イブが記憶する父の姿は草臥れた白衣を着て、いつ何時も申し訳無さそうな顔を浮かべる眼鏡の男の姿だった。白髪混じりの黒髪と痩けた頬、色濃く残る目元のくま、父の傍に近寄ると香る煙草の臭い……。何度煙草を止めるように注意しても、イブの父は煙を燻らせ疲れた笑みを顔に張り付け意味のない謝罪を口にする。それが少女は堪らなく不快に感じ、語気を強めて忠告するかのように遠ざかる。
何故あんな身体に悪いものを肺に入れるのか理解できない。煙草を吸うという行為に合理性の欠片も無く、一時の効率性を得るために時間と命を削ることは非合理的行動だ。科学者であり、技術者でもある父もその事実を理解しているし、無駄で無意味だと頭では分かっている筈。なのに煙草を止められない。遠目でキーボードのキーを叩く父の後ろ姿を眺めたイブは深い溜息を吐き、研究室の扉を開けて母とカナンの居るリビングへ移動する。
母の胸に甘えるように顔を埋めるカナンを見て、幸せそうだと嫉妬した。柔らかな微笑みを浮かべながら己の顔を見て、手招きする母の姿に自分も甘えてしまおうかと逡巡する。だが、イブはそれを拒絶するとテーブルの上に勉強道具を広げてHHPCのホロ・モニターを展開した。
背負った使命から逃げてはならない。産まれた瞬間から決められていた宿命と向き合わねばならない。運命は時間とともに迫り、影のようにピッタリと張り付くもう未来なのだ。聡く、賢く、大人びた雰囲気を纏わせるイブは胸に燻るネームレスのアドバイスを無視し、課せられた役割と対峙する決意を固めていた。
「イブ」
「何? 母さん」
「少し休んだらどう? ずっと勉強しっぱなしじゃ疲れてしまうわ」
「……」
無言でペンを握ったイブはモニターに映し出されるアバターAIの言葉をノートに書き取り、理解できなかった部分をキー入力で質問する。
「お父さんの研究、まだ時間が掛かりそうだった?」
「……」
「お夕飯、イブが食べたいものを作ってあげる。何が食べたい? カレー? ハンバーグ? それともお鍋とか」
「何でもいい」
「……」
「少し静かにしてよ、母さんはカナンの相手をしてあげて。私は大丈夫だから気にしないで」
「イブ……」
髪を掻き上げ、一本に纏めたイブはHHPCと勉強道具を脇に抱えて自室へ戻ろうとする。扉のノブに手を掛け、母を視界の端に収めながら。
母の心遣いは十分に理解している。妹のカナンにだけじゃなく、己にまで気を回そうと努力しているのも分かっている。しかし、それらを知っている故にイブは姉としての立場と役割に徹しようとしていた。母の愛情を目一杯に受けるカナンに嫉妬し、己とどう向き合おうと試行錯誤する母に罪悪感を覚えて。
「イブの好きなもの作っておくからね? だから」
「時間になったらまた来るから。母さんは何も心配しないで」
リビングの扉を開け、短い廊を歩いた先にあるカナンと共用の子供部屋へ戻ったイブは、整理整頓された机の上に抱えていた物を置くと椅子に腰掛け溜息を吐く。
血が繋がった肉親であろうと、血を分けた妹であろうと、所詮は他人。家族とは他人が寄り添って集まる群でしかない。群に属する個体がそれぞれ異なる意思を抱いていたとしても、結局は各自各々の自由意思の表れなのだ。故に、こうして母の愛情をカナンへ譲り、嫉妬心を抱くことは不自然でもなんでもない。
だが……机の端に置かれた写真立てに写る家族写真を目にしたイブは、もう一度深い溜め息を吐き、それを手にすると細い指で撫でる。
ぎこちない笑顔を浮かべる父と、今と変わらない美しさで微笑む母。顔いっぱいの笑顔を浮かべる姉妹。七歳の頃の写真だっただろうか……綺麗な衣装を着て、幸せを疑わない無邪気な自分。過去と現在の乖離を知らなかったら、役割と立場を理解せずにいられたら、どんなに幸せだっただろう。いや、そもそもこんな思考は間違っている。
