長い夢を見ていたような気がする。今の時代とは異なる太古の記憶、名も知らぬ誰かの目を通して見た夢幻の欠片。己がネームレスと呼ばれ、二人の姉妹……イブとカナンを相手に問答を繰り返す不可思議な夢。
ムクリと身体を起こし、機械腕の接続ソケットに繋がっていたコネクト・ケーブルを引き抜いたダナンは固まった関節を解きほぐすように腕を伸ばす。ゆっくりと、上体から下腿にかけてコンクリートのように固まった筋肉を解した青年は低い駆動音を発する機械腕を一瞥すると鋼の掌を握り締める。
夢は記憶の整理であり、不必要な過去を記憶の底に押し込める脳機能の一部でしかない。他人の夢を垣間見たと感じるのは一種の共感覚に似た妄想の産物で、己が違う誰かになったと思うのは錯覚だ。己の名前はダナン……ネームレスなどという名無しを体現する名ではないのだから。
「……」
だが、妙にリアリティのある夢だった。見たことも聞いたこともない場所と、自分自身がその場に居るような感覚。白昼夢と呼ぶに値する奇妙な夢を思い返していたダナンは馬鹿馬鹿しいと頭を振るい、汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て洗面所へ向かう。
「……」灰色の髪とドス黒い瞳「……」褐色肌には幾重もの白い古傷が浮かび上がり、痛々しいことこの上なく「……」右腕の代わりにぶら下がっている機械腕は鈍色に照っていた。
蛇口を捻り、錆が混じった水を両手に溜める。徐々に錆の色に染まった水で顔を洗い、パリパリに乾いたタオルで水滴を拭う。繊維の柔らかさを失ったタオルは一度顔を拭う度にダナンの無精髭を一本ずつ抜き取り、鼠色の生地を薄茶色に濡らす。
深い溜め息を吐き、鋼の指で肌に触れたダナンは眠っているイブとリルスを一瞥し、新しいシャツを着ると黒いボディアーマーを身に纏う。
治安維持兵の男と会う前にやるべきことがあった。それは下層街に住む人間にとって馬鹿らしいと鼻で笑われ、無意味だと卑下される行為。しかし、ダナンにとってその行為は儀式めいたものであり、必ずと云っていい程毎年繰り返されるもの。アーマーの上にコートを羽織ったダナンは銃器類をホルスターに収め、刀剣ヘレスを腰に差す。
「……」
武器弾薬は必要な分を持っていけばいい。替えのマガジン二本とマグナム弾が装填されたスピード・ローダー三つ。もし用事を済ませる前に無頼漢構成員を見つけたら殺す。己に害を成す人間が牙を剥くのならば、鉛玉を額に撃ち込むだけ。それは変わらないし、下層街で生きている以上変えられない生存戦略の一部なのだ。
だが……今のダナンには果たしてそれが正しい方法なのかと疑問に思う余裕があった。過酷な生存競争を強いる弱肉強食の理に異を唱えるのは個々の感性に依るものだが、強者こそが絶対である故に弱者は異論を提する権利は無い。搾取され、奪われ、殺されるのも当人が弱いからだと理由付けられ、其処に感情や思考の一片も挟まる余地は無し。
冷蔵庫から酒瓶を一本取り出し、新聞紙と緩衝材で包んだダナンは足音を抑えて玄関へ向かい、コンバット・ブーツを履くとドアノブを握って慎重に玄関扉を開く。生ぬるい空気が頬を撫で、蛆が湧いた死体の腐乱臭が鼻腔を刺激した。
細い路地に面するアパートはお世辞にも治安が良いと言い切れず、侵入者撃退用セキュリティ・システムも充実していない。少し気を抜けば路地に居座る浮浪者が銃を握って無理矢理押し入ろうとするし、恨みを買った住居者が第三者によって殺されることも絶えない環境だ。自分の身を守り、同居者の安全を守るためにはセキュリティに金を掛ける必要がある。
