年が明け、最初の月は慌ただしく過ぎた。2月に入り、やっと一息つくことができたが、寒さが最後の粘りを見せていた。
――今年の冬は寒いらしい。
誰かが言っていた。すでに秋ごろが恋しい。厳しい冬は、患者さんとも相性がすこぶる悪く、調子を崩す人が多かった。ばたばたと過ぎ、気づいたときには春がそこまで迫っていた。
最後の診察を終え、眞鍋先生がそそくさと診察室から出てきた。
「少し押してしまい、申し訳ありません。お待たせしました」
「いえ、こちらこそお忙しいところすみません……」
夕方、先生が手隙になった時間帯を狙って、わたしは針刺し練習に付き合ってもらっていた。
秋ごろまでは、ナースセンターをメインに針刺し練習をしていた。仕事が休みの週末、少なくとも2週に一度は通った。
あの女性スタッフが時折自分の腕を貸してくれたが、そのことがバレて彼女の仕事に不具合があってはいけない。
冬に入るころ、わたしは練習に付き合ってくれていた元看護師の女性スタッフに感謝を伝えた。そして、まだトラウマを克服できてはいないものの、一度、ナースセンターを卒業することにした。
以降、生身の人間を探している。
練習に付き合ってくれる、血管が生き生きとした人だ。
眞鍋先生はすぐに練習相手を名乗り出てくれたが、多忙な精神科医とタイミングを合わせるのは現実的にかなり厳しかった。結局、診療の合間や夕方の診療終了後の時間を15分だけいただくことで話はまとまった。
「ここは掃除が入りますから、応接室でやりましょう。注射台だけ持ってきますね」
針刺しボックスはすでに手にしていたわたしを見て、「先に行っていてください」と言い残し、眞鍋院長はふたたび診察室へ戻った。
そっと部屋のドアを開けるとどこか懐かしい。去年の春、ここで採用面接をした。
救急外来で培った技術を失くし、自負だけが不格好に飛び出ていた。今となっては自分のだめなところがよく分かる。以前の
すとんと、それはわたしの中に落ちて来た。
窓からは冬の寒空がのぞいていた。しかし、またすぐ次の春を迎えてしまうだろう。そのころには、針が刺せなくなってちょうど3年目になる。わたしは目の前のローテーブルに、翼状針やアルコール綿などが入った銀色のトレイを置いた。絶対に今日刺すのだと、自分に言い聞かせた。
ぎいぎいと注射台の足元が耳障りな音を立てて進む音がする。眞鍋院長は、注射台とともに応接室のドアを開けた。
「お待たせしています。よろしければ始めましょうか」
そう言うと、眞鍋院長は白衣をまくり上げ、腕を注射台に乗せた。高さを調節し、「さあどうぞ」と言わんばかりに自ら準備を済ませる。
「よろしくお願いします」
手袋をはめ、両手を握り合わせる。ぴたりと手袋がはまったのを確認すると、わたしはトレイから駆血帯を手にした。滑らないゴムは、巻くと次第に血管が浮き出る。わたしは穿刺部位を決めるため、眞鍋院長の腕とにらみ合った。
「……刺せたとき、どんな感じでしたか」
アルコール綿の封を切ったとき、眞鍋院長がわたしに話しかけた。
えっ? と聞き返したが、院長は柔和な表情を自身の腕に向けたまま、一緒になって穿刺部位を探している。こちらは見ず、ただ穏やかに、「ここですかねえ」と、今から針を突き立てられる場所を自ら提案する。
「どう、というと難しいですが……実は刺せたとき、特別なことは何もありませんでした。刺せずに帰っていた日と同じです。強いて言えば、勢い付けでしょうか。ナースセンターの方が元看護師で――」
わたしが印象深いナースセンターのスタッフの話を始めると、眞鍋院長は、「あ、模型に刺せたときの話でした」と言った。模型に刺せたときの記憶を忘れていたわけではないのに、どこか過小評価して頭の隅に追いやってしまっていた。
「ああ、すみません。そのときはナースセンターの方がいらっしゃる前で、ひとりで練習していました。でも、先ほどもお答えしたように、本当に何も。ただこれまで繰り返してきた手順を、特に意識せずやったくらいで」
「と言いますと」
「いつもの通りですよ。サージカルテープを切っておくとか、駆血帯を巻いて穿刺部位になりそうな部分をちょんちょんと触れてみるとか。なんにも珍しくない、昔なら目を瞑ってでもやることができていた手技です」
