居住区の表通りを暫く歩き、浮浪者の死体が転がっている路地裏へ曲がり、すえた臭いに眉間を歪ませる。数発の銃声が轟き、視線を路地の奥へ向けると其処には若い男が老人の腹を銃で撃ち抜き、孫と思われる少女を犯している姿があった。
悲鳴、嗚咽、慟哭、呻き……。下層街に渦巻く感情の大部分は悲哀と憎悪が入り混じった怒りなのだろう。弱者を踏み躙り、己の欲望を満たすことを目的としている人間は常に飢えている。癒えぬ渇きを満たそうするから収まり切らない欲望を曝け出し、他者の些細な幸福を滅却しようと牙を剥く。少女が無理矢理犯されている現実も、柔肌を伝って流れ落ちる一筋の紅も、下層街で生きていれば珍しくもない光景だ。
彼女を助けてやろうとは思わない。老人の命を繋ぎ止めようとも思わない。男の蛮行を否定する気も勿論ある筈がない。だが……目の前の光景が堪らなく不快だった。少女の悲痛な声が何度も耳に反響し、男の荒い息遣いはダナンの奥底に眠る殺意を呼び起こす。怒りを糧とする獰猛な獣性が真紅の眼をゆっくりと開き、殺せと吼え狂う。マグナムを手に取り、引き金に指を掛けろと霞がかった姿で青年の耳元に顕現し、黒い毛皮で覆われた指先を男へ向ける。
どうしようもない現実を変えられる力は銃弾だけ。悲痛な声を止める為の手っ取り早い方法は知っている。マグナムをホルスターから引き抜き、弾倉に残る弾丸を確認したダナンは男の頭に照準を合わせ、引き金を一気に引き絞る。炸裂した火薬は銃弾を弾き飛ばし、男の頭を木っ端微塵に破壊した。
飛び散る脳漿と砕け散った頭蓋の欠片。噴き出す鮮血に身を朱色に染め、恐怖の色をありありと浮かび上がらせた少女は硝煙を銃口から吐き出すダナンを瞳に宿し、濃い血の臭いに堪らず胃の内容物を吐き出す。
「……」
少女の横を通りすぎようとしたダナンの太腿にナイフの刃先が刺さった。涙目の少女は狂気的な笑みを浮かべ、乾いた笑い声をあげる。
「……死ね」
「……」
「あと少しで、殺せたのにッ!! 邪魔しやがって! アンタがコイツを殺さなかったら、満足した瞬間にアタシがコイツを殺す事が出来た! 死ね、死んじまえッ!!」
何度ダナンの足にナイフを突き立てようと血が噴き出すことは無い。当然だ、ダナンは全身にボディアーマーを纏う遺跡発掘者。人間以外の生物或いは廃棄された殺戮兵器と戦う為、ナイフ程度の攻撃は無意味なのだから。
何をどう動けば正解だったのか……その正しい答えを提示できる人間は下層街に存在しない。誰もが弱肉強食の理に疑問を抱かず、自分だけが生き残ることを目的としている世界で正しさを問うことは間違っている。ダナンの行動は端から見れば哀れな少女を助けようとしたように見えるが、彼は単に自分が抱いた不快感を拭いたいと、騒ぎ立てる獣性を鎮める為に男を殺したに過ぎない。そして、少女もまた相手が性欲を満たす瞬間まで耐え、生まれた隙を突いて殺そうとしていた。
スッと……少女の眉間へ銃口を向けたダナンは引き金に指を掛ける。徐々に力を込め、撃鉄を半分まで下ろしたところで深い溜息を吐き出した。
殺意を持ってナイフを突き立てる少女を殺したところで何になる。此処で殺さずとも、どうせ最後には別の誰かが彼女を殺す。いや、運が良ければ生き残る術を見つけるだろう。ホルスターへマグナムを押し込み、少女から視線を外したダナンは路地の奥へ足を進ませる。
「待てよこの―――ッ⁉」
ダナンの後を追おうとした少女がバランスを崩し、硬いアスファルトの上に転がった。股を押さえ、歯を食い縛る少女を一瞥した青年はまた溜息を吐き、憎悪と憤怒に歪んだ瞳をジッと見つめる。
「何だよッ!! 殺すなら」
「大丈夫か?」
「……は?」
「大丈夫かと聞いている。どうなんだ、ハッキリしろ」
身体のことだろうか? それとも生きるか死ぬかの覚悟のことだろうか? 今まで一度も安否を問われたことの無い少女は目を瞬かせ、ダナンを見上げる。
