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篝火を辿って

 希望を諦めた故に絶望し、両の目を光から背けた故に闇を見続けた。陽光に照らされる醜悪なる心は認め難い己を否定し、失せた理想を叶わぬ夢と認識させる。


 人に夢と書いて儚いと読む。その言葉に感心させられたし、尤もだと頷いた。夢と称すべき理想の追求は、人が手にしたいと願う明日そのもの。到の昔に果てたと思われた夢を、心做しかに追い続けていた己は何と愚鈍な者だろう。明日を得たいとする者を嘲笑い、希望を手にしたいと足掻く姿に口角を歪ませる愚者。それが己……ネームレスと呼ばれる個体なのだ。


 光に満ちた心を直視できないから眼を閉じ電子の海を揺蕩い泳ぐ。激情を焚べる希望を否定したいが為に答えの無い問い掛けを口にして、相手が迷い、躊躇う姿に自己を投影する。悪意を纏った悪辣さ……恥ずべきは己であり、答えを示すことが出来ない者で無し。


 思考に耽り、薄い息を吐いたネームレスはイブとカナンをジッと見据え、機械義肢を唸らせる。この少女達が希望という名の概念を体現する存在であるのなら、それはきっと間違いではないのだろう。未だ拙く幼い希望の芽は守らねばならぬ。アイツならば……記憶の残滓と成り果てた友人ならば、命を掛けて守ることを選択する筈だから。


 「カナン」


 「は、はい」


 「貴様の答えは俺……私を納得させるに十分な言葉だった。誇れ、貴様は決して姉よりも劣った存在ではない。背筋を伸ばし、胸を張り、愚直なまでに自分自身を追い求めるがいい。さすれば貴様は真に優れた賢人となろう」


 「は、はい……」


 「イブ」


 「……」


 「貴様は私と同じで随分と頭が固いようだな、幼き身で大人と同等の土台に立つことなど不可能なのだ。貴様は人に甘えることを覚えよ、そして鏡合わせである半身に己を見るな。貴様は貴様、カナンはカナン……我故に我在り。何れにせよ、運命を背負うには時期尚早……子供が大人に成ろうと足掻くなよ」


 先ほどとは打って変わって優しげな眼差しを向けるネームレスの瞳に憎悪や憤怒の色は見られない。未だ微かな諦念の焔が揺らめこうとも、人間を否定していた男とは思えない安らぎを得ているようにも見える。


 「……ネームレス」


 「何だ、イブ」


 「……アイツって、貴男の友人はどんな人だったの?」


 「……アイツは、私の太陽だったのやも知れぬ。貴様らは知らぬであろうが、過去の空は灰色ではなかったのだ。何処までも透き通る蒼穹が空を覆い、群青の海が広がる果て無き青……。アイツは青空が好きだと話していた」


 電源が落ちていたモニターが白く照り、記録映像を映し出す。画面を指差したネームレスは「これが青空と海、緑の木々だ」と過去を懐かしむように目を細めた。


 何処までも広がり続ける空の大海、小波を立て陽光を反射する碧のうねり、緑の草花と木漏れ日が差す新緑の大地。大戦によって死滅する前の美しい自然風景は、方舟と云う閉ざされた機械の楽園しか知らない少女達の心を惹きつけ離さない。


 「Project.EDEN……それが貴様等の両親が、その仲間達が成し遂げようとしている計画の名だ。方舟という小さな世界の支配者から未来を取り戻し、明日に産まれる子供たちの為に希望を取り戻す。私はな、彼らは馬鹿だと思うし、阿呆だとも思う。だが……今ある命よりも、明日の命の為に計画を成し遂げようとする者は英雄だと断じよう」


 「Project……EDEN?」


 「そうだ、楽園の名を冠する計画は支配者の視点から見れば、完成した世界を破壊する悪なる蛇の唆し。不死の黒蛇は楽園を破壊する悪であり、天から追放されたサタンである。だが……見方を変えればサタンこそが聖書に綴られる人類の救世主とも思えよう」


