機械腕の指先がピクリと動き、重い瞼を上げたダナンは胸に溜まった血の塊を吐き出し大きく咽込んだ。
「ダナン? 無事なら返事をして頂戴……ダナン」
通信機の向こう側から流れるリルスの声に咽ながら「無事だ……生きている」と言葉を返したダナンは頭を振るい、奥歯を噛み締め痛みを訴える頭を機械腕で押さえる。脳血管が膨張と収縮を繰り返し、神経を圧迫しているような鈍い頭痛……。目玉だけを動かし、エレベーター内を見回したダナンは床に横たわるイブを見つめ、深い溜息を吐いた。
夢を見ていた。遠い昔の……己がまだ世界のどうしようもなさに無頓着だった時代の夢。降り積もる塵芥の下に眠る、摩耗された記憶を夢で思い出したダナンは後悔に圧し潰されたような苦悶の表情を浮かべ、たった一つのお願いを果たせなかったことに拳を握る。
何時だって大切なものは失くした後に気付くのだ。其処にあるのが普通であると勘違いし、変わらないと思い込む故に喪失の傷に喘ぐ。老人の死を形だけ受け入れ、彼はもうこの世に存在しないことを知っているのに、ダナンは老人を殺した無頼漢を八つ当たりのように殺し続けている。一日一人一殺を心がけ、銃を撃つ指は否定の意識に満ちているのだろう。
少女のお願い……もし自分がどうしようもなくなってしまったら殺して欲しいという願い。そのお願いを果たす前に、彼女は既にダナンの知らないところで……ゴキブリとネズミが這う下水道で死んでいた。誰にも知られずに、一人孤独にこの世を去っていた。儚く脆い日常の象徴であった少女の死はダナンの残り火に薪を焚べ、激情の炎を燃え上がらせたのだ。
「……」
機械の指を曲げ、また伸ばす。軋む鋼と黒鉄の鋼鉄板。灰色の髪の隙間から覗くドス黒い瞳に溶鉄のように煮え滾る憎悪が宿り、命を貪り喰らわんとする獣性を帯びた憤怒が燃える。八つ当たりに過ぎない殺しは再び意味を持ち、無頼漢と肉欲の坩堝を死の対象に加え入れる。燻ぶっていた殺意の火種が激情という燃料で燃え狂う。
生き残りたいと願えども、黙っていたら悪意は弱者に牙を剥く。死にたくないと祈っても、力を示さねば生き残れない。殺せば敵はネズミ算的に増え、命の危機は加速度的に上昇する。戦えば戦う程に死の影は色濃く己に迫り、殺せば殺す程悪の咎は大口を開けて命を飲み込む罪を生む。矛盾に満ちたジレンマ、堂々巡りの螺旋回廊……。下層街の住人たるダナンに逃げる術は無く、選び取れる選択肢は一つ……殺される前に、殺すこと。それが彼に与えられた自由であり、心身を縛る枷なのだ。
チン―――と、エレベーターが慣性を残して止まり、扉が開いた。大粒の汗を流し、荒い息を漏らすイブを抱き寄せたダナンは機械腕から超振動ブレードを展開すると暗闇に浮かぶ青白い光を凝視する。
円筒状の巨大な機械。青のラインが奔る機械は天井にパイプを張り巡らせて大空間の中に鎮座していた。その見てくれは鉄の地面にゴムの根を張る大樹のようで、逆さの姿を取る様相は歪。エレベーターから歩み出るか否かを逡巡したダナンは、操作パネルに接続していたハック・ケーブルを用いてエレベーターの遠隔操作を試みたが、一切の反応は無かった。
「……リルス、敵の反応はあるか?」
「無いわね。けど……微かな生体反応を検知したわ。エレベーターは動かないの?」
「全然」
「……どうする?」
「……」
罠の可能性も、何も無い可能性も否めない。暫し沈黙したダナンは生唾を飲み込むと意を決してエレベーターから大空間へ歩み出る。
冷えた空気と機械の排熱臭。ブーツの靴底が黒いタイルを叩く度に波紋が広がり、星屑が舞い散るエフェクトが広がった。水面を歩いているような奇妙な感覚、音を完全吸収するタイルはダナンとイブの生体反応を感知すると、雨音とよく似た水の音色が大空間全体に反響した。
