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心を燃やし、涙を流し 上

 「ダナンは将来何になりたいの?」


 ポツリ―――と、水色の液体が半分だけ入った瓶を片手に少女がダナンに問う。


 「特に何も……考えられる筈が無い」


 人工甘味料の匂いが鼻孔を突き、着色料で輝くサイダーの粘つく後味が舌の上に残る。痺れる舌で歯を撫で、思いっきり吸って細かな粒を唾液に絡ませたダナンは唾を吐き、黒く湿ったコンクリートを見つめた。


 蛆虫に蟻が集り、もぞもぞと蠢いていた。蛆が湧く腐乱死体を食む野犬は額に開いた目でダナンと少女を遠巻きに見つめ、大きく吼える。すると路地の闇から異形の野犬の群れが姿を現し、血に濡れた牙を剥いた。


 「……」


 銃を抜き、撃鉄を指で引く。マグナム・リボルバーのシリンダーがカチリと音を立てて回り、弾倉に入った弾丸が銃身と重なり合う。ダナンは顔色一つ変えずに引き金を引くと一匹の野犬へ弾丸を撃ち放つ。


 鼓膜が震える銃声と獣の悲痛な叫び。眉間を撃ち抜かれた野犬は身体全体を痙攣させながら血を垂れ流し、動かなくなる。そして、仲間の死体を貪り喰らう野犬の群れは腹を満たしたのか路地の闇に姿を消し、其処に残ったのは食い散らかされた死体だけ。空薬莢をシリンダーから振り落としたダナンはつまらなさそうに溜息を吐き、機械の掌に顎を乗せた。


 「ダナン」


 「……」


 「無益な殺生はよくないんだよ?」


 「……で?」


 「でって……家にあった本にそう書いてあったから」


 鼻で笑うダナンと石段に瓶底を等間隔で当てる少女。時間が止まったような感覚に不快感は無く、それが普通であるかのような柔い空気。サイダーの空き瓶をビルの壁へ放り投げたダナンは銃でそれを撃ち抜き、粉々に散った硝子片を眺め、鞄に押し込んでいた遺跡のガラクタを少女へ渡す。

 「これは?」


 「さぁ? 知るワケないだろ」


 「でも、遺跡の遺産だよね?」


 「あぁ」


 「いいの? 貰っても」


 「あぁ」


 「ダナンに必要でしょ? お金になるし……」


 「別にいい。お前の方こそ大変なんだろ? 家とかさ」


 少女が力無く笑い、自分の手で頬を叩くと満面の笑みを浮かべ「ありがと、ダナン」と話し、服のポケットから包装された飴玉を取り出しダナンへ渡す。白い包み紙はオイルで汚れ、少女の頬と同じく僅かに黒ずんでいた。


 包み紙を切り口に沿って引き千切り、黄緑色の飴玉を口の中へ放り込む。サイダーとはまた違う甘味が口一杯に広がり、バリバリと噛み砕いたダナンは無愛想に眉を顰め、甘い唾液を呑み込んだ。


 「ダナンってさ」


 「……」


 「飴玉とか好きだよね」


 「……別に」


 「嘘だぁ、私からいっつも貰うくせに」


 お前だから貰うんだ。その言葉を飴玉同様噛み砕いて飲み込んだダナンは鉄面皮を装ったまま気恥ずかしそうに頬を掻く。機械の指の冷たさが紅潮する頬に触れ、鋼の冷たさに内心驚きながら。


 「お前は」


 「うん」


 「将来の夢とか……あるのか?」


 「どうしたの? いきなり」


 「少し聞いてみたいと思ったんだ。特に深い意味は無い」


 「そっか。えっとね、私は……いや、やっぱりいいや」


 「話せよ、俺は毎回答えてるだろ?」


 「だって、言ったら絶対笑うもん」


 「笑わない」


 「笑うよ」


 「笑う必要が無い」


 その行動に意味があるのか否か……少女が知るダナンは必要が無いと言ったらどんなことでも容易に切り捨てることが出来る少年だった。家にやって来る借金取りが邪魔だと判断したら四の五も言わずに撃ち殺し、報復の為に派遣された人間も脅威と判断した瞬間殺す。己の命が危険であればある程銃の引き金が軽くなる人間。


 生きたいと願えば願う程、命を狙う死の影は色濃くなる。些細な敵意に肌が針で刺されたかのように痛み、殺意であれば脳が直感的に危機を察知する。ダナンが野犬へ銃を撃ったのだって我が身の危機を感じ取ったからで、決して少女の命を守る為ではないのだろう。褐色肌の少年の横顔を見つめた少女は、膝を抱えて膝に顎を乗せる。


