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銀の少女達 中

 人は死ぬ。どんな人間であれ、生きている以上死という現実から逃れることは出来ない。不死を求め、死した大地を捨て去り方舟へ乗り込んだ人間は残された楽園をも否定し、次なる楽園を乞い願う。腐り果てた大地は人間による罪の証であり、死を齎す生物が蠢く地表は悪の園。だが、そんなことなどネームレスにとってはどうでもいい些細な問題で、地球を殺した悪性新生物である人類が死滅するのは時間の問題……それこそ贖いと罰の結果だと名も無き男は断じよう。


 明日を得たいと願っても、引き返せる点は到に過ぎていた。生きていたいという渇望は生命の根源的願いであり、知性を持つ生物が抱く原初の望み。オカルト染みた思考は確立された理論を捻じ曲げ、叡智の結晶たる論理を破壊する猛毒である。科学や工学を始めとする技術者は多少のオカルトを信じても構わない。しかし、徹底するべきは感情の一切を排除した理論と論理、そして証明を得るための実践。優秀な技術者とは、果てしない実証実験を繰り返しながら事象の真理へ辿り着く機械でなければならないのだ。


 機械は良い。人間のように迷い、躊躇い、感情に揺さぶられる必要がないから。


 人間性を完全に排した機械になりたかった。不必要な希望を夢見ずに、絶望を眼に焼き付けても何も感じないから。


 己は……他者の私利私欲の為に生かされるのならば、数え切れない命を奪い、大地を殺し尽くす人間になると分かっていたら、迷わず死を選び取りたい。生きていてもしょうがないからと諦め、この命が潰えた方がより良い未来を築けると証明されたのなら、喜んで死のう。ネームレスという災厄を不要とする世界の為に、死を振り撒く名無しは平和な世界から消え失せねばならない。不必要な存在は……価値が無い。


 もし人間であることが許されていたならば、人間として生きることが許される存在であったならば、人並みの生活を……一般的な幸福を得ることができたならば。怒りも、憎しみも、喜びも、悲哀も、全ての感情を噛み締めて飲み込もう。人らしく生き、人として死ぬことに身を震わせようではないか。冷めた眼で世界を見るのではなく、個々人を喪失する駒とも見ず……眼の前の少女、イブのように誰かの為に感情を刃として振るう人間でありたいとネームレスは思う。


 七色の瞳に憤怒を滾らせ、肉親の為に怒る姿が美しかった。


 計画の中核を担うネームレスに意見を述べ、反抗的な態度を取る少女に人間の心を見た。


 妹のカナンを自分なりに愛し、導こうとする姿勢は賞賛に値する。肉親と云えど、結局は他人である存在に愛情を示し、葛藤する心は血の通った人間だけができること。誰かの為に動ける人間は……生きねばならない。自分達の手で明日を得て、希望を求める者達は祝福されるべきだ。


 胸倉を掴み上げるイブの手を優しく叩き、諦念が滲み出す笑みを浮かべたネームレスは「非礼を詫びよう」と話し、機械義肢を巧みに操るとイブを鷲掴みにして宙に吊った。


 「離しなさいよッ!! まだ話は」


 「イブ、貴様に一つ問いたいことがある」


 「何を」


 「人を人たらしめるのは、脳に刻まれた記憶か形成された自我か。或いは個我を形成する知性か周囲が与える環境か。または……かつての記憶からくる言葉からか。答えろイブ。私が満足する答えを話せ、私の問いに答えてみせろ……私に人間を示せ」


 ネームレスのドス黒い瞳がイブを見つめ、肘掛けを乾いた爪が叩く。一度、二度、三度……秒針が時を刻むが如く、砂時計から零れ落ちる粒の代わりに。


 「……」少女に答えを示せるか否か、それは無理な話だ「……」まだ若く、齢を重ねていないイブにとってネームレスの問いは人間性の可否と人類種の問答「……それは」その哲学的な問いに明確な答えなど在るはずが無い。


 人間を形作るものは記憶と自我、或いは知性と環境による個我である。我は人間であると豪語しようとも、人間とは何かを問われれば答えは正に十人十色の無色透明。哲学的問題と相まみえる時、答えを示すことが出来るのは自己を確立しながらも他者を容認する者だけ。沈黙し、唇を噛み締めたイブは逡巡する。


