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第125話:怖がり?

 クリニックを後にし、駆け足でバーへ向かう。話し込んでいたらぎりぎりになってしまった。

 外はすっかり秋の夕方の風が吹いていた。伊倉さんは早ければ来年5月から職場復帰するようだ。保育園の空き状況によるらしく、眞鍋院長は保留のままアナウンスしていない。

 頑張ってね、と背中を押してくれた伊倉さんの言葉を思い返すと、「のために行ってあげればいい」と言っていたかもしれない。すぐに訂正できなかったことを少々悔やみながら、店の前の螺旋階段を駆け下りた。


「瀬野ちゃん、おはよ」

 ちょうどカウンターの入り口にいたのは、香月さんだ。そのすぐ後ろに、新品のふきんが入った大袋を持つアンが見えた。「お疲れさまです」と言った声は、どこか怒っていた。

「日曜日なんだけどね」

 簡単に香月さんへ挨拶を返し、すぐにアンの方へ向かった。

 彼は聞こえないふりをして、テーブル席にどさっと置いた大袋から業務用の白いふきんを6枚ほど取り出した。そしてどこを拭くものかを明らかにするため、白いふきんの右下に名前を書き始める。しかし一回では難しい。

「行くから」

「いいですよ、来てもらわなくて」

 ただの黒い油性ペンだ。けば立つふきんに文字は書きづらい。ペン先を、何度も同じところを行ったり来たりさせる。――テーブルを2枚、キッチン2枚、フロア2枚。枚数の割に時間がかかる。

 その間ずっと、アンはこちらに視線をよこすこともなく、動くペン先だけを見つめている。

「聞こえないふりした方がいい……?」

 わたしたちの間の空気は思いのほか悪かったようで、香月さんは冷やかしすらためらう様子を見せた。アンから、「別に」とだけ返される彼が不憫で、わたしは「すみません」とちょこんと頭を下げた。

「何が『すみません』なんですか?」

 どんな小さなことにも飛び火する。香月さんは、ハイハイ、とアンを半ば強引に丸め込んで、開店準備を進めた。


 機嫌を損ねるアンを見て、早く返事をしておけばよかったと後悔した。

 先延ばしは本当に良くないらしい。でも先ほどの伊倉さんの言葉に押されて、考えを固めることができたのだ。これ以上早くはならなかった。

「今日、赤ちゃんを見たんですよ。先輩看護師がクリニックに来ていて」

 わたしは世間話をするように、フロアのふたりに聞こえる声で話を始めた。

「へえ。どんくらいの? 歩く?」

「いや、はっきりは聞かなかったですけど、半年行ってないんです。早産だったのもあって、少し小さくて」

 手で赤ちゃんのサイズを長丸で表すと、香月さんはあまりの小ささに声が出さずに目を見開いた。

「しばらく見てないなあ。生まれたてなんて」

「わたしもですよ。普段は大人ばっかり。最近になって、寝返りをしたそうです」

 寝返りってなんだっけ、と香月さんが尋ねる。

 すっかり子ども、とりわけ乳児とは縁遠い暮らしをしているが、わたしはまだ大丈夫かもしれない。


 帰りまでにどうにかアンの機嫌を取ると、明日10時に駅から出る病院行きのバスに乗ることを聞き出した。バス停に集合だと、わたしから約束を取り付けた。

 気になる社長さんは車で来るらしい。帰り、アンのお母さんはその車に乗って帰る。わたしは、ひとりで行くアンについていく役目だった。



 日曜日の朝、空風にぽつぽつと粒の大きい雨が降った。

 駅のロータリーに病院行きのバスが停まる。あと5分で出発の時間になるというころ、奥の歩道をゆっくり歩く長身が見えた。

「アン! こっち」

 大きく手を振ると、アンはまだへそを曲げている。一応の「おはようございます」を言うと、あとはそっぽを向いていた。

 すでに来ているバスの前で傘を畳もうとしたとき、バスの車体が目に入った。どうやら病院所有のバスのようで、側面には大きく病院名の下に標榜科まで記載されている。

――精神科、心療内科、アルコール依存症専門治療、精神科デイケア

 わたしの隣に立つアンの表情は、バスを見てはさらに硬くなった。察するに余りある。

「ほら、濡れるよ」

 わざと彼を待たず、自分の傘を畳んだ。わたしが濡れているのを見れば、アンも急ぐと思った。案の定、アンは後に続いて傘を閉じたが、バスの座席に座ってからもしばらく言葉はなかった。

