濃い血の香りと硝煙の臭い。煙草のヤニ臭さが染み付いた灰の髪をぼんやりと見つめたイブは身体を包み込む柔らかな毛布に頬を寄せ、揺れる車体に身を任せる。
何時気を失い、取り戻したのかは己も覚えていない不鮮明な記憶の残照。何故毛布に包まれているのか、どうして眠りこけていたのかはイブ自身も覚えておらず、今この瞬間に理解したことは臭いの元凶であるダナンが己を抱えて眠っていて、揺れる車体の内装から二人が乗っている乗り物は戦闘車両の一種だということ。痛む頭を手で押さえ、じっとりと汗が滲んだ素肌を撫でたイブは静かな寝息を立てるダナンを見つめる。
武骨で厳しく、無精髭を伸ばした無愛想。灰の髪に煤を纏い、固まった血を張り付けた褐色の肌を持つ青年。薄い白を帯びた一際大きな古傷と、細かく刻まれた幾重にも及ぶ小さな傷跡。艱難辛苦を乗り越えたとは豪語せず、殺すべき対象と殺さなければ見えぬ生存の道筋を語る口は今は貝のように閉じ、ドス黒い瞳が覗く眼も疲労のせいか開くことはない。
生きたいから戦って、死にたくないから敵を殺す。信用も信頼も殺意に焚べ、他者は己を喰らうべくして存在する敵と言ったダナンは、愛よりも先に戦い方を知った人間なのだ。愛する方法を知らないから他者を信用できず、戦い方を熟知している故に目に見える人間全てが敵に見える。その姿はまさに悪鬼修羅、無慙無愧の血濡れ夜叉、最低最悪の恥知らずとも云えるだろう。
だが……眠るダナンの頬を撫で、少しだけ盛り上がった傷に触れたイブはそんな悪鬼にも人の心が存在することを知っている。彼を頼むと言い残し、ハカラ・デッキに保存されていた記憶データのセーラはダナンを信じ、願いを叶えてくれたダナンを愛していた。彼を救えなかったと、自分だけが救われたと涙を流し、慟哭と悲嘆の中で電子の闇に存在ごと抹消された。
悪鬼ならば、修羅道を征く無慙の鬼ならば誰かに愛されることなく死を以て屍の山を築き、真っ赤な血の河に喜びを見出すだろう。奪った命の数を勘定し、まだ生きている命を屠る為に嬉々として得物を振るって血肉を貪る筈。涙の一滴も流さずに、葛藤や苦悩といった人間的な感情を排して修羅を征く。しかし……イブは小さな溜息を吐き、馬鹿と呟くとダナンが自分自身をどれだけ屑や塵と、悪鬼に関した言葉を吐いてもそれを否定せずにはいられない。誰かの為に涙を流せる人間が鬼であるとは言い難いから。
「……」
ハカラ・デッキ内に保存されていた記憶データを消去した時、セーラという過去と決別する覚悟を決めた時、彼は一体どんな顔をして、どんな思いで機械腕のハック・ケーブルを繋いだのだろう。苦渋な決断だったのか、それとも自分の弱さを消し去るための行動だったのか、分からない。イブはダナンではないし、ダナンもイブではない。他人の思いや行動は当の本人でしか知り得ぬことなのだから。
「……私は貴女の頼みを果たせるのかしら? いいえ、多分……無理よ。だって、私は」
「何が無理で、頼みとは何だい? 銀のお嬢さん」
瞬間、イブの銀翼が狭い車内で白銀の羽根を舞い散らしながら展開される。シートを切り裂き、装甲板を軽々と割いた銀翼は声の主の喉元に突きつけられる。
「……貴男、何者?」
「……話をするならこの翼を離してくれないか? 少し……いや、かなり怖いからね」
「私が質問しているの。答えて頂戴」
「名前はグローリア、君の仲間……ダナンの友人さ。君達に危害を加えるつもりは一切ないし、今は居住区の近くを走っている途中。えっと……君の名前は」
「……」
イブとダナンに向けられたアサルトライフルの銃口を睨み、舌打ちした少女はグローリアの首元から銀翼を引く。
「……ダナンの友人? 変ね、彼はお友達なんて作らない人間だったと思うけど」
