涙を流しても世界は変わらない。冷徹な心を持ち続け、死を振り撒こうとて最期に残るものは連綿と続く怨嗟の鎖。恐怖に満ちたダナンの心は、下層街で生き残るための術を過去の残照によって木っ端微塵に打ち砕かれ、今の彼を支配するのは対峙する少女と交わしたお願い事。
必要であれば命を奪うことに躊躇はしない。下層街で生き残る為に不必要な感傷を切り捨て、感情によって左右される命の尺度……価値を見誤ってはならないのだ。最優先に守るものは己の命であり、他人など利用して使い潰す程度の存在。生きるために殺し、死なないために殺し続けなければ、下層街では人間として生き残れない。なのに……ダナンは今少女へ向ける超振動ブレードを振るえずにいた。懐かしい笑顔と、その顔の裏に隠された悲哀と諦念を感じ取ってしまったのだ。
「ダナン……貴男が悲しむ必要は無いの。私は嬉しいんだよ?」
「黙れ……ッ!! 頼むから……黙ってくれッ!!」
少女の細い指がダナンの頬から首筋を撫で、血が染み付いた灰色の髪を撫でる。固まってこびりついた血塊がパラパラと零れ落ちた。
その笑顔を見せないでくれ……ッ!! 通り過ぎ、失った過去を掘り起こすような真似をするな!! お前が死んでいないと、死んでくれなければ復讐は無意味な八つ当たりへ成り下がる!! だから……そんなに優しい言葉を掛けないでくれ……。
「ダナン……私を」
「殺せっていうのか!? お願いどおりに殺せばいいのか!? 殺せばお前は」
「楽になれる。そうなんだよ……ダナン」
少女の言葉がダナンの殺意の逆鱗に触れ、混乱を極める脳を揺さぶった。勢いよく立ち上がったダナンは少女の胸倉を捻り上げ、ブレードの剣先を腹へ向ける。
「ダナン」
「……」
「私を殺しても、多分次の私が貴男の前に現れる。ハカラ・デッキに組み込まれた記憶を……私達を、全員殺さなきゃ意味が無い。何時までも……好き勝手に生かされるのは、もう疲れたんだ」
「……」
荒い息を吐き、激情と殺意で視界が歪む。温かく、冷たい一雫が頬を伝って流れ落ち、それが涙であるとダナンは気づく。
彼女は敵ではない。己の命を奪おうとしていない。一抹の殺意を感じ得ず、ただただ死に臨む少女は瞼を閉じて、腹を貫く刃にだけ意識を集中させていた。最期の瞬間に感じる痛みこそが救いであると信じ、ダナンへ己が命を託す。
刃を突き立てれば願い事は成就され、少女の命を奪う罪悪をダナンは背負う。多くの人間の命を奪い続けてきたダナンにとって、たった一人の少女を殺すことは容易いもの。少しだけ機械腕を前へ動かし、その柔い肌にブレードを刺せばいい。
だが、その単純な動きがダナンには出来なかった。過去と変わらない姿で変わらない声で話す少女を……日常の記憶を象徴する少女を殺すことが出来なかった。否、以前までのダナンであれば必要と断じ、彼女へ刃を突き立て殺していた。しかし、最期の瞬間まで自分自身を殺してくれると信じ、目尻に涙を溜める少女を誰が殺せようか。
「……どうしたら」
「……」
「どうやったらお前を助けることが出来る……? 俺はお前を殺したくない。殺せる筈が無いだろッ!? こんなクソみたいな世界で、肥溜めのような街でお前のような人間は誰一人として居ないんだよッ!! だから」
「……それでも、殺さなきゃだめ」
「ッ!!」
「ねぇダナン……私はね、同じ痛みと苦しみをずっと繰り返してるの。ハカラに保管された記憶は、元の私は今この瞬間にも複製された私の苦痛をずぅっと記憶し続けてる。私一人……複製体一人が助かっても、元の私はダナンが殺してくれなきゃ救われない。ダナンは……私を救ってくれないの? 何時までも永遠に私が苦しんでいてもいいの? 答えてダナン」
