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家族 下

 誰だって、人と向き合うことが恐ろしくなる時がある。その対象が家族という存在であったとしても、話しを切り出すタイミングを見失ってしまえば迷いが生まれるものだ。


 リビングへ続くドアノブを握り、掌の熱で温かくなった鉄の感触を肌で感じたイブはどうしたものかと逡巡していた。両親に何と話せばいいのか、カナンとどう向き合えばいいのか分からない。使命に関する話しをしたら、自分はきっと己が心を騙してまで強がってしまう。カナンに対して強い姉を演じ、歩むべき道を示す為に本音を押し殺してしまうだろう。それは余りにも……情けなく、弱々しい心だと嫌になる。


 甘え方が分からない。弱さの見せ方を忘れてしまった。いや……己は恐怖しているのだ。期待に応えられない姿を見せることに、年相応の弱さを曝け出してしまうことに。


 頭を振るい、細長い溜息を吐く。心が叫ぶ悲鳴を声無き声で押し出し、ギュウと掴んで離そうとしない手の力を少しずつ抜いたイブは自室へ戻ろうと踵を返す。仄暗い廊の闇を幼い七色の瞳に宿しながら、家族が居るリビングへ背を向ける。


 人はそう簡単に変われない。ネームレスの助言に耳を貸そうとて、イブ自身が変わる決意を心に抱かなければ精神的変化は得られない。その事実を彼女は理解しているし、実行しようと足を進める意思もある。だが、凝り固まった思考は少女の決意を蔑ろにして踏み躙り、産まれた意味と課せられた使命に不必要な生き方だと吐き捨てる。


 「……」


 もし計画を完遂することが出来て、地上で生きられるようになったら己はどうなるのだろう? 使命と運命を見続けて、その役割に従属してきた己にそれ以上の価値はあるのだろうか? 分からない……未来が見えないから、明日の希望が見えないから恐ろしい。何も無くなってしまう両手を見るのが堪らなく恐ろしい……。


 「イブ? どうしたの?」


 「……ッ!?」


 ビクリと肩を震わせ、背後を振り向いたイブの眼に母の姿が映った。扉を開け、リビングの明かりを背にした母の顔は暗い影によって黒く染まり、相反する輝きを魅せる銀の髪が星屑のように煌めいていた。


 「ご飯出来てるわよ? 疲れたでしょう? こっちへいらっしゃい」


 「……」


 「イブ?」


 慈愛に満ちた優しい声と、差し出される白く艶めかしい手。影によって塗り潰された母の顔をジッと見つめた少女は小さく頷き、その手を握る。


 柔らかく、しっとりとした冷たい掌。病弱とは言わないが、母は身体が丈夫な方ではなかった。風邪をひきやすく、髪をしっかりと乾かさないと直ぐに熱を上げ、酷い時は肺炎に成りかけていたことをイブは知っている。母に心労を掛けることはしたくない。しかし、齢不相応の落ち着きと複雑な心を持つイブは彼女の両親にしてみれば手が掛からない反面、何を思ってどう考えているか分からない少女だったのもまた確か。


 「晩ごはん、イブの好きなものを作ったからね?」


 「……えぇ」


 「ハンバーグとカレー、好きだったでしょう? たくさん食べてもいいのよ?」


 「……」


 「イブ?」


 本来ならば子供らしく喜ぶ素振りの一つでもしたら良かった。そうしたら母は不安そうな顔をせず、苦笑いにも近い微笑みを浮かべなかった。それに気づいてしまったイブは取って張り付けたような笑顔を咲かせる。


 「……イブ」


 「なに? 母さん」


 「何か悩み事でもあるの?」


 母の言葉にイブの心臓が早鐘を打ち、キュウと胃が締め付けられる。


 「なにが? 悩みなんて何も」


 「……お母さんね、心配なの」


 「……」


 「何時もイブに苦労を掛けさせて、甘やかしてあげることが出来ない。その度に貴女は何処か……お母さんもお父さんも知らない内に大人になっていって、齢不相応に振る舞おうとしてしまう。子供らしさよりも……自分自身を子供以上に見せようと無理してしまうことが心配なの」


