
伊倉さんと会うことができたのは、それから15分ほど経ってからだった。
廊下で眞鍋院長と話す声が聞こえて、わたしは思わず休憩室から廊下を覗いた。
「あ、瀬野さん! お久しぶりです!」
すぐにわたしを見つけた伊倉さんは、眞鍋院長との話を済ませるとすぐにこちらへやってきた。
「ご無沙汰しております。ご出産、おめでとうございます」
わたしは伊倉さんが胸の前につけた抱っこ紐の中をちらりと見た。そこにはすやすやと眠る赤ちゃんがいた。まだ抱っこ紐の方が大きく、何かの弾みで抜け落ちてしまいそうな気さえした。
「かわいいですね」
寝ているところを起こさないように、わたしは小声で話を続けた。
もう新生児期はとっくに過ぎていたが、どこか痩せ気味の身体に、おててをグーにして母に身をよせえる。
「これでも大きくなった方なの。まだ半年はいかないけどね」
そう言って、伊倉さんは胸元で眠る赤ちゃんの頭を撫でた。柔らかい髪の毛の一本一本に艶が見える。黒いと思った髪は、よく見るとグレーに近かった。
「結局、36週で生まれて。早産だったから、
伊倉さんの言う「N」とは、「NICU」のことだ。NICU――新生児集中治療室は、早産児や異常児が入るユニットだ。そこで治療し、状態が安定すれば、おうちに帰ることができる。
「大変でしたね。退院できてよかったです」
もっと早く挨拶に来たかったんだけど、と言いかけて、伊倉さんは背筋を伸ばした。
「そう言えば瀬野さん、申し訳なかったです。急にお休みをいただくことになっちゃって」
深々と頭を下げ始めた伊倉さんに、わたしはあたふたとしては頭を上げるように言った。
「洋二さんのことは眞鍋院長から聞きました。長めの入院もあったみたいですけど、受け入れ拒否もされずにここまで来たって」
「……ええ、伊倉さんのお陰です」
「違うよ。でも、彼は一番気がかりだったの。本当にありがとう、瀬野さん!」
気恥ずかしくなり首を横に振っていると、抱っこ紐から垂れる小さな足がビクリと動いた。両足が一度に同じ動きをしたので、起きてしまったかと思ったがどうやら大丈夫そうだ。
「寝てるんですか」
「ええ、ここに来る前にミルク飲んできたところだから、しばらくは眠れるかな」
触ってもいいですか、と聞くと、伊倉さんはにっこりとうなずいた。さらさらとした白い肌は、いつまでも触っていたくなる。しかし同時に、すぐに手を放したくなってしまうほどの恐怖もあった。
「伊倉さんは、今はご体調どうなんですか」
「わたし? わたしは大丈夫。良くも悪くも産後って感じ。生活リズムが付かない赤ん坊の相手は、毎日寝不足だけど、可愛いし、何より見てて飽きないの。この前首がすわったと思ったら、ちょっと前に寝返りもできるようになって!」
自分の子どもの成長を嬉しそうに話す伊倉さんは、すっかりお母さんになっていたが、目を大きく見開いて当時の驚きをこれでもかと表現する姿は、以前の伊倉さんでもあった。
「そう言えば、わたしもできるようになったことがあるんです」
ん? と首をかしげる伊倉さんに、わたしは模型であれば針を刺せるようになったことを伝えた。赤ちゃんが起きてしまうのではないかというほどの声量で「すごい!」と言うと、わたしが想像していた何倍も全身で驚きを表し、そして一緒に喜んでくれた。
「人にはまだ……」
「でも、とっても大きな一歩!!」
向けられる裏表のないまっすぐな笑顔に、赤城さんたちの気持ちがほんの少しわかった気がした。
「きっと誰も、そのままではいられないのよね」
そう言って、伊倉さんはふたたび寝息を立てる小さな頭を撫でた。
寝返りできるようになったこの子は、きっとまた数か月もせずにマットの上を這いずり回るようになる。ベビーサークルの端でつかまり立ちをしたかと思えば、きっと自分の足で歩きだす。それがあと半年、一年以内の変化だ。
わたしはどうだろうか。初めてのことでもなく、昔はできていたことだ。この子みたいに、小さく生まれてもその事実を物ともせず歩めるだろうか。
「実は明日、知人の家族の退院に付きそうんです」
わたしは、明日のアンの件をそれとなく打ち明けた。
「知人? 珍しいね」
「わたしも同じように思っています」
はじめは邪推していたようだったが、乗り気でないわたしの顔を見て伊倉さんは眉間にしわを寄せた。
「本当は、まだ行くって返事をしていません。退院してくるのは知人のお母さんで、アル中で数か月間入院していました。迎えに来るのは、きっと内縁の夫? もう籍を入れたのかは知りませんが、わたし知人とは血のつながりがない人です。……そこに、わたし」
「わあ、……なんだかとっても複雑!」
もっともな反応だ。わたしが彼女の立場にいても、きっと似たような反応を返す。
「精神科を知っているから呼ばれた気がするんです。でも、何も知らないじゃないですか。知るわけがない。そんな状態で行く意味あるかなって」
アンのお母さんのカルテを見ることができるわけではない。それにもともと会ったこともない人だ。元気なときと比較することもできない。現在の経過も、アンの雑談経由でしか知らない。いくら看護師免許を持っていようとも、そんな状況では何もしてあげられない。
わたしが深いため息をつくと、伊倉さんはわたしの腕を優しく二度叩いた。
「ある、ある!」
「ありますか? 全然わかりませんよ」
「その
朗らかな声が、また人の背の中を押す。わたしは彼女がここに戻ってくることを、ずっと待っていた。