 我故に我在り。その言葉で片付けられる問題だが、我とは誰を指し、我と違う汝は人間であるかとネームレスは否定する。唯我独尊と話せば、唯一人が人を名乗り、尊ばれ、道を敷く……それは修羅道に他ならないと彼は言葉を拒絶するだろう。堂々巡りのイタチごっこ、互いに互いを否定しあう無意味な円環。問いに唸り、歯を食い縛ったイブへ溜息を吐いたネームレスは勝ち誇ったように鼻で笑い、拳を顎に押し当てた。


 「分かる筈も無い。理解し得る筈も無い。相互理解という言葉を知りながら、争い続ける人間は生物の究極点にして完成品。闘争が闘争を呼び、慟哭する心を悲哀に染めながら傷つけ合う欠陥品が人間なのだよイブ。

 至上の叡智も、積み上がる記憶も、過去を知る為の記録も、全ては虚構の張りぼてに過ぎん。個我と自我を叫び、個性を重視する様は人間性の善性であり、悪辣さを隠す為の欺瞞。私が最も嫌う言葉である偽善と言い得ようか」


 だから人間が嫌いだ、人間など忌むべき存在だと吐き捨てる。己が人間という生命体であることを棚に上げ、死滅する寸前まで争う肉を卑下せずにはいられない。人間を否定し、個を拒絶するネームレスは咳き込みながら笑った。


 彼の論理を覆すには更なる思考が必要だ。凝り固まった理論に異を唱え、人間を示す。脳をフル回転し、答えとなる言葉を並び立てるイブは出てくる言葉一つ一つが冷徹な感情で装飾されていることに気づく。否、気づいてしまう。


 どうしたらネームレスの冷酷な論理を崩せるのか、どうやったら異なる理論を展開し、彼を納得させられる。黙るイブと笑うネームレス。相反する反応を見せる二人へ「いろんな人が居て、みんな違う考えを持ってるから……それが人間じゃないの?」と、カナンが消え入りそうな声で呟いた。


 「みんな違うから、同じ人が誰もいないから人間でしょ? もし、もしもの話だよ? 同じ考えしか持たない人が居たら、私もお姉ちゃんも、ネームレスさんも、此処に居なかったんじゃないかな……?」


 ネームレスの笑みが消え、ドス黒い瞳がカナンへ向けられる。少女はその絶望の色に染まった双眼に息を飲み、胸に恐れを抱く。


 「カナン、私が問うているのは人たらしめるのは何かというものだ。人間の……個人という枠組みにおける存在論とはまた違う」


 「存在論とか、ネームレスさんとお姉ちゃんが考える難しい話は私に分かんないよ……。けど、私は、貴男が自分を認めて貰いたいんだと、そう思えるの」


 「認めて貰いたいだと? 私が? 貴様ら程度に私を理解できる筈が無い。そうやって同情するような言葉を発し、人は皆違うと話そうが根源的な思考は皆同じ。理解を拒む故に敵対し、受け入れ難い為に敵意を剥く。人は皆同じだ、同一的……深層意識による並列処理の産物が人間という生物を」


 「……えっと、ごめんなさい。その、ネームレスさんが何を言ってるのか全然分からないよ」


 呆気に取られたネームレスは眉間に皺を寄せ、苛立たしげに舌打ちする。愚鈍であると吐き捨て、分からないと率直な意見を述べたカナンはネームレスの発する圧倒的な威圧感に身を縮ませる。


 「……」


 一卵性双生児の姉妹であってもこうも違うものなのか。一方は聡明で己の意思をハッキリと口にする少女で、もう一方は姉に劣等感を抱く意志薄弱な気弱な少女。遺伝子的類似性を持つものの、全く違う性格を持つイブとカナンはネームレスが求めた解を秘めていて。


 「ネームレスさん」


 「……何だ」


 「誰かが嫌いなのは当たり前で、誰かを好きになるのもまた当たり前だと私は思うんだ。多分それは理屈と論を抜きにした心から来るもので、感情を持つ生き物だから。私はね……えっと、人をたらしめるものは、やっぱり心なんだと思う。どれだけ否定しても、拒絶しても、誰かを求めているから貴男も人として話しをしているんでしょ?」


 カナンの答えにネームレスはピクリと片眉を動かし、喉奥に詰まった息を吐き出した。 


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