大袈裟に言ってしまったかと思ったが、眞鍋院長は、ふむふむと頷きながらわたしの話を聞いている。
何か引き出してくれるのではと、ひそかに期待してしまう。
しかし、せっかく得た人体での練習機会。針先に集中するよう自分に言い聞かせた。
刺せそうな部分を見つけては、アルコール綿で拭く。無防備な腕の内側は、青白い。失敗への恐怖が、いつもこのあたりからどんどん募ってくる。気持ちを落ち着かせるように、もう一度だけちょんと指で確かめては、またアルコール綿で拭いた。
「体調はどうでしたか。呼吸が浅くなったり、汗をかいたり、何か反応はあったのでしょうか」
これではまるで問診だ。長くなりそうな気配を感じ、わたしは一度、駆血帯の留め具を外した。
血液が戻ってゆく。さーっと引いていく色味の変化を眺めながら、院長に自身の状況を伝えた。できる限り正確に、早く針刺しがふたたびできるように。
「動悸がします。そして、耳のあたりがざわざわとし始めるんです。誰かが呼び掛けてくれても、たまに聞こえていないときもあります。ざわっというか、ぶわっというか、身体の感覚もどこか変で……でもまあ、そんなものだと思います。身体が大きく揺れるほどの違和感を覚えて、リズムもなんだかいつの間にかおかしくなりますが、失敗するときも、一度だけ成功したときも、似たり寄ったりの反応で、大きな差異は感じません」
何か違いがあればよかった。そうすれば、自分を信じて進むこともできるかもしれない。やれそうだ、という気持ちが、たとえ勘違いであっても湧いてくる方がいい。できそうにない中で、自信のないことをやり遂げることは難しい。
「そうですか。よかったです」
眞鍋院長は、いつもの調子でそう言った。
「いいことなんて、何もないですよ」
「いえ、分からないということは、刺してみないと分からないということです。一回一回の練習に意味があると、こんなに感じられることもないでしょう」
大真面目に説く彼に、愛想笑いもぎこちなくなる。
「案外、ポジティブなんですね」
あはは、と微笑む声が聞こえた。
院長が声を上げて笑うのは珍しい。独特の雰囲気を持つ、典型的な精神科医の彼は、誰かに自分の意見を言うような人ではなく、ただ受容的に話を聞いている。そこにポジティブやらネガティブやらと言ったイメージを持ち込む機会は今までなかった。
折に触れて、込み入った話をしてきたのに、わたしは院長のことをよく知らなかった。
「さて、ここからが本題です。実はもう、瀬野さんは刺せると思います」
マジシャンの種明かしのように、眞鍋院長は言った。
「針が刺せなくなって、もう少しで3年目になります。もうこのままかもしれない、と思わないわけでもないんです」
「自然な感情です。でも大丈夫。瀬野さんは、刺せなくてもいいと思える経験をいっぱいなさったのではないでしょうか」
確信を持った瞳がこちらを向いている。院長の言う「刺せなくてもいいと思える経験」とは、いったい何だろう。現状、刺せないままでも精神科の訪問看護で勤務することができたことか。それとも、カフェ&バー「Toute La Journée」という、看護師とは別の居場所を手に入れたことだろうか。――「看護師を辞めたら悩むこともない」と、事あるごとに退職をすすめてくる同僚の話はしてない。
「……刺せなくてもいい。でも、できれば刺せるようになりたい、と言ったところです」
「素直さは、瀬野さんの良いところです。ぜひ、そのお気持ちを持ったまま、今この瞬間のことだけを考えるようにして針を進めてみてください。模型だと思っても、人間だと思っても、どちらでも構いません」
こくりと頷いてから、わたしはふたたび院長の上腕に駆血帯を巻いた。血管の怒張は先ほどを変わりない。消毒をして、準備した針を持った。
「模型に針を刺すことができたとき、『これまで繰り返してきた手順を、特に意識せずやった』とおっしゃいましたね。もう必要なことはできています。ですから、大丈夫」
いつもより力強い言葉が、わたしの背中を押す。このクリニックでの経験も、お店でのアルバイトも、――アンのことも、すべてをお守りにして、わたしは針のキャップを外した。