 バスの中に入ると、ヘルプマークをバッグに付けた人ばかりで、赤い札があちらこちらに目に付いた。

 通路を挟んでふたつ手前に、親子のように見える二人組の男性が座る。付き添いの高齢男性に連れられた、自分たちと同じ20~30代くらいの男性が独り言をずっと呟いている。何を言っているかは分からないが、付き添いの男性もその周囲の人も、バスの運転手さえも、それが平常であるように振る舞った。

 そのうちに、ちょうど真後ろの席に座っていた女性までもぶつぶつと言い始めた。

「またあいつだ」

「うるさい」

「頭おかしいんだよ」

 言われている本人の耳に届いているのかは定かでないが、きっと付き添いの高齢男性には聞こえている。この人が女性を相手にしたら、車内は一触即発だ。

 しかし、ほかの乗客にも聞こえているだろうが、誰も注意しないどころか見向きもしなかった。――アンだけが、あちこちから聞こえ続ける独語にいちいち反応しては瞬きを増やした。

「いる? いらない?」

 わたしは隣に座る彼の前に、手の平を広げて差し出した。

「別にビビッてるわけじゃないですよ」

「だといいけど」

 「これからなのに」と小言を言うと、アンは一層面白くない顔をしながらも、わたしの手を取った。

 大きな手は心なし冷えている。緊張しているのか、不安に思っているのか、彼の口から直接聞くことは叶わないとしても、この手の温度が教えてくれた。


 そのまま病院まで運ばれていったわたしたちは、病院敷地内のバス停で降ろされた。同じ病院の入口を目指し、全員がぞろぞろと歩いていく。その中には、先ほど気を立てていた女性もいて、案の定、独り言を言い続けていた男性の横を通り過ぎるときにわざわざ睨みながら一度振り返った。

「あれって病気だからですか? それとも性格がやばいだけ?」

 女性がさっさと玄関口に入って行ったのを確認すると、アンがそっとわたしに聞いてきた。

「病気なんじゃない? 全部かは知らないけど」

 なんにも分からない。病気や障害が性格を歪めたのか、もともとの性格がそうだったのかは、誰も明らかにしようがない。親族を見たときに何も感じたことがないわけではないが、こればかりはどうしようもない。それらしい仮説はいくらでも立てられるが、本人の中にしか答えはないからだ。

「そういうもん?」

「そういうもん!」

 アンの口調をまねて返すと、「精神科の患者、怖すぎ」と宙にぼやきながら、病院玄関を目指して歩き始めた。


 病棟につくと、すでにアンのお母さんは談話室に荷物をまとめて座っていた。その横では社長さんらしき男性が看護師と話をしている。

「再診日はこちらの紙に書いてありますから。検査も行うので、こちらの注意書きをよく読んでから当日はお越しください。では代家さん、お大事に」

 説明を終えた看護師は、近づくアンの存在に気づくことなく、すぐにナースステーションの方向へ消えた。

「もう病室に荷物はないの? これで全部?」

 数秒の入れ違いになるように、アンとわたしが談話室に辿り着いた。アンはろくにあいさつもせず、ぶっきらぼうに荷造り状況をお母さんへ聞く。

「ああ、着いたのね」

 これで全部、と答えたお母さんは、アンの後ろにいるわたしに気づくと、すぐアンに目配せをした。しかし、アンはわたしを紹介するでもなく、ただぼさっとその場に立ったままだ。

 一言ぐらい紹介してくれればいいのに、とこの男の社会性の無さを内心嘆きながら、わたしは困ったようにアンを見た。すると、その視線に気づいたアンのお母さんが、自らわたしに話しかけて来た。

「こんにちは」

 髪はちょうど肩に付くくらいの長さで、小綺麗に化粧をしている。口元がアンに似ていた。

「初めまして。アンくんと同じ職場でアルバイトをしている、瀬野と申します」

 初対面は、丁寧なくらいがちょうどいい。わたしはアンのお母さんと社長さんらしき男性に頭を下げる。男性が「……です」と言った気がしたが、声が頼りなく聞こえなかった。聞き返すこともはばかられる。わたしはもう一度、社長さんに笑いかけた。

「なんでこんなところに彼女連れてくるのよ。印象悪いじゃない」

 ああ、いえ、とわたしが訂正しようとしたところ、アンはお母さんの話には乗らずに、「これからどうすんの」と切り込んだ。

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