会計を済ませて外に出ると、「少し歩きたい」と言ったアンについて、帰る道と反対の方向に歩いた。いつの間にか雨は止んでいた。
「この前ね、シェイカー爆発させちゃったの」
「爆発?」
「勘違い……というか、わたしがレシピをよく理解していなくて、炭酸水をシェイカーに入れちゃったの」
香月さんは材料を書いた紙をくれたが、わたしはどれをシェイカーで混ぜ、どれをグラスで混ぜるのかをまったくわかっていなかった。――思い切り振ったシェイカーを開けるそのときまで。
「初心者がよくやるやつですね」
「そう。落ち着いて考えればやっちゃだめだって分かるのに」
先ほどまでの空気とは打って変わって、話が色づく。馬鹿らしいエピソードを笑い合える今が、わたしの好きな時間だった。
ふと、ビルの一階にはいるブティックに目が行った。
まじまじ見ると、軒先に貼られたポスターにどことなく見覚えがある。黒い長髪に生えそろった前髪からのぞく可愛らしい女の子、その横でボブヘアーのクールな瞳の女の子がカメラを持ち、ふたりは対になるように座っている。
「あ! あの子たちだ!」
驚いてわたしの方を見たアンに、わたしはポスターの方向を指差した。
「覚えてない? リリユリ。カフェタイムに来てくれた女の子たち。SNSでインフルエンサーがどうのって」
ああ、と言ったアンは覚えているのか怪しかったが、わたしはお店の前まで寄って、ポスターを細目で見つめた。「XXXアンバサダー」と右下に小さく書いてある。
「この子たちがたまたま来てくれて、お店の、特にカフェタイムの風向きが結構変わったよね」
あの後も、彼女たちは何度かカフェに来てくれた。ひっそりと、壁に立てかけられたコルクボードにふざけたメッセージを残していく。気づいている彼女たちのファンはほとんどいない。
ポスターに見惚れていると、コートにパラパラと何か当たる感覚があった。雪だ。
バッグから折り畳み傘を出そうとすると、すでにアンが手持ちの傘をパッと広げ、わたしを迎え入れた。
「瀬野さんが入ったことが、お店にとって一番の転機です」
手を引かれるまま、同じ傘に収まる。雪はすぐに降り始めた。白い粉雪が風に吹かれて目の前をいくつも横切る。
「あと少しで1年になるかな」
「そんなものですか。なんだか2~3年、もっといるような気がします」
アンが着るブルーグレーのロングコートに真っ白な雪が乗っている。季節の移り変わりを吐く息で感じているふりをしながら、右手の温度を確かめた。変に意識してしまったせいか、手に力が入った。アンがその強張りに気づいて、わたしを一瞥する。
「瀬野さんは変わらないです。お店に来たときから」
意識の向く先を変えるように、アンがわたしの名前を呼んだ。
「そうかな? 一番変わった気がしてた」
知らないことも多かった。初めての場所、初めましての人たち。これまでの常識がまるで通じない、独自の世界をいくつも見た。以前は、今日のバス車内のアンみたいに、生じた出来事に対していちいちぎょっと身構えていた。それも今では一歩引いたところから辺りを見渡すことができる。誰よりも変わった。原型などないのではと思うほどに。
「恐れ知らずっていうか、ガンガン行くのは初めからじゃないですか。本質ってそう変わるものでもないように思います。その周囲を巻き込んでいくパワーに、俺も香月さんも、あのおばさんも、みんな引っ張られてきたんです」
やけに改まって話すので、気恥ずかしくなってまた傘の外に視線を逃がした。わたしにどんなパワーがあるというのだろうか。考えの足りない無鉄砲な力でも、お店の役に立てただろうか。
「できないことが増えただけだと思ってた」
よかったあ、と大きめにつぶやいた。間延びした声は、きっと周囲にも聞こえている。しかしうっすらと地面が化粧をし始め、誰もそれどころではない。
「何度も言ってますけど、針が刺せないからってなんなんですか。そんなの、看護師辞めたら困る場面なんて二度とないってのに」
アンはこの話をするとき、必ずむくれている。自分の考えが絶対的に合っていると踏んでいるのだ。彼には、わたしがいつまでもくだらないことに固執しているように見えているだろう。
自分だって、ぽいっと手放してしまえたらと思わないわけではない。いっそのこと、アンの言う通りに辞めてしまえばいいのだ。そうすれば、針刺しなんて非日常的なスキルを求められることもない。でも、今では少しずつ希望も見え始めた。余計に手放すのが惜しい。
「そんな簡単に言わないでって。それに、辞めたところでほかに何もできないんだよ。この年まで看護師しかしてこなかったんだから」
「でもバーもカフェもできたじゃないですか」
「それはただのアルバイトだったからで。なんの責任も負ってないもの。材料の発注はしても、お金周りのことはすべて香月さんがやってくれるし。夜は夜で、シェイカーが振れるわけでもない。……また炭酸水を入れて振っちゃうかも」
空いている手を揺らして、おちゃらけて見せた。頼りなく揺れる手に、アンは口角を緩めた。
「振ればいいじゃないですか」
「え?」
「何度かやれば覚えるでしょ。炭酸振っちゃだめなことくらい」
「うん、まあ……」
何度試みても、彼の話術に丸め込まれてしまう。
商店街の端が見えてきた。駅から、もう随分歩いた。そろそろ戻ろうと言おうとしたところで、何か言いたげなアンと目が合った。
「俺は、思い切りのいい、危なっかしい瀬野さんを観察してるのが好きなんです」
雪は、早めについた街灯に照らされ光を得た。きらきらと、滑り落ちる。「なにそれ」と聞いたわたしの頬に雪が付いた。
「大丈夫だと思うまで、いたらいいんですよ。刺せたって、刺せなくたって、ここでは関係ないんですから」
「お店の経営だって、やりたくなったら教えてください」
「どうしてアンに?」
理由を尋ねると、彼は「またそのときに」と言って微笑んだ。