ジッとダナンを淀んだ瞳で眺めていた浮浪者は薄汚れた小型リボルバーを懐から抜き、撃鉄を下ろす。シリンダーが回り、引き金に指を掛けた瞬間額に穴が空く。
ダナンがマグナムを抜く前に玄関扉に取り付けられた認識ターレットが展開され、登録者以外の人間へ弾丸を撃ち放つ。一発、二発、三発と……絶え間なく木霊する銃声が無造作に死体を積み上げ、量産し、流れ出る鮮血が路地の排水溝へ垂れ落ちる。
弱者に選択の自由は無い。生きるために息を殺していようが、下層街では更なる弱者を踏み台にして人は生きている。最底辺など存在しない奈落……弱者が弱者を嬲り殺し、強者に全てを奪われる無限地獄が下層街。積み上がる屍に群がる死体漁りが新鮮な臓器を抜き出し、乾いた血がベッタリと張り付いた保存容器に入れる様も下層街じゃありふれた光景で、驚くに値しない些細なこと。
鉄階段を降り、耳障りな肉の音を無視したダナンの腰に少年がぶつかった。窶れた頬と疲労が蓄積した両目。ダナンの冷たい瞳から視線を逸らし、通り抜けざまにマガジンを一本スッた少年へマグナムの銃口が向けられる。
「……」下層街で弱さを見せれば次に殺されるのは己で「……」優しさや甘さは不要と断じるべき死への導火線。
「……」
小さく舌打ちし、リボルバーをホルスターに差したダナンは煙草を口に咥えて火を着ける。此処で殺さなければと叫ぶ思考を理性で黙らせ、何故いつものように引き金を引かなかったと疑問を浮かべる殺意へ紫煙を吐く。
下層街に敷かれた理は容易に覆せるものじゃない。誰か一人が抗ったとしても絶対的な現実に押し潰され、下層の塵屑に果て消える。そんなことは百も承知だし、ダナンも知らない筈が無い。理想を抱いたとて……それを実現させることは不可能であることも、知っている。
夢も無ければ希望も無い。絶望だけを見つめ、現実を受け入れることで手に取れる命がある。それはそれ、これはこれと割り切り、水底に落ちてしまえば暗闇に身を預けることができる。緩やかな破滅に揺蕩い、忍び寄る死の影を殺しながら下層街というゴミ箱で生を願って、命の意味を知りたいと祈りを捧げたまま死に絶える。己が迎える結末とは……何も得られずに死ぬ運命なのだろうと、ダナンは心の何処かで自分が知らぬ内に納得していた。
死にたくない。当たり前だ、生きる意味を見つける前に死ぬなんて己が許せない。
生きていたい。当然だ、己は死ぬために生きているワケではないのだから。
生き残るために他者を蹴落とし、死を否定するために殺して奪う。自分が強者であることを証明し続け、弱者を踏み台にして。だが、この論理はダナン自身をも無限地獄へ誘う罪悪の牢を成すものであり、彼を捉えて離さぬ悪魔の理論。誰もが正気を失い、荒廃した狂気と暴力へ身を委ねる異常な環境に慣れた青年は、目の前に立ち塞がった二人の男を見据えた。
「なぁ兄ちゃん、少し話しをしようぜ? なぁにその」
銃声が鳴り響き、男の頭を破裂させた。銃口から上る硝煙が掻き消える前に、身を屈めて機械腕の超振動ブレードを展開したダナンは残った一人の腹へ刃を突き立てる。
「な―――あ」
血が刀身を伝って滴り落ち、アスファルトに赤い点を滲ませた。
「俺は甘くはない。なぁ……お前も下層街の人間なら分かるだろ?」グリグリとブレードを捻り、内蔵と骨を粉砕したダナンは呻く男を蹴り飛ばし「あの餓鬼を殺さなかったのは理由がある」とマグナムの銃口を血を吐く男の額へ向ける。
「り、ゆう?」
「知りたいか?」
「―――」
「俺も知らない」
弾けたトマトのように男の頭が砕け、途切れた脳髄が露出した。返り血に染まった銃を衣服で拭い、路地の奥から様子を伺う浮浪者を睨みつけたダナンは表通りへ足を進ませた。