「ダナン、何か異常は?」
「特に何も……だが」
「だが?」
何だか懐かしい……変な気分になる。空気に溶けたダナンの言葉がリルスに届くことは無い。しかし、内心に満ちるは郷愁のような、母の胎に返った懐かしさ。安堵と云うには心許なく、警戒の意気に達しない不安定な心。鼻をツンと突く震えに脳が拒絶反応を示し、理解不能な恐れを感じ取ったダナンは頭を振るい、頬を伝って流れ落ちた雫に気付く。
涙? 何故涙を流している? 己が泣く筈が無い。涙なんて……弱さの証を流す筈が無い。雫を流す場面を見られたりしたら、下層街の住人は弱者と見做して襲い来る。そんな不必要なものは……到の昔に枯れた筈。なのに……どうして。
機械腕で涙を拭い、激情の炎を鎮火させようとする郷愁を踏み躙る為に殺意の牙を剥いたダナンは機械を見上げ、操作パネルを探す。滑らかな鋼を撫で、僅かな窪みに指を嵌めるとスキャナーが自動でダナンの指紋を読み取り、重々しい音を響かせながらキーボードとモニターを展開した。
『知恵の果実に接続。詳細データを取得中……完了。知恵の果実の複製品として認証。NPC製造履歴検証……該当なし。本体との接続手段を検証……不可能と判断。アクセス名を変更……完了。ダナン、知恵の果実への指示を願います』
「知恵の……果実?」
『はい、この機器の名称です。貴男とイブ、カナンには無条件のアクセス許可が下りています。しかし、複製品であることをご留意して下さい。実行可能な機能には制限があります』
脳に響くネフティスの声に導かれるようにモニターへ目を向けたダナンはプログラム・コードの羅列を眺め、その横に並ぶ数字を読む。
「……ネフティス」
『何でしょうダナン』
「これは……何だ?」
『EDENに必要な情報が詰め込まれた機械です。情報保存機構にして、再生再構築機能を備えた機械の大樹と例えましょう。情報は果実であり、複製体製造機能はNPCを作る為の機能。貴男とイブ、そしてカナンにとって重要事項の一つだと存じ上げますが』
EDEN……エデン? その言葉を口にした瞬間、頭が割れるように痛み片膝をつく。フラッシュバックする幾重もの影と記憶に無い映像。チカチカと視界が明滅し、耳に生温かい空気が触れた。
知っているようで、知らない情報。白い老人が硝子窓に触れ、己を窪んだ眼で見据えて皺だらけの顔で覗き込む。背中に突き刺さった生命維持装置のパイプがだらりと垂れ落ち、渇いて罅割れた唇が同じ単語を繰り返し呟いていた。EDEN……NPC……EGO……。星を追い、月を追い、過去を見つめて未来を作れ……。
「EDEN……楽園……ネーム、レス」
「だから行かない方がいいって言ったのに……人の話を聞いてくれた方が嬉しいな、ダナン」
「……ッ⁉」
反射的に腕を振るい、刃を声の主に向けたダナンは大きく目を見開き、空気を求める金魚のように口をパクパクと開いて閉じる。
「その様子だと私のこと、思い出してくれたんだ。嬉しいよダナン。私のお願い、聞いてくれるんだよね?」
「やめろ……」
「ダナンの手で殺して欲しかった。私ね……多分、もう貴男の知ってる子じゃなくなったんだ。どうしようもなく……汚れちゃった」
「喋るな……」
「だから早くその刃で……私の心臓を貫いてよ。それで……ハカラで取り出された私を、私達を消し去って。お願い……ダナン」
「黙れよッ!!」
叫び、怯えた表情を浮かべたダナンは頭を掻き毟り、赤い髪を靡かせる少女から必死に距離を取る。亡霊を見た幼子のように、過去の記憶と全く変わらない少女はダナンがよく知る笑顔を浮かべながらゆっくりと歩を進め、そっと頬を撫で。
「……今回もまた私を助けてくれないの? ダナン」
絶望と悲哀が入り混じった一滴の涙を流した。