単に己は逃げ出したいのかもしれない。使命や立場、役割を放棄して一人の少女として両親に甘えたいのだ。しかし、その甘え方が分からない。分からないから愛情を満足に享受することが出来ず、妹へ押し付け嫉妬する。自分で作り出している感情の牢獄はイブを雁字搦めの格子で繋ぎ、更なる悪感情を生み出す源泉にする。そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、自己嫌悪に苛まれ、暗い心の底に沈んでしまう。這い上がる術も知らず、浮上する方法も分からずに。
誰かに助けを求めることは出来ない、これは自分が作り出した牢獄なのだから。
誰かに救って貰おうとは思わない、己が心を救えるのは自分だけなのだから。
誰かに頼ることは出来ない、それは自分自身に負けてしまうことを意味しているのだから。
誰かに……家族にも、イブという少女は助けを求めない。家族という他人に救ってもらったとしても、己が納得しなければ助けは意味を成さないから。
本当に……本当に面倒臭い人間だと自分でも思う。少しでも変わることが出来たのなら、甘える方法を思い出すことが出来たのなら、あの頃に戻ることも出来る筈。だが、そんなことをしてしまえば今の自分を否定することに繋がってしまう。今を否定してしまったら、これまで築いてきたものは何だったのかと、歩んできた道程は全て間違っていたと気づいてしまう。肯定は否定を呼び、否定は拒絶を生む。それは余りにも……馬鹿馬鹿しい。
写真立てを胸に押し付け、膝を抱えたイブは長い銀髪で顔をベールのように覆い隠す。見えない涙を隠すように、心が喚く迷いを遮断するように、頭を垂れる。机のライトが銀の髪を煌めかせ、白磁器のような白い肌を照らす様はまるで完成された美術品。絵画の世界から現実に迷い出たと思わせる少女は、白と黒の中で苦悩する。
「……」
こんな心理状態では勉強など手につかない。今日は母の言う通り少しだけ休むべきか。HHPCの電源スイッチに指を這わせ、ホロ・モニターを落とそうとしたイブの目に一件のメール通知が映る。見たこともないアドレスは文字化けしたような単語を並べ立てており、誤送信かシステムエラーによるメッセージかと判断したイブは怪訝な眼差しでメールを見つめ、消去を選択する。
「……え」
HHPCが操作を受け付けない。キー操作に切り替えても、スワイプ操作に変更しても、HHPCが一切反応しないのだ。不可思議な現象に困惑し、ハック・ツールを机の引き出しから取り出したイブは接続ソケットにハック・ケーブルを差し込み診断ツールを奔らせる。
「……」
電圧、回路反応、ソフトウェア、システムUI共に全て正常。ならば何が原因なのだろう? 外部からのハッキングによる遠隔操作? 違う、HHPCは管理者の権限無しでは起動すら出来ない高性能生体認証コンピューターだ。管理者でなくては、方舟の上層部ですら操作或いは起動できない情報装置。ならば何故……。
メールがぼんやりと明滅を繰り返し、タップするようイブの視線を誘導する「……」ウィルスによる感染を疑いながら、リスクを取るのは阿呆のすること。
一秒が一分にも感じる時間、生唾を飲み込みメールをタップしたイブは差出人の名を見て驚きと安堵を両方感じ取る。
『元気か? 私との秘匿通信プログラムを添付すると同時に、専用AIを送る。HHPCを腕に装着し、ルミナにインストールしろ』
メールの差出人はネームレス。そして添付されていた二つのプログラムはイブへの贈り物と、名前の無い男との通信プログラムだった。