微かに手先が震えていた。親指と人差し指でつまむように持った翼状針は、何秒かに一回、針先がぶれた。それでも、身体が覚えている。何年もしてきたことだ。子どもの細い血管だって、透析患者や抗がん剤治療中の方の見えづらい血管だって、最後には刺してきたのだ。どんな患者さんでも受け入れる救急にいた自負は、今ここで使うべきだ。
また、針先が大きく揺れた。手の震えは続いている。
じっとりと、何度も味わったひんやりとした汗がわたしを支配していた。
「吐いて、それから吸って」
眞鍋院長に促されるまま、深呼吸をする。大丈夫、まだ声は近くに聞こえている。
「大丈夫です」
唇を噛んでいた。
とっくにアルコール綿で拭いた場所は乾いている。
刺せると、信じてくれる人がいる。刺せなくても、大丈夫と言ってくれる人がいる。大丈夫。大丈夫……、そう自分に言い聞かせた。
眞鍋先生の柔らかな視線を感じながら、わたしは胸いっぱいに吸った空気を肺の中に閉じ込めた。針先の震えをいなし、生暖かい人の身体に針を突き立てた。
肉を貫く鈍い反動を過ぎると、ゴムをつつくようなこれまでと違う感覚があった。血管だ。針を立たせすぎないように注意しながら、わたしはこの針先の感覚を大事に、大事に、針を押し進める。
ぷつり。
突き破った感覚と同時に、針が進みすぎそうになった。はっとして、翼状針に繋がるルート内を見る。――赤い。血液が管の中にのぼる。
逆血の確認は、無事に血管内へ針が入ったことを意味する。
「できましたね」
にっこりと、今までで一番の微笑みで、眞鍋院長はわたしを祝福した。
手の震えはまた強くなった。達成感と、ただならぬ恐怖がまだそこにあった。
やっとの思いで入れた針をすぐに抜いては勿体ない気がして、使う用事もないのにはねをテープで固定した。思い出したようにばたつき始めたわたしを見て、院長はまた優しく微笑んだ。
*
「どうぞ」
休憩室から戻ってきた院長の手にはトレイがあった。ティーカップに入った紅茶と、院長お気に入りの小さなプリンが二人分並んでいる。 院長の労いセットは変わらない。
「さあ、遠慮なく。瀬野さんもあまり時間はないでしょうが」
時計を見ると、そろそろバーへ向かい始めなければいけない時間に差し掛かっていた。
わたしはお礼を言いながら、まず院長のテーブルの前にティーカップを置いた。遠慮し合いながら、やっとそれぞれが配置につく。院長が先に手を伸ばすのを待ったあと、わたしも紅茶をいただく。眞鍋院長の腕はまだまくられたままで、先ほど針を抜いたときに貼った絆創膏が見えた。
「瀬野さんがよろしければ、クリニックで常勤も可能ですよ」
自身のお気に入りである小さなプリンを、わたしにもくれる。そのふたを取りながら言った。
「次できるかは……」
「こういうことは大抵1回できたら、あとは続いて来てくれるものです」
すると、絆創膏が貼られていない方の腕を上げ、おもむろに衣服をまくり上げるまねをした。
「ご心配であれば、今は別の腕で2回目をやってみますか」
彼なりのジョークらしい。
わたしはそれをやんわりと断り、目の前のプリンに手を付けた。一口、また一口。スプーンが空になると、あからさまに糖分を求め、もう一度カップの中身をすくう。
クリニックで常勤をするということは、訪問がない時間はクリニックで働くということだ。採血の機会は格段に増えるだろう。院長が練習機会を増やそうとしてくれているらしかった。
そうですね、と考え事をしながら返事をする。迷っていた。針刺しの練習日前は、いつも「今日で刺せるように」と気合を入れる。一回一回をなあなあにしないで来たつもりだ。しかし、いざ刺せてしまうと、その後の行動をまったく決められない。目指す方向ははっきりしていても、そこに至るまでの手段がまるでなってないのだ。
「……あるいは、もう精神科でなくとも」
見かねた眞鍋院長がそう言いかけたが、途中で言葉を濁した。このクリニックを辞めて別のもっと針を刺す機会があるところに行くこともひとつの選択肢だと、暗に伝えてきた。
「待ってください! ここにはいさせてほしいんです」
急に上がった声量に驚く。ぽかんとした表情を見せる眞鍋院長は、指を組みながら言った。
「それは嬉しいことですが、ここに瀬野さんのやりたいことはありますか」
心配するように、わたしの顔をのぞき込む。眞鍋先生の目は、ある種の疑いを含んでいた。
針刺しができなくなったことで、仕方なく精神科の、それも訪問看護という特殊な場所に来た。針が刺せるようになったら、出て行ってしまうと思われていたようだ。
「わたし、相談員の資格を取ろうと思うんです。もっと福祉サービスを学びたくて。看護師でも資格講習の受講は可能だと聞きました。そのための経験を、ここで積ませていただきたいんです」
相談員――相談支援専門員は、精神・障害福祉分野の資格だ。病気や障害を抱える人が地域で暮らすためには、いくつかの福祉サービスや医療サービスを利用していることが多い。専門員は困りごとの相談に乗り、様々な状況や問題を考慮しながら、使える福祉サービスを組み合わせるプランナーの役割を持ち、その知識で患者が本人らしい暮らしをサポートする。
「なんと。相談員ですか」
いいですねえ、とつぶやきながら、院長は天井を仰いだ。看護師から訪問看護に来る人は少ないのに、そこから相談員を目指す人はごくわずかだ。資格の有無、臨床経験、その分野での経験年数などが問われ、講習もすぐに終わるものでもない。働きながらと取ることは可能だが、ややハードルがあった。
それでも相談員を目指したい理由は、いくつかあった。
「患者本人だけでなく、患者を支える家族の負担も減らしたいんです。そのためには医療知識だけでは全然だめでした。福祉と医療をつなげて見られる人が必要です」
千賀さんも、遊佐さんがセッティングしたサービス担当者会議で福祉と医療の支援者がつながることができた。顔合わせさえしてしまえば、あとの話は思いのほかスムーズに調整がいく。千賀さん本人の説得には少々時間を要したものの、就労移行支援の施設に通い始めた。ここ数年抱えていた問題に解決の兆しが見えたときのお母さん顔が忘れられない。
退院してきた赤城さんのこれからだって、あるいは、ももさんのお母さんだってもしかすると――
「地域で暮らすからって、家族が何もかも犠牲にするなんて馬鹿げてます」
幼少期からお母さんを見て来たアンだって、美徳だの綺麗な言葉で片付けられて欲しくない。本当は、そのいくらかを大人が担うことができたはずだ。
「だから、わたしはここでもっと働きたいんです。精神科のことも、障害福祉のことももっと知りたい」
精神科訪問看護は、わたしにこれまで知らなかった世界を見せてくれた。
知りたくない、聞きたくない話も山ほどあった。しかし、どれを取っても、放っておくことはできない。いつぶりか、やりたいことができた。
「これからもよろしくお願いしますね」
晴々とした顔を突き合わせる。
自分のことのように喜んでくれる眞鍋院長に感謝しながら、この「まなべ精神科クリニック」でのこれからに密かに心を躍らせた。