友人の友人とは他人に違いあるまい。いや、友人という存在も他人の区分ではあるが、自分自身の人生に関わってくる以上赤の他人とは言い難き。マスターへ空いたスキットルを手渡したチクアンは「この店で最高の酒を注いでくれや。なぁに心配するな、金はディック統括部長様が支払ってくれる」と欲の皮が突っ張った笑みを浮かべ、機械腕の親指でディックを指さした。
何のつもりだと問う前に舌打ちが漏れ、苛ついたように眉間に皺が寄る。一度浮かせた腰を再びスツールへ落ち着かせ、新しい煙草を口に咥えたディックは「話してみろチクアン」酷く冷めた口調……抜き身のナイフを思わせるドスの効いた声でチクアンへ問う。
「おぉ怖いねぇ、何だ? サイレンティウム幹部ともなれば旧いお友達にもそんな声で話すのか? えぇ? ディック坊や」
「……時間を無駄にしようとするなら帰らせて貰う。貴様が言った面白い話など微塵も興味が無い」
「冗談だよ冗談、皮肉もクソも通じない男だなお前は」
まぁいい。酒が波々と注がれたスキットルを啜り、喉を焼くアルコールに呻いたチクアンはディックと同じように煙草を口に咥え、生身の掌を差し出した。
チクアンという男は己が知る誰よりもだらしが無く、生死の境目すらも曖昧な幽霊のような存在だった。下層街へ赴いてはふとした拍子に中層街に戻り、都市一番の大病院の教授席に座している。闇医者と呼ばれる由縁は下層街で活動している時の身分であり、中層街の大病院で機械義肢を振るうチクアンは解剖腕の異名を持つ名医なのだ。摘出不可能と診断された癌細胞を取り除き、小脳に巣食った脳腫瘍さえも摘出する様は正に人の形をした精密機械。胡散臭さ極まるチクアンに憧れる医者は数知れず。何処で腕を磨き、幾人もの人間の命を手術の肥やしにしているのか知らずに。
ディックの隣に腰かけたチクアンは背骨を伸ばし、首の骨を鳴らす。両目を機械眼に換装しているせいか疲労の色は見えず、目線を追うこともできなかったが、チクアンから僅かな疲労を感じ取る。
そうだ、彼は何時も疲れた時にはこのバーラウンジを訪れていた。四日間にも及ぶ不眠不休の連続手術の後、副業と言って下層街で人間を解体した後、屑や塵だと揶揄する患者の相手をした後等……精神的或いは肉体的疲労を感じた時は必ずこのバーを訪ねて来た。ディックや彼の友人と同じように、休む事が出来る止まり木を探し求めていた。
となれば―――灰が長くなった煙草を灰皿に叩き、口元を手で覆ったディックはチクアンの白衣……その奥に在るシャツから香る血の臭いを嗅ぎ取りもう一度舌打ちする。
「チクアン」
「何だ?」
「また下層街へ行ったな?」
「まぁな」
「これは忠告では無く、警告だ。もう下層街へ行くな。貴様の副業がもし上にバレたら私でも庇い切れん。サイレンティウムは貴様を」
「体の良い駒程度にしか思わんだろうな。将棋で例えればそうだな……お前は玉の周りを囲む金銀飛車角で、俺は桂馬か歩。サイレンティウムって奴は何処までも傲慢で、お前もそれに感化された糞か屑。やだねぇ……昔のディック坊やは何処に行っちまったんだい全く」
肩を竦めながら皮肉気な笑みを浮かべたチクアンは頭を振るい「まぁ、今はそんな話どうでもいい。俺が言いたいのはダナンのことだ」と機械眼の赤いラインを青に染める。
「……貴様の口から奴の名が出るとはな」
「当たり前だ、ダナンには借りがある。それを返すまで俺は前に進めやしない。ディック、お前はダナンを名乗る小僧に会ったことがあるか?」
「……あぁ」
「……何だ? 俺達は悪い夢……亡霊でも見たってんのか? ダナンは死んだ筈だ、金を積んでシークレット・ニンジャにも依頼を出して調べて貰った筈。それはお前も知ってるだろう? ダナンは死んだ……それに間違いは無い。そうだろ? 違うのか?」
縋るような、否定と肯定という相反する二文字を心の底から欲している焦燥感に駆られる声。酒を呷り、酔いが齎す酩酊の迷宮に逃げ込もうとするチクアンはディック以上にダナンの名に縛られた哀れな酔いどれ人。自らの弱さを曝け出し、ごちゃ混ぜになる感情を疑問として吐き出したチクアンは沈黙を守るディックへ舌打ちする。
「悪い夢……いや、良い夢か? ハッ……馬鹿馬鹿しい。ディック坊や、ダナンは俺が知る情報じゃ確実に死んでいる。下層街の路地裏で無頼漢の構成員に殺されて、理想を抱いたまま無残に、無意味に命を失ったんだよ。それが何だ? 今更になって見た目や歳を変えて、記憶を丸々消去して生きてましたってか? アイツが……ダナンがそんなことをする筈が無い。あの時代遅れのカウボーイが……理想を掲げて自分の人生を使い潰した馬鹿がそんなことを」
「チクアン」
鋭く低い声がチクアンの独白を止め、バーを静寂で包み込む。
「ダナンは死んだ、それは私も十分に理解している。死んだ者は返って来ないし、起きてしまったことは決して変えることは出来ん。チクアン、貴様はあの小僧をダナンのクローンか何かだと思っているようだが、私はこう考えている。やり直すチャンスだとな」
「やり直すだと?」
「そうだ、あの小僧がダナンを名乗るのであれば、私はどんな代償も払う覚悟でいる。過去を変えることは出来ん。記憶を改竄しようとも、起こってしまったことを無かったことには出来ない。過去、現在、未来……流れゆく時間はエスの海に溜まり、伝聞にて後世に知識を伝える。時の流れの中では人はかくも弱く、儚い存在で、膨大な海を観測することは神でも成し得ぬ偉業。故に、私は流れ出流時間に生きる一人の人として小僧を……ダナンを導きたいのだ。神曲のヴェルギリウスに成り、ベアトリーチェとの再会を願おう」
「夢想野郎が馬鹿なことを言う。ヴェルギリウス? ベアトリーチェ? ならあの小僧……ダナンはダンテか何かか? おいおいディック坊や、まさかまだあの文庫本を」
「アレなら小僧にやった。俺……私が持っていても仕方の無いモノだからな。神曲も持つべき者の手にある方が幸せだろうし、もし小僧がダナンの意志を継ぐ者ならば無意味ではない。きっとアイツは……理想を抱いた大馬鹿者はこのことを見越して私に神曲を託したのだろう。ダナンなら……何もかもを見越した上で行動するに決まっているからな」
アイツがそんな上等な思考に至るかねぇ……。そうぼやいたチクアンを一瞥したディックはスキットルを奪い酒を飲む。熱いアルコールが喉を焼き、酒気が血に混じって体内を巡った。
「おいそれは俺の」
「偶には良いだろう? そもそもこれは私の金だ。貴様に文句を言う権利は無い」
「……そりゃぁそうか。けど珍しいなお前が人の酒を奪うだなんて」
「ただの気紛れだ、他意は無い。それに」
「それに?」
「こういった奇行は元来ダナンの役割だった。空いた穴を埋めることに何の疑問がある。言ってみろチクアン」
「……お前がそれで良いなら俺は何も文句は言わねぇよ。俺とお前の仲だろ? 遠慮すんじゃねぇ、ディック」
そう言って、グラスとスキットルを交換した二人は淡いランプの下で酒を飲み交わすのだった。