秘匿通信プログラムと専用AIをHHPCへインストールし、デバイスを腕に装着したイブは己の肉体に埋め込まれているナノマシン……ルミナを介して脳へ直接プログラムを書き加える。
二つのプログラムは生体プロテクトシステムを応用した高度なセキュリティシステムに守られており、イブ以外の人間がそれらを利用しようと彼女のHHPCやルミナに干渉した瞬間、プラグラムに仕掛けられたバックドアセキュリティによりネームレスのカウンターハックを喰らう。
イブへ危害を加え、尚且つ彼女を利用しようとする行為は箱舟の管理者たるネームレスへの反逆であり、勝ち目のない負け戦を自ら仕掛けること。箱舟全域に張り巡らされたネットワークを完全に掌握し、二十四時間三百六十五日休まず箱舟全体を俯瞰監視するネームレスは敵対者の居場所を瞬時に突き止め、報復行為に出るだろう。自らの手を汚す事無く、自動管理された異分子排除機構を起動して敵を始末する。その姿は正に機械仕掛けの神……デウス・エクス・マキナと言って相違無い。
プログラムのインストールを終え、瞼を開いたイブは七色の瞳を輝かせHHPCを腕から外す。一つ息を吐き、HHPCのホロ・モニターを展開したイブの眼に一件の新着メッセージが映る。
見た事も無いUI表示とソフトウェア名。それもその筈、秘匿通信プログラムはネームレスが一から組んだ特別製なのだ。このソフトウェア・プログラムの存在を知っているのは少女と老人だけであり、二人だけの秘密……。誰にも話せない機密事項に胸を昂らせ、興奮した面持ちでメッセージを開いたイブは『管理者イブ、マスターから通信です』と、聞き慣れない機械音声を耳にする。
「だ、誰?」
『私の名はネフティス。マスター・ネームレスより管理者イブ専用に調整された戦闘支援AIで御座います。以後お見知りおきを』
「ネフティス……? 貴女、AIなの?」
『はい、貴女の戦闘行動を支援するよう組まれた存在が私で御座います。マスター・ネームレスからは何も聞かされていないのですか?』
「いえ、まだ何も……」
『そうですか、状況を把握しました。管理者イブ、先ずはマスターとの通信を開始することをお勧めします。それと、私は貴女のルミナに組み込まれていますので、口頭会話は不要です』
「……そう」
咳払いをしたイブはHHPCに折り畳み式小型キーボードを繋ぎ『終わったわ、ネームレス』と入力する。
『ならば結構、戦闘支援AIはルミナに馴染んでいるか? イブよ』
『えぇおかげさまで。どうしたの? いきなり』
『連絡手段が必要だと思ったからこういった手段を取った迄。イブ、カナンと一緒に来る時はこのメッセージソフトを使って私に連絡しろ。通常の手段では私と連絡を取る事は不可能だ』
『どうして?』
『箱舟に生きる人間が私という存在を知らぬように、ネームレスという名前を知る人間は極僅か……それこそ貴様等とその両親のみ。尤も、愚かな支配者は私を個体識別名称で呼ぶが、ネームレスという名を知る者は存在してはならぬ。聡い貴様なら分かるだろう?』
「……」
キーを叩く手を止め、顎に指を当てたイブは目を細め頷く。
ネームレスを知る……否、彼の名前を知るだけでそれ相応のリスクが付き纏うのだろう。自動化された異分子排除機構の銃口が何処からともなく現れ、全身を蜂の巣にされる様を想像した少女を身震いしながらキーを叩き『肝に銘じておくわ』とメッセージを送る。
もしかしたらメッセージソフトを使う方法も、己が不用意にネームレスの名を口にしない為なのだろう。これは彼なりの心遣いであり、イブとカナンを守る術。自室から動く事が出来ない故の防衛策であり、戦闘支援AIはもしもの場合の切り札として見るべきか。一つに纏めていた銀の髪を解き、一人納得した少女は冷えた肩を擦った。
