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第126話:アンの今後

「どうって。この前言った通りよ。籍を入れて、この人の家で暮らす。アパートの部屋はテキトーに片づけてもらえれば、それで大丈夫。大方の物は捨てちゃっていいから」

 おかしなことは何ひとつないと言ったような顔で、お母さんは言った。アンもなぜか表情ひとつ変えない。ぎょっとしていたのは、わたしと社長さんのふたりだけだ。ふとお互いに目が合い、通じ合ったような感覚に陥る。それは気のせいではなかったようで、すぐに社長さんはふたりの会話に割って入った。

「……それではの負担が大きすぎるよ」

 消え入りそうな張りのない声は、明るいアンのお母さんと正反対だ。

「そう? でもあの家に、もうあまり物は置いてないから」

「それでも家を引き払うというのは、大変なことだ」

 社長さんは、物腰の柔らかい人だった。思い付きで話すアンのお母さんを、やんわり止める。

 そしてアンを見ると、「引っ越しについては、こっちで手伝いを雇うから何も気にしないでいい」と告げた。お母さん自身はどちらでもいいようで、「それがいいかもね!」とけろっとしている。

「わかった。じゃあ、俺がやることはない。今度、福祉の人が家に来るって言ってた。住む方の家の住所は伝えておくから」

 淡々と話を進めるアンに、お母さんは「ありがとう、アン。とっても助かる!」と言った。彼のどこを見ているのだろうか。屈託のない笑顔は、まるで少女のようだった。


 アンのお母さんに変わり、社長さんが医者に言われた今後の話をアンに伝えた。

「これからは院内デイケアを利用しながら、治療をすすめていくようだ。通う手段や家での生活のことは任せてもらって大丈夫だから。……その、きみはお母さんのことを気にせず、ゆっくりしてほしい」

 言葉を選ぶ社長さんの気持ちは痛いほど伝わる。ただ、そんな言い方では――

「分かりました。母をよろしくお願いします」

 アンは、きわめて事務的に返事をした。形式ばった言葉は、ちゃんと彼の盾になっているだろうか。自分は用無しだと思い込んではいないだろうか。

 うかつには話しかけられない。院内の談話室で、マイペースにバッグのファスナーを開けては中身を確認しているお母さんを見て焦燥が募る。

「デイケアってところで、いろいろやるみたい。お酒のことだけじゃないんだって。人付き合いとか、とにかくいろいろ」

 お母さんの言う「いろいろ」は、正しい。お酒をやめるためには、ただ断酒・禁酒だけすればいいわけではないからだ。生活を整え、対人スキルを磨くワークプログラムをあるはずだ。

「だからアン、今までごめんね」

 お母さんは、急にアンの手を取った。ぎゅっと握られているのは、先ほどまでわたしが握っていた左手だ。

「期待して待っててね」

 にっこりと微笑む彼女を、社長さんは何も言わずに後方から見守っている。そしてアンは、手を振り払うことなくゆっくりと一度頭を縦に振った。



 病院を出ると、すでに停まっていたバスに乗り込み、もと来た道をふたりで戻った。

 アンはずっと考えごとをしている。口数が少なく、揺られるバスの車内でずっと自分の手を握っていた。行きのことなど頭の片隅にもない様子で、流れていく窓の外をぼんやり見つめる。

 話しかけられないまま、駅のバス停に着いてしまった。次に彼が口を開いたのはバスを降りるときだった。「どうぞ」とわたしを先に行かせる。

 降車後、バスはまた次のバス停へと進み始めた。それを見送るアンの顔は、どこか吹っ切れたような清々しい。

「今日はありがとうございました。休みだって言うのに付き合ってもらって」

「いや、ただわたしは付いていっただけで……。病院に到着したときもすでに医者の話は終わっていたし、なんにもお役に立てず」

「いえ、助かりましたよ」

 なけなしの知識さえ、登場の幕はなかった。退院に同行すると言っても、話はアンとお母さんの間で、あるいはアンと社長さんの間ですべて完結し、わたしは雑談すらふたりとすることもなく、本当にただアンのそばにいただけだった。


 一緒にカフェで昼食をとり、これからのことを話した。

 お母さんのではなく、アンのこれからだ。取り留めもない会話を重ねる。注文していたクリームパスタは、いつまでも皿の中でくるくると回った。

「やっぱり、独立はいつも頭にあるんです」

 お母さんから離れて語るのは、やはりお店を独立する夢だった。時期を模索していると言う。

「これからは好きなように生きないと。社長さんも言ってたし」

「別にこれまでだって、言うほど……これからだって、多分変わりないですよ」

 カフェのテーブルを挟んで向かいに座るアンは、テーブルに肘をつきながら顎を触っている。面倒くさがっているわけではないが、まだすっかり前向きになることはできないようだった。

「なんで? 自由じゃない」

「まだ分かんないですよ。母もまたいつおかしくなるか。社長だって、あの人を抱えきれなくなって放り投げるかもしれない。俺と違って、社長はいつだって逃げられますから」

 悟ったように語る彼が話すことは、どれも確かなことだ。

 どうなるか、一切何も分からないという事実だけが、彼の前に大きく横たわっている。

「そのための福祉なの。相談できる先も頼れる福祉サービスも、これからもっともっと増えていく。医療との連携も。そしたら社長さんも、アンも、もちろんお母さん本人も、誰の暮らしも犠牲にしないような――」

「どうでしょう。そうだといいですけど、俺にはまだ綺麗ごとに聞こえます」

 遮られた話。自分でも、理想を話している自覚はあった。現実には家族の負担は底知れない。社長さんだって、付き合いが長いと言えど、いつ病気に嫌気がさすかは分からない。

「そうだよね。でも変わっていくの。変わらずにはいられないんだから」

 残された家族だけが面倒をみないといけないなんて、間違っている。そのためにやりたいことを諦めなければいけないなんて、あっていいはずがない。

 わたしはやっと自分のやりたいことを見つけられた気がした。

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