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Face in the distand past. Build the future 上

 両手に手袋を履き、スーツの襟を正した男はサイレンティウム幹部の身分を示すバッジを社章穴に嵌め、バーラウンジへ続く扉に手を掛ける。木の肌触りを極限まで突き詰めた人工木目扉は、模造品に触れたことが無い人間からすれば本物と見間違う贋作だ。


 真実を知らなければ不幸を知らず、嘘を本物と思い込める者は偽物に幸福を感じる。現に男……ディックが若い社員を連れてバーラウンジへやって来た際、彼等は贋作を本物と信じ込み、感嘆の息を漏らしたものだ。故に嘘を真実と思い込み、真実を知らずに生きている者は不幸を知らぬ幸運な者であると、ディックはその結論に至った。


 この世界は嘘に塗れている。誰もが幸福であると自分自身に嘘を吐き、不幸だと信じない。無知が罪であると一切の疑問を抱かず、皆が叡智を授かっていると信じて疑わない。誰しもが平等であり、不幸に嘆く人間など居る筈が無いと信じ込む一種の集団的妄執病。自分が苦労していても、また別の誰かも同じ苦労をしていると思う虚ろな共感覚。金が無くとも生きている自分にこそ価値があり、死んでいなければまたやり直せると考える楽観的思考。皆が皆を支え合い、今日を生きて明日を目指そうとする姿は人間の根源的本能である闘争心を奪われた歪な姿……肥え続ける豚そのもの。死という出荷を待ち続ける家畜と例えられようか。


 だが……と、ラウンジへ足を踏み入れたディックはスツールに腰掛けると煙草を咥え、火を着け紫煙を吸い「俺もまた……同じか」と小さく呟いた。


 知らなかったで済めば思わぬリスクを踏んでも傷は小さく、知っていても重要な情報を最後まで隠し通すことが出来れば上に責任を問われることは無い。手駒である部下を上手に操り、最大限の利益を出し続ける限りディックはサイレンティウム統括部長で在り続け、下種な欲望を駆り立てる愚者に椅子を譲る必要は無し。権力には責任が付き纏い、立場にはリスクが影のように忍び寄る。その事実を誰よりも深く理解しているディックは常に最善の選択を強いられ、最高の結果を示すことを強いられていた。


 権力とは駄獣を呼び寄せる甘美な蜜であり、取り扱いを間違えるごとに毒性を増す劇物。権力を持つと人は変わり、狂い、選択を誤り破滅する。破滅しながらも権力を握り続けようとした者は原因不明の事故により処分され、立場を剥奪された後に何処かへ去る。サイレンティウム統括部長という狂気の椅子に座そうとする者は何代にも渡り裏切りと謀略を張り巡らせ、甘い汁を啜ろうとする吸血鬼……欲望のノスフェラトゥと化す。


 この空虚な伽藍を何故握ろうとするのかディックは知っていて、かつての己が滾らせていた欲望は既に枯渇した虚しい伽藍洞。年相応……否、それ以上に老けて見える男はマスターが差し出したグラスを呷り、丸氷をジッと見つめた。


 希望という二文字は何処にも無く、幸福の感覚を忘却した老骨心。義務的に女と番い、子を設け、父親と夫の仮面を被り日常という牢獄に首輪で繋がれた感覚。個を排除したつもりでも、自我が記憶する過去はディックの心を削りながら果たしてこれが正解であったのかを問い続け、死んだ友人の顔をチラつかせる。サイレンティウム統括部長として決して自分の為だけに権力を振るわず、血も涙も無い巨大複合企業の猟犬と畏怖されるディックは一人酒を呷り、深い溜息を吐いた。


 「どうしたんですか? 何か悩みでも?」


 「悩みが無い人間など居ない。そうだろう?」


 「えぇ貴男の言う通りですディック統括部長殿。ご家庭内で何か問題でもあったのですか?」


 「……娘がな、私の言うことを聞かないのだよ。サイレンティウム本社に入りたいと駄々を捏ねて仕方が無い。どうにもあの子は……私の力をアテにしている節がある。そんな人間がサイレンティウムに入れる筈が無いのにな」