「俺はッ!!」
どうしたい? 何が出来る? 平穏と日常の象徴である少女へ何をしてやれる? 目を伏せ、滴る血を見つめたダナンはくぐもった声を漏らす。
「……なぁ」
「……」
「お前は……どうだったんだ?」
「……何が?」
「下層街で産まれて、苦痛に満ちた生を送って、最期はこうして俺に殺されることを願って……。そんな人生は……あんまりだ」
「……下層街はさ」
「……」
「夢を持つことも贅沢で、将来なんて何も見えない世界だと思うよ。未来も無ければ、希望の糸も垂れない地獄の片隅だった。でも」
「でも……?」
「貴男に、ダナンに会えたことだけは本当に良かったと思ってる。考えてみてよ、下層街で銃を向け合わず、ただ話をして、また会おうって言えるのはすごく幸運なことだと思わない?その時は気付かなかったけど、失った後でその記憶を思い返せばアレは美しくて、もう手が届かない記憶だったと思うんだ」
そんなモノは結果論だ。失った後に残るモノは絶望と悔恨だけ。少女の涙で潤んだ瞳を見つめたダナンは深く項垂れ堪えきれぬ涙を流す。
「私ね、歓楽区に売り飛ばされてから色々と酷い目にあったんだ。いや、現在進行系で酷い目にあってるんだけど、こうして複製体で赤の他人に売られる自分が居ると記憶が混ざり合っちゃうの。どれが本当の私の記憶で、違うのかサッパリ分からなくなる感じ。
だけど、ダナンへのお願いだけは忘れなかったんだ。きっとこの苦痛からダナンが解放してくれるって、信じて待ってたの。そしたら貴男が現れた。ダナンは……私にとっての救世主なんだよ?」
「馬鹿を言うな……俺は、俺みたいな人間が救世主の筈が無い。誰一人として救っちゃいないんだよ……俺は」
銃を握って引き金を引き、飛び散る血を何度も見た。機械腕のブレードを振って四肢を絶って殺したこともある。自分だけが生き残る為に、他者を踏み台にして。
誰も救ったことは無い。救う意志も、助ける気も無い手は死を押し付ける悪の腕。罪を背負い、罰を素知らぬ顔で踏み躙る人間が救世主に成れる筈がない。少女の言葉に嗚咽を漏らし、日常を己の手で切り刻もうとするダナンの頭に小さな掌が乗った。
「みんながダナンを許さなくても、塔の全員が貴男へ石を投げても、私は許すよ。だって私達は友達だもん」
「……友達」
「うん、これからもずっと……私が死んでも友達だったことを忘れないで?」
「……最期に」
「うん?」
「名前……教えてくれよ。昔、聞きそびれたから」
「……セーラ。忘れないでね、ダナン」
「……あぁ」
超振動ブレードを少女……セーラの腹へ突き立てたダナンは頸動脈を裂き、鮮血に濡れる。
「……」
涙は血に染まって赤を帯び、頬に流れる筋と混じり合う。
「……リルス」
「……ダナン、貴男と話していた子は」
「ハカラ・デッキが組み込まれた知恵の果実を破壊する。機械腕のハック・ケーブルをコンソールに繋ぐ。遠隔操作は可能か?」
「……えぇ」
「頼む。ネフティス」
『何でしょうダナン』
「複製体を精製する機能を使って装備を作ることは可能か?」
『はい』
「なら俺の血を使って装備を作れ。チューブを繋ぐ」
『了解しました、それと提案があります』
「何だ」
『この知恵の果実は複製品でありますが、一部の機能を黒鋼・零式へ移行し、EDENと関係のある情報を引き抜くことを提案します。実行しても宜しいでしょうか?』
「勝手にしろ」
『了解、データと機能の移行作業に移ります』
グズグズと崩れたセーラの肉塊を見つめ、少しだけ頷いたダナンは機械の大樹へハック・ケーブルを差し込み内部システムをリルスの手を借りて破壊するのだった。