 ネームレスはサタニズムを肯定しているのではない。無知蒙昧なる人類に知恵の果実を口にさせ、神の叡智を与えた黒蛇は楽園の破壊者であり、人類へ原罪を植え付けた根源である。浄化できぬ原罪は罪悪を生み、罪悪は混沌たる汚濁を垂れ流して人を蝕み堕落させる。しかし、罪と罰を背負うことこそが人間なのだ。人間であるかぎり罪悪から逃れることは出来ず、原罪浄化の宿命を果たすことは叶わない。サタンは悪であるが、神の土人形たる人間を人へ成長させた救世主とも捉えられる。


 「カミシロ……貴様らの父と私は方舟の支配者にしてみればサタンそのものだ。支配者という神に従順なフリを見せつつ、反抗の機会を虎視眈々と狙う反逆者。そして既存の楽園を破壊し、新たなる楽園を創造する為に必要な存在こそがイブとカナン、貴様らなのだ」


 故に、今はその時では無く、幼き者が知る事ではない。計画を語り終え、一つ息を吐いたネームレスは怖気づく少女達を見る。


 無理もない……自分達がこんな重い宿命を背負っていたと知ったら、大の大人でも震えてしまう。本来ならばもっと後……イブとカナンが使命を受け止める準備が出来た時に話す手筈だった。しかし、人の輝きを、希望の象徴たる光を見せつけられてしまっては話さずにいられなかったのだ。


 「……ネームレス」


 「……」


 「もし、もしもの話よ? 私達が計画を成し遂げて、楽園を手に入れたら貴男はどうするの? ずっとこんな部屋に閉じ籠もって、モニターとにらめっこして生きるつもり?」


 「後のことなど考えていない。私は長く生きすぎた……もう死なせてくれ」


 「ネームレスさんッ!」


 「……」


 「あの、えっと、ネームレスさんは色々なことを知ってるんですよね? なら先生になったらいいんじゃないんですか? あの、方舟の外は広い世界があるんですよね? だったらその後、先生の数が足りなくなると思うんです! だからネームレスさんは自分の知識を広めたらいいんですよ!」


 自分達の宿命を知って尚、この子らは絶望しない。それ以上にネームレスの今後に思いを馳せている。その瞳に宿る意思は闇を照らす焚き火のように燃え上がり、迷い人を導く篝火のよう。


 計画を成し得た後のことなど一度たりとも考えなかった。満足する死を……遣り遂げた満足感の中、人として死にたいと願った。機械のような合理性や効率性を得られずに、普通の人間のように生きられないのであれば、せめて人らしく命を終えたかった。


 「……阿呆めが」


 死にたいと祈っても、二人の目を見てしまえば生きたいと思ってしまう。生きて、二人の成長を見守りたい欲が出てしまう。


 「だが……」


 それも良いのかもしれんな。柔らかな微笑みを浮かべたネームレスは朧気な未来に夢を馳せ、静かに笑った。


 「だからネームレス、死にたいとか消えたいなんて言うのは無しよ? もしそういう風に思ったら、生きたいって言いなさいよね。死んでも生きるの。生きて、生きて、生き延びてみせて。そうしたら……貴男も何か見えてくるんじゃない? 生きる意味とか」


 「……手厳しいなイブ。しかし、そうだな、貴様の言う通りかもしれん」


 「ネームレスさん、よかったらなんですけど……私達に色々教えて頂けませんか? その、先生になる準備というか、練習というか……」


 「いいだろう、教師という役割は一度経験したことがある。次に私の部屋に来る際はノートと筆記用具、ノートPCを持ってこい。此方でも準備しておこう」


 手を振り、部屋を後にする二人の少女を見送ったネームレスは安楽椅子に背を預け、安堵と緊張が入り混じった溜息を吐き。


 「……誰かを守るために手を尽くす。お前もこんな気持ちだったのか? ダナン……」


 砕けた記憶の破片から拾い上げた、掛け替えのない友人の名を呟くのだった。


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