 無知故に内情を知らず、真実を見抜く目を持たぬ故に希望を抱く。毎年の新入社員は皆希望に目を煌めかせた若人達で、自分達の輝かしい未来を疑わぬ盲目の羊。サイレンティウムという巨大な蟲毒に押し込められ、虎視眈々と獲物を狙う肉食獣の眼差しを向けられる若人が不憫に思うし、その中で羊から獣に成り変わる様を見れば血を分けた娘をサイレンティウムに入れるのはディックであろうとも躊躇してしまう。


 「娘さんと話してみたんですか?」


 「私の言う事など信じないし、妻の言葉を鵜呑みにする阿呆に割く時間は無価値。マスター、教育とは何だと思う?」


 「教え、育むことでしょう」


 「そうだ、子供は親が居なければ産まれ得ず、親の背中と言葉を追う生き物。友人や環境が与える影響は人格形成と思考過程であり、個を育むのは親の教えと己の自我。アレは妻の影響を強く受け、周りの友人から碌でもない知識を溜め込み過ぎている。意志薄弱な自意識過剰。それが私の娘なのだよマスター」


 親が居なくても子は育つという言葉があるが、それは本当の意味で育っているワケではない。親の指針が子に与える影響は強大であり、言葉一つ一つが人格形成に組み込まれているのだ。言うなれば子供は一つの肉身を持った機械式時計で、親や友人、環境は機械を駆動させる為の歯車。知性を司る脳が無駄な知識に汚染され、反復経験と見做す行動が遊びに染まれば機械は錆び、やがて滑稽極まるガラクタとなる。


 己を整備するものは自分自身に他ならず、記憶を糧に整備オイルを調達し、各種部品を磨き上げねばならない。腕の良い整備士は何処にも居ないのだから、知見を広めて最高の整備用品を揃えなければ人間を成す機械……自我は脆く剥がれ、無残に崩れ去る。だがそれを教えるのは親の務め、則ちディックのやるべきことでもあった。


 忙殺される毎日を言い訳にしても意味は無い。疲労を口にしても他人にとってはどうでもいいこと。家族であろうとも、結局のところは他人同士の集合体であり、家庭とは小さな箱庭が織り成す一つの社会だ。社会とは他人に冷たく、自分に甘く、様々な感情が混ざり合う豚箱のようなもの。中層街を成す社会がどれだけ人に甘かろうと、ディックが作った家庭の社会は荒涼たる荒野だった。


 「大変なんですね、ディック統括部長殿も」


 「同情は不要だ」


 「……」


 「個々の責任論を講じればこれは私の浅はかな思考が招いた結果に過ぎず、軌道修正をするつもりは無い。だから同情は不要。マスター、これはただの問答形式の会話。君がどう言おうと、私は既に決まった考えを改めない。いいな?」


 「……畏まりました、ディック統括部長殿」


 もしもアイツが生きていて、今の己を見たら何と言うだろう。馬鹿野郎と怒り狂うか、阿呆と笑い飛ばしてくれるのだろうか。過去の争いを水に流し、あの時は二人で馬鹿なことをしたと語り合うことが出来るのだろうか。


 在り得ない考えだろうが、実現する筈の無い希望を抱くことが許されるのであれば、ディックはサイレンティウム統括部長としてではなく個人として謝りたかった。全てを知っているのに絶望せず、果たせない理想を掲げた友人に心からの謝罪を送りたい。もしそれが許されるのであれば、今度こそは持てる全ての力を使ってその理想を手助けしよう。弱者を守り、世界を救う理想を支えてみせる。


 「マスター、支払いは」


 「少し待ってくれやディックさんよ」


 「……」


 「面白い話があるんだが、聞いてみねぇか? なぁに料金は酒代でいい、それもとびっきり上等な酒だ」


 料金を支払い、バーを後にしようとしたディックの肩を抑えたのは統一型機械眼に赤いラインを奔らせた白衣の男。草臥れた煙草を口に咥え、マッチで火を着けた胡散臭さ全開の闇医者チクアンは機械腕の手指を器用に動かし、ニヒルな笑みを浮かべたのだった。




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