目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

頼み

 青年の瞳に宿る感情は奈落を思わせる絶望と、赤熱する溶鉄を思わせる生への執着、何故生きていたいのか、何故死にたくないのかも知り得ぬ空虚な伽藍の心……。次々と消える己の記憶データをぼんやりと見つめ、塵屑と化す過去へ手を伸ばした少女セーラはモニター越しに映るダナンへ微笑みを向ける。


 偶然と運命が重なり合い、奇跡を成す。死を受け入れることだけがセーラに与えられた救いだとしても、苦痛に満ちた生を送るよりも何倍もマシだ。精神を蝕む絶望に魂を削られ、絶え間ない責め苦に肉体が壊れて朽ち腐る。ハカラ・デッキに保存されていた記憶データが、零と一から構成される複製体を作り出す為のデータ群がクラッキングによって完全削除される。


 「……」


 一粒の涙がセーラの頬から流れ落ち、黒の奈落へ落ちる。電子情報で構成された仮想の涙は現実に存在し得ない虚ろの雫。掌がモザイク調にブレ、プログラム・コードの乱れは少女の身体を不確実性の塊に、現実で生きることが許されない非存在的なものであると証明した。


 モニターの青白い光に縋りつき、大声で泣き喚く。瞼を腫らし、声を荒げて泣き叫ぶ。セーラは理解しているのだ、ダナンと己は既に交わらないことを。現実で生きるダナンの涙は物理的要因を満たす温かな一雫であり、ハカラ・デッキに保存されているセーラの涙はデータで構成された情報体。現実が仮想に触れることは出来ず、仮想もまた現実に触れることは出来ず。故に……セーラはダナンとの隔たりであるモニターに額を押し付け涙を流す。


 私は……彼が好きだったのかもしれない。いや、きっと好きだった。愛と言うには拙く、恋と呼ぶにも未熟な感情。不器用で無感情、迷いを孕んだドス黒い瞳、凍りついた心を溶かしてあげたかった。冷徹な仮面の下で泣き叫ぶダナンを……救ってあげたかった。


 交わした言葉が少なくても、心が重ね合っていなくても、同じ場所で同じ時を過ごした記憶は特別だった。特別だからこそ色褪せることはない。きっと彼は今の今まで私のお願いを忘れていただろう。だけど、思い出して、覚悟を決めることができたからこそ私は救われる。永遠の痛みから解放されるのだ。


 だが―――セーラはモニターを撫で、涙で濡れた視界にダナンを映し嗚咽を漏らす。


 過去の願いを聞き届けたダナンは更なる罪悪の咎を背負ってしまった。苦悩し、葛藤した末にセーラを、日常の象徴たる記憶を殺し、抹消する。それは決別か別離か……救いの為に死を求めたセーラと願いの為に死を与えたダナン。その事実を噛み締め、涙声で謝り続けるセーラは自分だけが救われていることに胸を痛め、消えかけた両手を組み深く項垂れた。


 「……ごめんなさい、ごめんなさい、私だけが救われて……ごめんなさいッ!! ダナンッ!!」


 「何を……謝ってるの?」


 ハッ不意に聞こえた声に驚き、勢いよく振り返る。すると、其処には一人の少女が居た。


 暗闇に映える銀の長髪と陶器のように白い肌。整い過ぎた顔立ちは人形のような可愛らしさと、妖艶な女の貌が見事に調和した思春期の少女の顔。記憶データ群の中で見たことが無い少女にセーラは眼を擦りながら「……彼だけを、傷つけてしまったこと」と呟いた。