「行動を共にする機会があってね、その時色々と話しをしたんだ。ダナンは君を随分と気にかけていたよ、ハカラを手に入れるためにアェシェマと対峙するなんて常人じゃ不可能。君を助ける為に、ダナンは自分の身と心を削りながら戦っていた。それは正しく」
愛だろうね。文庫本を閉じ、微笑んだグローリアは眠りこけるダナンを小突く。
「ダナン、そろそろ起きたほうがいいよ? 居住区に到着する」
パチリ―――と瞼が開き二、三度瞬きを繰り返す。そして大きく背を伸ばしたダナンは豪快に首の骨を鳴らすと「……夢を見た」一言呟く。
「夢かい? 君はどんな夢を見たのかな、ダナン」
「……さぁ? 夢を見ていたことは分かるんだが、覚えていない。それよりも」
車内に突き刺さった銀翼を見渡し、苦い笑みを浮かべたダナンは「本調子が戻ってきたか? イブ」とクツクツと笑った。
「あら、リルスの前以外でも笑うのね貴男も。早速だけど質問よダナン、この男は誰? 貴男の初めてのお友達?」
「友達……まぁ、そうだな。グローリア、悪いなイブが迷惑を掛けた」
「いいよ別に、君と私の仲だろう? この程度些細な問題でしかないさダナン」
「そうか。煙草があるなら一本くれないか? 目覚めの煙が欲しい」
「どうぞ」
「すまない」
グローリアから煙草とマッチを受け取ったダナンは、射抜くような視線を向けるイブを他所に煙草に火を着ける。紫煙が舞い、真っ赤な火種が燻った。
「ダナン」
「何だ」
「煙草、止めなさいよ」
「無理なことを言うなよイブ。何を言われても俺は煙草を止めない。それはお前も理解している筈だ」
「健康に悪いし、肺癌のリスクも跳ね上がるのよ? 百害あって一利無し。火種ごと斬り落とすわよ」
「まぁまぁイブちゃん、煙草の一本や二本許してやってもいいんじゃないかな? 確かに健康には悪いけど、集中力を高める作用もあることだし」
「ちゃん付けしないで貰える? 貴男がダナンの友人であったとしても、私にとっては他人なの。気安い言葉は軽く見ている証拠よ? ダナンのお友達」
「イブ」
「何よ」
「アイツの名前はグローリアだ、お友達なんて名前じゃない」
「知ってるわよ」
「そうか」
ダナンが吐いた紫煙を手で払うイブ、それを見かねて車内の換気機構を調整するよう指示するグローリア。先程までの剣呑とした空気は何処へやら……ダナンが目覚めたと同時に車内は僅かな緊張感が混ざった軽妙な雰囲気に包まれる。
「イブ」
「何よさっきから」
「身体の具合は大丈夫か? 調子が悪いならもう少し休んでいろ、部屋まで背負ってやる」
「……問題無いと言えば嘘になるわね、銀翼とルミナが正常に作動していないわ」
「……そうか」
先が短くなった煙草を窓から放り捨て、腕を組んだダナンは同じように腕を組むイブを一瞥する。
イブの様子は至って普通。顔色も悪くなく、息遣いも正常値の範囲内。汗が浮かんでいようとも流れ落ちるようなモノではなく、滲む程度。だが、七色に輝く瞳は僅かに陰り、何処かボヤケているように見えた。
「ダナン」
「何だグローリア」
「彼女、君の恋人かい?」
「……馬鹿を言うな、そんな筈があるかよ」
「そう? 仲が良いと思って聞いんだけど……うん、安心した」
「何がだ?」
「ダナンが一人じゃないと、本当の孤独に取り残されていないと思ってね。イブちゃ……イブさん」
「なに? ダナンのお友達」
「彼とこれからも仲良くしてやってくれないか? イブさんになら、ダナンが危険を犯してまで助けようとした君にならお願いできる。だから」
「……さん付けは必要無いわ。私も貴男をグローリアと呼ぶから」
「……」
「私とダナンは協力関係にあるし、それまでは互いに互いを信じる必要があるの。だからお願いされなくても仲良くするわ。あの娘にも頼まれたもの……ねぇ、ダナン」
窓の外を眺めていたダナンが頷き、それを見たグローリアは微笑みながらホッと胸を撫で下ろし。
「本当に……良かった」
再びダナンの脇を小突くのだった。