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銀の少女達 下

 人間という生物は過ちを繰り返す愚痴なる生命体だ。悲しみに嘆き、些細な幸福に喜びを見出し、自分だけの楽しみに安堵する。他者への羨望に憎悪の業火を滾らせ、意見の相違は憤怒の狂気を呼び起こす。


 感情は命の老廃物であり、生命の汚濁に過ぎないのだ。情を持つ故に人は過ちを犯し、他者の心の機微を察知する感覚がある故に衝突する。争いを生み、擦れ違いを生み出す不可視の感覚器官は人間だけが持つ凶器……則ち虐殺器官に他ならない。


 徹底的なまでに感情を排し、無感覚でいられたら人間はより高次元の生命体へ昇華できるだろう。並列処理された思考回路を脳へ埋め込み、自我や個我と云ったアイデンティティを奪い、均一統合化した人格を持つ一つの機械になればいい。だが……そんなことは出来やしないのだ。一つの個となった人類が向かうべき結末は種の喪失であり、生物学的観点から見た人類は生物として絶滅する。人類種の保存を優先する塩基配列……遺伝子と呼ばれる存在は、生物の終焉を望んでいないし、何よりも個々人がそれを拒むだろう。


 人類は生物の究極に位置し、他の生物を喰らい、駆除しながら食物連鎖の頂点に君臨した。地球という美しい星を妖星へ変え、灰と砂塵が吹き荒れる大地に変えてでもゴキブリ以上の生命力を以て生き永らえている。命に対する執着とでも云えるのだろうか……死を否定する生き渋とさは最早種としての寿命に達している筈なのに、人間はまだ命を手離そうとしない。その姿は正に神と悪魔の集合体……魔神と云っても差し支えない。


 「……」


 しかし、神や悪魔等という架空の存在は現実には存在しない夢幻。それを恐れるのは失せた信仰を今尚信じ込む宗教者か、死に迫られた揺れる命を灯す者。老いによる寿命は幾ら改造を施しても逃れることは出来ず、クローンへ意識と記憶を転写するのにも限界がある。並列接続されたクローン脳へハカラに保存された記憶をインストールし、培養液に浮かぶ肉体へ脳髄ごと移植する。研究中の技術として存在する倫理を度外視した延命方法であっても、五百年が堰の山。人は必ず死ぬし、永遠を手に入れる筈も無し。


 命は失われる故に美しい。燃え尽きる命の輝きは玲瓏たる玉石のような輝きを発し、残された者へ癒えぬ火傷を刻み込む。命はたった一つの大切な資源、だからみんなで大切にしましょう。命、命、命……。賛美と虚偽で装飾されたメッキの讃美歌に何の意味がある。無意味な言葉を吐き続け、無価値な思考を垂れ流した先にあるものは不変だけ。道徳心や優しさを説いたとて、人は争い続けて戦争を止めなかった。まだ地上で生活出来る時代であっても殺人が起き、命は潰えて消えていった。言葉で命が守られるなら、思想で命を統制できるのならば綺麗な思考は不必要なのだ。理性で己を律することが出来ていたのなら、人間にとって感情は要らない。


 だが、人類が歩んで来た歴史は感情の道と例える事もできよう。絶え間なく紡がれた戦争も、悲劇に満ちた陰惨極まる事件も、差別と圧政を覆す為に行われた革命も、感情を基盤として起きた出来事だ。発達する科学技術は人に死と生を齎し、進化と改良を重ねた工学技術は手足の不自由さを克服してみせた。例えそれが戦争や破壊の為に培われた技術であったとしても、人類へ幸福を与えた事実はれっきとした現実である。


 何故人の手にあまる技術を開発し、運用してきたのか。それは一重に幸福の為だろう。降り積もる死の欠片の奥底に眠る小さな幸せを得る為に人は希望を求め、感情を武器に絶望と戦った。生きるか死ぬかの戦いだけでなく、理不尽を撥ね退ける為に涙を流しながら光を掴むのだ。感情とは力であり、明日へ進む為の原動力。それを排して機械になろうという思考は停滞を意味する。


