キーを叩いていたリルスの手が止まり、白く細い指がマグカップの持ち手を握る。
セラミック製の鈍色のマグカップには煤けた兎の絵がプリントされており、持ち手は泥水のようなコーヒーのせいで生温い。タプリと波立つコーヒーを見つめ、苦い香りを嗅いだリルスは瞼を擦りながら液体を一口飲み下し、眉を顰める。
ダナンの機械腕に仕込んだ通信装置はコンピューターの操作一つで強制開通出来る代物だ。彼が通信を閉じていようともリルスの指先がキーを叩けば会話は丸聞こえとなり、交わした言葉はストレージに保存される。隠し事は不可能。ダナンが通信を閉じていると思って行動しても、リルスには全て見透かされている。
「……」
知恵の果実からダナンが回収した情報データに興味がある。今直ぐにでも彼の機械腕に内臓されている記憶装置を取り出し、どんな情報が蓄積されていたか見てみたい。もしかしたら、長年探し求めていた情報データが見つかるかもしれない。亡き父が命を賭してまで解き明かそうとした塔の秘密……世界の真実を知ることが出来る。リルスは逸る心を鎮める為にもう一口コーヒーを口に含み、強烈な苦味に目を細める。
ダナンが過去を語らず、自分のことを余り話さぬように、リルスもまた彼には話していない秘密があった。それも一つや二つではない、この身に抱え込むには多すぎる情報を握っていた。両親のこと、自分の産まれについて、ダナンと知り合い協力関係を築く前までのこと……。八年間ダナンへ仕事を言い渡し、遺跡から持ち帰る情報データを解析し続けていたリルスは塔の秘密を真実に近い位置まで仮説を立てていた。
誰よりも塔についての情報を知り、イブの言葉の意味を理解している少女は肌身話さず持ち歩いているロケットを握り締め、小声で何かを呟くと膝を抱え頭に毛布を被る。
「リルスちゃん」
「……」
「貴女、少し疲れてるんじゃないの? 少し休んだ方がいいわよ」
「……心配しないでライアーズ。ダナンが帰って来るんだから、私が起きていないと色々と困るでしょう?」
合成革が剥げ、中のスポンジがはみ出た椅子に座るライアーズは鋼の指に文庫本を挟んで文字を追っていた。浅黒い肌に盛り上がった筋肉、浮き出る血管と右目の機械眼……。女口調でありながら見た目は屈強な男そのもの。立派なモヒカンを手櫛で梳かし、文庫本の頁を捲ったライアーズは目元に隈を浮かべるリルスへ機械眼を向け、静かに笑う。
「愛しい男を待ってる女の顔よ、リルスちゃん」
「……」
「本当に貴女とダナンちゃんは似た者同士ね、昔のアタシとあの人を見てるみたい」
「……馬鹿言わないで、ダナンと私は他人よ。似ている場所なんて何処にも」
「隠し事、してるんでしょ?」
ドクリ―――とリルスの心臓が跳ね上がり、一気に血の気が失せる。毛布を被り、顔や手足の動揺を見せないよう振舞っていたリルスは机に置いていた鏡でライアーズへ視線を向ける。
「女に隠し事は必要でしょう? 変なことを言うのねライアーズ」
「そ、女の隠し事は武器であり盾よ。嘘を言い続けて、張り続けたら全部無かったことに出来るのよリルスちゃん。けど……それが通用するのは女だけ。アンタみたいな小便臭い餓鬼には早いって言ってんのよアタシは」
ライアーズの声が、低い男の声がリルスの鼓膜を叩く。両腕から伸びる鋼の腕が機械の軋みをあげ、本の命題を見せつけるかのように閉じた。
ファウスト。ゲーテが記した悲劇の長編戯曲。古く、掠れた表紙は虫に喰われてボロボロで、茶色い背表紙は黒ずみくすんでいた。
「ファウストは、メフィストフェレスに心を売って明日を得た。メフィストフェレスは神との賭けにファウストを惑わし魂を奪おうとしたの。アタシはね、この戯曲が好きなのよ」
「戯曲なんて嗜むなんてね、意外だわ」
「そう、嗜む程度。深い意味なんて知ろうとも思わないし、知りたいとも願わない。けど、もしもう一度やり直せるチャンスがあるならアタシは悪魔とさえ契約を交わすでしょうね。ファウストと同じように、時が止まったような、最も美しい瞬間を得たいと願うわ」