 ネームレスとの通信や出会いは気づかれていない。そのことに安堵したイブは母が求める言葉を頭の中で組み立て、言葉にして発する。


 「問題ないわ、私は姉だもの。カナンには母さんが必要だろうし、父さんとみんなが成そうとしている計画も私が必ず完遂する。だから何も心配しないでよ……私は大丈夫だから」


 「……」


 大人が好むような、大人が安心するような言葉を理屈を付けて声にする。そうしたら必ずみんな安心したような溜息を吐き、己の言葉を信じて離れて消える。


 これは言葉の鎧なのだ。論理や理論を無視した理性の鋼。感情によって形成される矛を弾き、不安の剣を穿つイブが取る防衛機制。弱さを悟られず、強さを見せつける棘の鎧は触れる者の指を傷つけ、遠ざけ、彼女を孤独の沼へ突き落とす。


 大丈夫なんて言葉を吐く人間が、本当に大丈夫な筈が無い。問題無いという言葉は問題をひた隠しにする嘘であり、偽りに過ぎない。心配して欲しくても、誰かを安心させる為に慟哭を抑えて虚勢を張る。イブが取る行動は幼い少女をより過酷な道へ引きずり込み、灼熱の溶鉄で舗装された地獄へ誘う自傷行為そのもの。


 「母さん、私のことは」


 何も心配は要らない。それを口にしようとしたイブを母が抱き締め、頭を撫でる。


 「……何時も」


 「……」


 「イブはまだ子供なの。子供は子供らしく、大人に甘えてもいいの。誰が何て言おうとも、貴女は我儘を言う権利がある。義務を負うのは大人だけで、イブはまだ子供の権利を振り翳していい。だから無理しないで。自分から誰かを遠ざけても、離れようとしても、私達は貴女の帰る場所を守って、待っていてあげる。それが……家族でしょう?」


 久方ぶりに感じた母の温もりは記憶していたものよりもずっと温かく「……」イブの心を縛り付ける枷を外すには十分な熱量で。


 「悩みがあるなら話して欲しい。言葉に出来なくても、メッセージや手紙で教えて欲しい。イブ……貴女が家族をどう思っていたとしても、親は子を想うものなの。憎まれていても、怒りを向けられても、その手を握っていたいと思ってしまう……。喜びを分かち合って、悲しみも分け合って……支え合うのが親子だとお母さんは思うわ」


 家族など所詮は他人同士で、元を辿れば他人の寄せ集めでしかない。人が他者を理解できぬように、家族……親子であったとしても相互理解は不可能なのだ。しかし、肉親故にだろうか……母の言葉はイブの纏う鎧を打ち砕き、その奥に隠された心を剥き出しする。


 「……私は」


 「……」


 「甘えても……いいの? 父さんと母さんに……カナンみたいに甘えてもいいの?」


 「えぇ、いいのよ。イブはまだ子供なんだから……私達みたいに大人の責任とか、そういう難しいことを考えなくてもいいの。イブ……他の人に甘えられなくても、私達の前だけでも子供らしく生きて。カナンと一緒に……ね?」


 「……」


 自然と流れ落ちた涙を拭い、嗚咽を漏らしたイブは母の両手を握り、頷き返す。


 甘える方法が分からなくても、弱さの見せ方を忘れてしまっても、その心を汲み取ってくれる誰かは掛け替えの無い存在。母の愛情を間近で感じ、重なり合う肌から響く心臓の鼓動に身を任せるイブは「……ありがとう、お母さん」と呟いた。


 「お母さん」


 「なぁに? イブ」


 「ご飯、早く食べよう? えっと……カナンも、お父さんも待ってるから」


 「急がなくても何も消えやしないわ。だから」


 「だから?」


 「健やかに……ね? イブ」


 「……うん!」


 明るい笑顔を浮かべたイブは母の手を引きながらリビングへ進み、母もまた少女の後を追う。光り輝く団らんの場へ足を進めるのだった。


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