 「……本当に、笑わない?」


 「あぁ」


 「……私ね、将来はお花屋さんになりたいんだ」


 「花屋? 下層街で?」


 「うん、綺麗なお花を飾って、誰かの記念日になったら花束を送るの。だって素敵だと思わない? 色々なお花に囲まれて大切な日を祝えるなんて」


 「……いいんじゃないか?」


 「そう?」


 「お前に似合ってると思う。良い奴だから」


 意外な言葉に目を見開き、ダナンの顔を見つめた少女は微笑みを浮かべる。

 自分でも馬鹿馬鹿しい夢だと思った。コンクリートとアスファルトで満たされた下層街……天を鋼鉄の鉄板で覆われた街で花屋を夢見るだなんて非現実的だと認識していたから。そもそも少女は太陽という言葉を知っていても、本当の陽光を見た事も無いし、生花にも触れた事が無い。彼女が知る花はプラスティックの造花か、歓楽区で春を売る女達の隠語である花売り。両親に話した際、頬を殴られたことを思い出しながら少女は膝に顔を埋める。


 夢を語るのは下層街で贅沢なことの一つだ。将来に希望を抱き、夢を掴み取るにはありとあらゆるものを切り捨てる強さを得なければならず、その対象が肉親であっても引き金を引く覚悟を持たなければならない。下層街の住人が従うべき絶対的な法であり、肉体と精神に刻まれた弱肉強食の理を貫いた者だけに明日はある。


 本に描かれていた美しい世界は塔の上にだけ存在する。下層街は奈落へ続く無法の都。弱者は強者に骨の髄までしゃぶりつくされ、強者であろうと更なる強者に食い物とされる過酷な世界。現に、少女の両親は高利貸しの法外な借金を背負った弱者。今日を食い繋ぐ為に不眠不休で働き続ける両親と、借金の担保とされている少女一家は近い内に歓楽区へ売り飛ばされるのだろう。誰にも知られずに、木っ端として消え去る運命にある。


 神の救いなど在りはしない。神と云う不確実性の塊……人間の妄想が作り出した産物に救いを求めることは間違っている。自分の運命は己が手で掴み取るという言葉も、自己責任論を耳障りの良い単語で装飾しただけ。大きな力の流れに抗う術を持たず、抵抗できぬまま流されるのが大半なのだ。少女は目尻に涙を浮かべ、清い一滴を流す。


 「……ダナン」


 「何だ」


 「お願いがあるんだけど……いいかな?」


 「あぁ」


 「報酬とか要求しないの?」


 「……爺さんが言っていた。泣いている女には手を貸してやれって。だから……お前には色々と世話になってるから、聞くよ」


 「……意外と優しいんだね」


 「優しくなんて無い。甘くも無い。俺は……ただ分からないだけだ。何を求めているのか、何が得たいのか……分からないだけなんだ」


 俯いてマグナムのシリンダーを回すダナンの頭をそっと撫でた少女は、泣きそうな儚い笑顔を浮かべ、灰色の髪の頭を撫でる。


 「きっと……大丈夫だよ」

 「……」


 「ダナンなら、きっと分かる日がくるよ。私みたいに弱くないし、誰よりも強くなれる筈。だから……お願い、もし私が苦しんでいたり、どうしようもない状態になったら、ダナンの手で殺してくれる? ダナンになら……殺されても納得出来ると思うから。お願い」


 「……何かあったのか? 借金取りが来てるなら俺が殺してやる。両親が邪魔だと思ったなら、俺が殺す。悩み事があるなら俺に」


 少女の細い指がダナンの唇に押し当てられ、笑顔を浮かべて音も無く立ち上がる。


 「お願いだよ、ダナン」


 「待て」


 「信じてるから……きっと、貴男が私を助けてくれるって」


 「待てよ……ッ!!」


 少女を追うようにして立ち上がったダナンの心臓から白い線虫……ルミナの蟲が漏れ出し、其処で少年―――否、青年は気付く。これは少年時代の儚い夢なのだと。少女はもう己の目の前に現れないことに、気付いてしまう。


 手を伸ばしても赤色の髪に触れることも叶わず、遠ざかる少女の背を目で追うばかり。叫び、走り出したダナンは深い闇の中へ進み、黒の奈落へ真っ逆さまになって落ちようとした瞬間、意識を過去の残滓から引き上げた。


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