意外だった。武骨で女口調を崩さず、何時も何かを見据えながら諦めた雰囲気を漂わせるライアーズがそんな言葉を吐くなんて……。キーを指先で叩いたリルスはダナンとの通信記録を情報装置へ記録し、尚も響く音声データを保存しながらライアーズの言葉に耳を傾ける。
「主は努力し続ける者は迷い、道を見誤ると話したそうよ? その言葉に異論は無いし、アタシだってそう思うわ。人間は迷って、悩んで、苦しみながら生きる生物だもの。自分にも嘘を吐いて、辛い事から目を背けて生き続けるの。けどね、主の言葉は間違ってるとも思えるわ」
「どうして?」
「努力しても実らなければ意味が無い。理性を得ても、本能に蝕まれても、結局その道を歩んで来た人間が次の選択を決めるのよ。運命の手綱を握るのは常に自分自身の選択であり、主や悪魔に心と魂を弄ばれるものじゃない。どれだけの罪を背負っていても、計り知れぬ悪を抱えていても、それを赦すのは人間よ」
「……」
ライアーズの持つファウストの文庫本は第一部だけを記した未完の書。全てを読み解き、物語の全貌を理解した瞬間彼はどんな感想を抱くのだろう。グレートヒェンの手によって救われるファウストを糾弾するのだろうか? 子殺しと婚前交渉の罪を背負い、罪人として処されたグレートヒェンが聖母になり、ファウストの為に祈りを捧げることに理解を示すのだろうか?第一部と称されるファウストは悲劇の物語である。だが、第二部第一幕から第五幕は罪と救済の物語なのだ。
悪魔に心を売って明日を得て、時が止まる程の美しさをこの目に焼き付けたい。汝は如何にも美しいと賞賛し、高い幸福感を噛み締めながら絶命したファウストはメフィストフェレスに魂を奪われる前に救われた。その過程に見た嘆きと苦痛、享楽の旅路によって彼は成長し、新たな視点を切り開きながら最高の瞬間を見出した。
「……赦しを与えるのが人間でも、罪と罰を課すのもまた人間よライアーズ」
「えぇ、そうね」
「ダナンも赦されると思ってるの? 貴方は」
「あの人が拾って、育てた子は弱くないと信じてるわ」
「……ねぇ、あの人って誰なの? どうして貴方は其処までダナンを気に掛けるのよ。貴方も下層街の人間でしょう? 下層街の人間は、誰であろうと信用しない筈よね?」
「……あの人はね、私に人間を教えてくれた人よ。愛していたし、支えてあげたかったし、馬鹿な理想を手伝ってあげたかった。けど、現実がそれを許さなかった。許されないから私は消えない罪悪を背負ったし、あの人も堕ちるとこまで堕ちた。私の子供もね」
「……」
少しだけ、ほんの僅かにだが自身の過去を曝け出したライアーズの目が深い哀愁の念を帯びる。取り戻したくても手を伸ばせず、見たくないものばかり見続けた瞳は到の昔に美しさを忘却してしまった様。
「リルスちゃん」
「……何よ」
「嘘を吐き続けて、自分自身を騙し続けてもいいわ。アタシが認めてあげる。でもね、自分だけの居場所は絶対に守りなさい。誰の為に手を尽くすか、何のために動くのかを忘れないで。アンタは昔のアタシで、ダナンちゃんはあの人と別の道を辿ろうとしている馬鹿。老婆心に言うのもなんだけど……自分の心は騙せないものなのよ」
ライアーズはそれだけ言うとダナンの煙草を勝手に口に咥え、火を着ける。細長い紫煙が宙に舞い、リビングファンに斬り裂かれながら霧散する。
分かっている。ライアーズの言葉の意味も、何を言いたいのかも理解している。だが、それでもリルスは嘘を吐き、真実へ手を伸ばそうとしているのだ。たとえ全てを失ったとしても、自分が掲げた目的を達成する為に悪魔と手を結んだ。
「……ライアーズ」
「なに?」
「貴方の居場所は……何処にあるの?」
「そんなもの」
死に場所と一緒に無くしたわよ。そう言ったライアーズは本の表紙を撫で、古いコートを懐かしむように見つめた。