ふと、意識が現実に引き戻される感覚がした。
「……」
懐かしい夢を見ていた気がする。遠い過去……それこそ二百年以上前に存在していた家族の記憶と、名を失った男との出会いの記憶。ぼんやりと立ち尽くすイブは頭を振るい、ピリピリと痺れる指先を擦り合わせる。
「……此処は」
くすんだ部屋とモノクロトーンの視界。目に見える景色が水底に沈んだ水彩画のように解れ、曖昧な色調を醸し出す。革張りのソファーからは中のスポンジが飛び出し、戸棚に並べられた食器類は床に落ちる手前で停止する異常な光景。イブが身を寄せるダナンの部屋と酷似した一室は、彼女の記憶と同じでありながら何処か違う様相を七色の瞳に焼き付ける。
これは幻……夢の続きなのだろうか。ハカラ・デッキに接続された己は未だ目覚めておらず、神経系統の治療―――修復を続けている真っ最中の筈。ならばこの一室は同じデッキに接続されているダナンの記憶、その断片。
「……」踵を返し、玄関へ向かおうとしたイブへ「挨拶もせずに帰るたぁ礼儀がなっていないね、お嬢さん」と聞き覚えの無い男の声が木霊した。
「……誰?」
「人に名前を聞く前に自分から名乗るものだろう?」
「……」
「だんまりか? まぁいい、大目に見ようじゃないか」
イブが視界の端に捉えた男の姿は古風なカウボーイだった。煤けたコートに銃痕が残るハット、黄緑のラインが奔る機械腕。白い顎髭を伸ばし、煙草を口に咥えた男……もとい老人は黒い影で覆われた眼を銀の少女へ向け、ニヒルな笑みを浮かべる。
「……イブよ、貴男は?」
「ジョン・ドゥ」
「冗談は止めて。名無しの権兵衛とでも言いたいの?」
「お前さんがそう思いたいのなら、そう思えばいい。思いたくないのなら、自分の中で否定しな。とにかく……此処じゃ俺はジョン・ドゥと名乗らせてもらう。異議があっても無くても一つの結果は変えられず、意味を成さないのは聡いお嬢さんなら理解してると思うがな」
「……」
なら名乗る必要は無いじゃない。喉の奥から漏れそうになった言葉をグッと抑え、溜息を吐いたイブは男……ジョン・ドゥへ向き直る。
「ジョン」
「何だい? イブのお嬢さん」
「現実へ戻りたいのだけれど、出口は向こうで合ってる?」
「そうとも言えるし、違うとも言える」
「……謎掛けでもするつもり?」
「謎か。お前さんが俺の話しを謎と解釈するのなら、お前さんの中では謎なのだろう。けど、俺は一切謎なんて出しちゃいない。一言も、一句違わず、切実にな」
「ジョン・ドゥなんて名前が謎じゃない」
「此処ではそれが俺の名前だ。嘘は言っていないぜイブのお嬢さん」
貴男の存在そのものが謎だ。名無しの権兵衛……下層街に法という秩序が存在しない以上、下層民は強者が敷くルールに則って生きている。ならばジョン・ドゥはそのルールによって名前を奪われた、或いは失ったと考えるのが妥当だろう。
いや、そもそもこの老人と無駄に話しをしている場合じゃない。己は計画を成すために動かねばならないのだ。幼少期の時代は到の昔に枯れ細り、既に成人を超えた人間。大人として、次代の子らが歩む道を切り開く責務がある。誰一人として己を理解してくれる者が居なくとも、茨の道を進む義務がある。だが……。
「一人ってのは悲しいね、お嬢さん」
「……」
「一人じゃ限界があって、志を同じくする誰かが居ても袂を分けちゃ意味が無い。けど、厄介なことに人間ってのは孤独であればあるほど一人で事を成そうと躍起になって、過ちを繰り返す。俺が知る友達も同じ間違えを何度も繰り返していたよ」
ジョン・ドゥのコートに長くなった煙草の灰がポトリと落ち、砕け散った。白い滓がバラバラに飛び散り、その様はさながら粉砕された硝子片。