「大丈夫なわけねぇだろ! 何だ、殺すなら殺せばいい! どうせアンタも私を」
フワリ―――と少女の身体が宙に舞い、大きな背に背負われる。ゴツゴツとしたボディアーマーの硬さと煙草臭い煤けたコート。状況を飲み込めない少女はこれ見よがしにナイフを逆手に握り、鈍色の刃をダナンの首に当てた。
これならこの男を殺すことが出来る。甘さや優しさを見せた心を恨むがいい、後悔の下に沈んでしまえッ! 唇を歪に歪ませた少女は首を掻っ切り、鮮血を顔全体に浴びる。
「……殺そうとしているなら無駄だ」
「―――」
「俺は死なない。そんなちんけなナイフで殺せたらお前に百万クレジットやるよ」
血が噴き出る傷口から白い線虫が這い出し、瞬時に修復する。現実離れしたありえない光景に少女は小さな悲鳴を漏らし、口を手で覆うとナイフを滑り落とす。
普通……常人ならば首をナイフで斬られ、救命措置が間に合わなければ命を落とす。銃弾を何発も腹に撃ち込まれたら死ぬだろう。だが、少女を背負った青年はそんな道理を蹴り飛ばし、何も無かったと言わんばかりに歩を進める。その姿に少女は顔を青褪め、どうにか逃げ出そうとアレコレ思考を回す。
「なぁ」
「な、なによ!」
「お前に……いや、何でもない」
「言うならハッキリ言いなさいよ!」
「……親は居るのか?」
「はぁ? 親なんて居る筈ないでしょ? 馬鹿なこと言わないで」
「そうか、あぁ、そうだよな」
一人納得したように頷くダナンと、憤りながらも呆れた表情を浮かべる少女。抵抗する術を見つけることが出来ず、諦めた風で頬をコートに乗せた少女は路地に転がる老人の死体を一瞥する。
親の顔も知らなければ、自分が何処で産まれたのかも覚えていない。路地のゴミを漁り、腐った食べ物を口にしては吐いていた記憶しかない少女は、既に命を失った老人が育ての親であると今更ながら思う。
弱者が下層街で生き抜くことは難しい。女子供は男に搾取され、男は強者に全てを奪われる現実を嫌が応でも理解している少女は老人の死も弱者であるが故にと認識し、仕方がないと切り捨てる。思い出があったとしても、死んだ者には意味が無いと自分に言い聞かせて。
「アンタは」
「ダナンだ」
「アンタ」
「ダナン」
「……ダナンは家族が居るの?」
「……居候が二人居る」
「居候?」
「色々とあった。成り行き染みたものだが……アイツ等が俺の家族といっても過言じゃない。お前、名前は?」
「在る筈無いじゃない。名前なんて持ってるのは運が良い奴だけじゃん。アタシには無いわ、あのオッサンからもずっと餓鬼なんて呼ばれてたんだから」
「そうか」
「ダナンは何でアタシを殺さなかったの? 教えなさいよ」
「お前は何時か死ぬ」
「……」
「別に今俺がお前を殺さなかったとしても、お前は何時か必ず死ぬ。肉欲の坩堝に捕まって欲望の捌け口にされるか、無頼漢の構成員として全身機械体になって死ぬか、路地の何処かでくたばるか……。明日か明後日の命を助けたところで意味が無いのは知ってるだろ?」
「アタシはッ!」
「でも」
多分、それは間違っているんだと思う。ぼそりと呟いたダナンの、ドス黒い瞳が僅かに揺らめき、吼え猛狂っていた獣性が鳴りを潜め。
「最低限の選択は残されるべきだ。どんな人間でも自分の明日を選び取る権利はある。違うな、権利じゃない。これは義務だ。人は自分の明日を選び取る義務がある。違うか? 餓鬼」
「……弱ければ選べないじゃん」
「弱くても選べ。全員が全員強いワケじゃない」
「難しいことは分かんないんだけど」
「考えろ」
「……」
「人がどう生きて、どう死ねるかなんてことは俺も分からない。だが……動くことは出来る。動いて、抗って、叫んだ先にある未来には納得できると思うんだ。俺は……そう思いたい。死にたくないし、生きていたいから」