 「彼って……ダナンのこと?」


 「……うん」


 「傷つけたって……どういう意味?」


 「……お願いを、私の最後の願いを聞いて貰って、殺してもらったの。もう……どうしようもなくなったから」


 「……そう」


 興味があるような無いような……。セーラと同じようにぼんやりと消え行く記憶を眺め、一歩、また一歩と歩み寄った少女はモニターを見つめる。


 「此処は」


 「……」


 「現実じゃない。そうでしょう?」


 「……うん」


 「じゃぁ用は無いわ。どうして繋がったのかしらね、此処に」


 深い溜息を吐いた少女は踵を返し闇へ視線を向ける。その瞬間、セーラは彼女が仮想の存在ではないと直感的に理解し、細い手首を掴んだ。


 「離して貰える? 私は現実でやることがあるの」


 「待って……お願いだから、少し待って……」


 「……話だけは聞いてあげる。どうせ貴女はもう少しで消えるんだから」


 「……ありがとう。えっと、名前は」


 「イブ。貴女は?」


 「セーラ……」


 二度深呼吸を繰り返し、涙を拭ったセーラはイブへ言伝を頼む。ダナンへ伝える為の言葉を混濁する頭から拾い上げ、整理し、繋ぎ合わせようと努める。


 「……ダナンはね」


 「……」


 「本当は、何時も泣いているし、怒ってる。多分……自分を取り巻く環境と命を狙う誰かに怯て、憎んで、殺すべきだと思ってる。だけど……本当は優しいんだよ」


 「……」


 ダナンの内で暴れ狂う激情は凍った心の下で蠢く溶岩だ。血に濡れた牙は死を与えるために獣性を研ぎ澄まし、殺意を滾らせた生存本能へ薪を焚べる。


 しかし、彼の奥底に在るのは怯え竦む外界への恐怖なのだ。誰かを信じることが出来ず、その全員が敵に見えてしまう歪んだ眼。命を狙う輩は排除するべきだと銃を握り、害を成す存在へ引き金を引く自己保存能力。それだけ見れば修羅道を驀進する愚者に例えられるが、セーラは知っている。ダナンは他者を拒絶しながらも、信じてくれる誰かを求めていることを。


 「私……忘れなかったよ、貴男から貰った温かさを。ずっと、ずっと信じていたよ……貴男が来てくれることを。生きてほしい……折れないでほしい……貴男はダナンであってほしい……。だから、私のことは気にしないで? 私を救ってくれた……私の救世主はどれだけ深い絶望に沈んでも……きっと這い上がって歩いていける。もしも倒れそうになったら……思い出の場所の自販機の下を見て? お願い……貴男は生きて、ダナン」


 拭っても、擦っても、溢れる涙が止まらない。思い出が満ちては消え、どんどん心が空になってゆく感覚。身体全体をモザイクに覆われ、モニターの向こうに断つダナンに聞かれまいと声を抑えて泣くセーラをイブがそっと抱きしめる。


 「他に」


 「……」


 「他になにかある?」


 「……一つだけ、イブにお願いしてもいい?」


 「えぇ……」


 「……貴女だけはダナンを信じてあげて。もし彼がみんなに裏切られて、信じる心を失ったとしても、イブだけはダナンを裏切らないで? お願い、イブ」


 「……」


 どうかしら? その言葉がイブの唇から漏れる前に噛み砕き、飲み込む。


 誰かの願い……それも塔の人間の願いを聞くことはイブにとって理解不能な思考だった。自分達が存在する理由を忘却し、自らの手で未来を閉ざす人間は唾棄すべき屑か塵。塔の人間を憎悪し、憤怒の炎を燃やすイブはセーラの言葉に暫し逡巡する。


 「……セーラ」


 「……」


 「私はね、自分の目的の為に動くことを第一とする人間よ? もしダナンが障害になるなら彼の命を繋いでいるルミナを停止させるし、目的と不一致な行動を取るなら殺すしかないと考えている」


 「……でも、イブ」


 「けど」


 七色の瞳がセーラの眼をジッと見据え。


 「彼は生きたいと願いって、死にたくないと叫んでる。生きている意味も分からず、理由もないから探してるの。だから……彼が協力してるうちは、敵にならないのなら、私は絶対にダナンを裏切らないわ。安心なさいセーラ、私は彼の味方よ」


 「……」


 不安が無いと言えば嘘になる。イブの言葉は将来的な不安要素を孕んでいる。だが、一切視線を外さない七色の瞳からは嘘は見えず、岩壁のように硬い意志だけが燃えていた。


 「……イブ、本当に、ダナンのことを宜しくね?」


 「えぇ、任せなさい」


 「絶対に……裏切らないでね?」


 「約束は果たすわ。安心して」


 「……うん」


 プログラム・コードで構築されたイブの温もりに包まれ、完全削除の波に飲まれた少女は最期に最愛の人……ダナンを視界に収め、過去と変わらない微笑みを浮かべ仮想世界から消え去った。 



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?