「……私を知る人なんて誰も居ない。ネームレスも、カナンも、両親も、みんな私から離れて消えてしまった。私は計画を成す為に存在していて、みんなが生きられる世界を取り戻す為に生かされている……。それは今も昔も変わらない。いえ……変えちゃいけない」
「君の心が絶望に染まっていてもかい?」
「……」
「お嬢さん、君はまだやり直せる。生きる意味を履き違えていても、仲違いした片割れが偽りの神に付き従っていたとしても、絶望するにはまだ早い」
「貴男、カナンのことを知っているの!?」
「俺に知らないことは無いさ。全部知っていて、理解しているからこそこうして話が出来ているんだぜ? だが全てを話し、教えるにはまだ早い。早すぎるから助言を与えているんだイブのお嬢さん」
フッとジョン・ドゥの姿が肘掛け椅子から掻き消え、イブの背後に現れる。銀翼を展開しようにも、夢幻の中に立つ彼女には武器と成り得る身体装着型兵装は存在しなかった。
「敷かれたレールを運命と捉えるのか、自らが敷くレールを運命と見定めるのか。それは幾何千年と紡がれてきた人間の自問自答であり、決まった答えがあるワケじゃぁない。だがイブのお嬢さん、君が背負う使命や運命はみんなの願いなんだ。他人の意思に触発された祈りなんざ……宿命でもなんでもない。ただのマリオネットを操る繰糸さ」
「そんなことッ!!」
「分かってるとでも言いたいのかい? 理解しているとでも? 違うね、君は頭で分かっていても心が受け付けない頭でっかちなだけだ。イブのお嬢さん、君を見ていると俺は自分の息子を思い出しちまう。君と同じように自分だけを信じて、心の慟哭に耳を傾けないバカ息子。俺ぁ……いっつもアイツを心配していたよ」
煙草の香りを残したまま再度ジョン・ドゥは姿を消し、何時の間にかソファーの上で眠っていたダナンを見下ろす。影で覆われた双眼に深い悲しみを帯びながら。
「息子って……貴男、まさかダナンの」
「それ以上は言ってくれるなよお嬢さん。ダナンの中じゃ俺ぁもう過去の人間で、この世に存在しない奴なんだ。やっとこさ変わり始めた息子を見守れない親なんざ亡霊と同じ。お嬢さん、道具ってのは使い方次第……やり方が悪けりゃ悪にもなるし、良ければ善にもなる。それは人間も同じことだと俺ぁ思うね」
「……後悔は無いの?」
「後悔は無いと言えば嘘になる。だが、後悔して足を止めたら人間は進めない。挫けても、転んでも、足を引き摺ってでも進み続けることに意味がある。辛いと嘆いて、苦しいと嗚咽を漏らしても……生きていれば次がある」
「ダナンは……貴男の言葉を、教えを胸に刻んで生きているわ。涙の一滴も流さずにずっと」
「イブのお嬢さん」
「……」
「ネフティスに記録された座標は希望の在処だが、絶望の狼煙でもある。先ずは中層街に行くことだけを考えろ。其処に俺の協力者がいる」
「協力者?」
「あぁ、いずれ向こう側から接触してくるだろう。大丈夫だ、ダナンが覚えている。心配する必要は無い」
機械腕でダナンの頭を乱暴に撫で、玄関を指差した老人は「出口じゃないが、進むべき道は向こうだ。バカ息子も時期に目を覚ますだろうよ」と話し、胎動する部屋を悠々と歩くと椅子に腰掛け新しい煙草を口に咥えた。
「……ありがとう、ジョン」
「礼は言うな。全部……君が納得する未来を掴んだ時まで取っておけ」
「そう? なら行くわ。さようなら……ダナンのお父さん」
「血が繋がっていないが……自慢の息子だ。良い男に成るぜ? 俺が保証する。嫁に来いよイブのお嬢さん」
「考えておくわ」
崩れ、罅割れる部屋を飛び跳ねながら出口へ向かい、淡い光の中へ溶けたイブ。そしてその後ろ姿を見送ったジョン・ドゥは紫煙を吐き出し。
「頑張れよ」