『カナンにも貴様と同じプログラムを送るが、構わんだろうな。貴様と同じで運命と使命を背負った娘だ、私との通信手段を用意しておいた方が都合が良いだろう』
『駄目』
『何故だ? 非合理的返答に対して質問させて貰う。何故貴様は私の提案を拒否する。答えて貰おうイブよ』
『あの子は……カナンはまだ自分の使命と運命に対して心の準備が出来ていない。そんな子に対してコレを送るのは危険よ。カナンが必要とした時に渡せば』
『貴様は私の提案をリスクと断じるが、その先にある破綻を念頭に入れていない。いいか? カナンもネームレスという言葉……名前を知っているのだ。日常生活の中で私の名を口にし、支配者の耳に入ったら貴様はどう責任を取るつもりだ? 全ての責を貴様のような小娘が背負える筈が無かろうに』
「……ッ!!」
ネームレスの何気ない言葉に心の臓がキュウッと締め付けられ、背筋が凍る。
『貴様は本当に私の話を聞いていたのか? イブよ、アレは単なる言葉の羅列ではない。忠告なのだ。他者を信用する事が出来ず、甘えることも出来ず、救われようともしない人間は沈んで奈落に消える塵芥と同じだ。貴様が思っている程にカナンは……貴様の妹は弱くない。下手すれば貴様よりもずっと強い人間になるだろう。良くも悪くもな』
それとも何だ? 貴様は姉という存在が、妹よりも常に勝り、劣ってはならないと思っているのか? ネームレスの音の無い声がメッセージとなってホロ・モニターに漂い、イブの精神を、触れられたくない場所を引っ掻き回す。
「……貴方に」少女の細い指がキーを叩き『何が分かるのよッ!! 私の何が、家族でもない貴方にとやかく言われる必要なんてないッ!!』感情を文字にして吐き出す。
『私は強くなくちゃいけないの!! 誰よりもモノを知っていて、カナンを導いてあげなくちゃ……手を引いてあげなくちゃいけないのッ!! あの子はいつも泣きそうな顔をして、怯えていて、怖がってるッ!! 臆病なのよ……私が守ってあげなくちゃ、姉としてカナンに背中を見せてあげなくちゃいけないの……』
『イブよ』
「……」
『私は貴様の家族でもないし、昨日今日出会ったばかりの他人だ。他人故に家庭の問題に口を出す事は出来ないし、他者であるが故に貴様の心も知ったことかと一蹴出来る。だが、忠告と警告は出来よう。何故か分かるか?』
『……知らないわ』
『貴様の論理と同じこと。年長者だから若者を、期待する者へ道を示すことが出来る。他者であるが故に状況を俯瞰し、助言を与えることが出来るのだ。イブ、貴様とカナンは魂を二つに分けた双子だが、思考と感覚は別物である。家族であろうとも他人は他人だが……寄り添えるのもまた他人であること忘れるな』
「……」
『イブ、お前の双肩には使命や運命と云った思い枷が縛り喰らい付いている。しかし、それはカナンも同じなのだ。重過ぎる宿命は人を殺し、かけがえの無い想いすらも灰燼に帰すだろう。程度の差はあれど……それを同じ目線で見てくれる者が居るだけで人は救われるのやも知れぬ。生憎私にはそんな酔狂な奴は一人しか居なかったが……アイツはもう死んだ。私の苦痛も、苦悩も、到の昔に汲んでくれる者は存在しない。イブよ……貴様は、貴様だけは私のようになるな。誰かを救える、誰かに救って貰える者に成れ。いいな?』
『ネームレス……私は』
次のメッセージを送ろうとしたが、それは通信途絶という文字に塗り潰され、掻き消される。イブが何度メッセージを送ろうと、箱舟のネットワークはネームレスとの通信を開かない。
「……」
自己を見るのは他者であり、他者を見るのはこの両目。ならば……その人と言葉を交わし、寄り添うのは自分自身。
小さく頷いたイブは椅子から立ち上がり、扉を開くと家族が待つリビングへ足を進めた。