 人間を示し、率直でシンプルな回答を口にしたカナンを一瞥したネームレスは深い溜息を吐くと納得したような笑みを浮かべ、肘掛けを指先で叩く。


 「……昔、貴様等が産まれる前、それこそ貴様等の両親も祖父母も産まれる前のことだ。私にはたった一人の友人が居た。名前は……あぁ、摩耗された記憶は奴の名を既に忘れているのだ。だが、あの男は」


 貴様等が知らない太陽の光のような男だった。眩しく、綺麗で、強い意志を持った私だけの英雄。培養液へ視線を移したネームレスは遠い過去を手繰るように宙を指でなぞり、削れ、砕けてしまった記憶の欠片を拾い集める。


 「私……俺はアイツに憧れていた。届かない理想に必死に手を伸ばし、守れる者を全て守ろうとした背中を羨んだ。この手には何も無いのに、ただ命を奪う為だけに存在している自分が無意味に見えてしまって、奴の理想を粉々に打ち壊しているような気がして、俺は俺自身が嫌で嫌で堪らなかった」


 消え入りそうな声で呟き、食い入るような目で培養液を見つめたネームレスは顔を手で覆い、疲れ切った眼差しを覗かせる。


 「憎んでいた。嫉妬していた。狂っていると罵った。だが、その度にアイツは何て言ったと思う? 嬉しいと言ったんだ……俺が弱音を吐いてくれていることを、人間としての感情を持っていることにアイツは喜んでいた……。貴様等に分かるか? 醜悪な感情を露呈する人間が相手に認められる羞恥が、太陽のような笑顔を向けられる苦しみが、貴様等に分かるかッ⁉ 分からんだろうよ……いや、理解されて堪るものか!!」


 感情を無くした機械であれば悩むことも無かった。感情を完全に捨て去り、与えられた役割を淡々と熟す機械であれば葛藤することも無かった。自らの問いに憎悪を滾らせ、認め難い感情の回答を耳にしたネームレスは皺だらけの顔に憤怒の色を宿し、狂ったように笑い「アイツじゃなくて……俺が死ねばよかったんだ」と窪んだ眼に影を落とす。


 友情を知らなければ悲しみに悶える事も無い。光を知らず、闇だけを見続けていたらそれが当たり前となる。希望に満ちた言葉は絶望に沈む心を掬い上げ、喪失の奈落へ再び叩き落とすのだ。知っている故に苦悩し、知らなかったと慟哭する無限連鎖。箱舟に生きる誰よりも長い時を生き、感情が人に与える苦痛を知るネームレスは人に成りたいと願いながらも、機械になりたいと祈る一人の人間。度重なる矛盾とジレンマを内に秘めた老人だった。


 「……俺は機械になりたい。どんな苦しみも、痛みも、苦悩もモノともしない機械になりたい……。人間性など不必要だ、俺という存在が……N.War Brain NO,0という機械だったらこんなにも苦しまずに済んだ……。もし機械として生きる事が許されず、人として存在することも許されないのなら……死んでしまいたい」


 乾いた笑いが部屋に木霊し、擦り切れた襤褸雑巾のような心を携えたネームレス。その姿にイブは悲しみと怒りを覚え、カナンは哀れさが色濃く映る瞳を向ける。


 きっと……自分達だけでは彼を救うことは出来ないのだろう。人類に絶望した老人を救えるのは、彼が口にした友人だけであり、ネームレスという個を認めた人間ただ一人。


 「ネームレス」


 「……」


 「貴男、ずっと後悔していたの? 後悔していたから人を遠ざけて、自分自身の感情を憎んでいたから人間を否定していたんじゃないの? ネームレス、私は」


 「イブよ」


 「……」


 「俺は一度も後悔しなかった時は無い。無慙無愧の鬼になれたらどれだけ良かったか、恥知らずで生きられたらこうして貴様等に人間を問わなかった。イブ、そしてカナン……心がある故に人間は人という枠組みから逃れられず、己を形作る殻を形成するに至るのだ。情がある故に……人は人間として生きるのだよ」


 そう言ったネームレスは瞼を閉じ、乾いた指先で肘掛けを叩くのだった。




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